【一般区分】 ◆優秀賞 郡 健人(こおり けんと)
自分の歩幅で郡 健人(福岡県)
私は、ずっと「普通に生きたい」と、思っていました。先天性の障がいがあっても、それを跳ね返し、感じさせないような生き方をしたいと思っていました。しかし、今になって考えると、それは少しズレた「普通」だったかもしれません。
私は、先天性ミオパチーという筋肉の疾患と共に生まれてきました。全身の筋力が著しく弱く、出生後間もなく入院。呼吸や哺乳の問題で、約一年間の長期入院を要しました。それでも、両親はいつも見守ってくれていました。四歳の時には、通っていた肢体不自由児通園施設と交流のあった幼稚園に入園することになりました。自身に障がいがあるという自覚は、この時すでにありました。
学生生活は、小学校から大学まで普通級に通いました。その過程で膨らんだのが、「普通」への憧れでした。自分自身の障がいが嫌いだったわけではありません。それでも、周りと出来る限り同じことをできる状態でいたかったのです。それは、プライドだったり置いて行かれる恐怖だったり様々な気持ちが入り混じったものでした。特に印象に残っているのは、小学生の頃の水泳の授業です。どうすればみんなと同じように参加できるかを担任の先生や父と話し合った結果、フィンを着けて参加することになりました。当時は、みんなと遜色ない速さで泳げるようになったことがとても嬉しかった記憶があります。
しかし、憧れの気持ちだけで全てを乗り切れるほど甘くはありません。大学卒業を控えた時期に、身体の異変が起こりました。原因は、呼吸をする筋力の低下でした。就寝中に息を吐き出す力が足りず、無呼吸状態になる時間帯があることが発覚しました。急遽夜間の人工呼吸器導入に向けての検査入院をすることになりました。私は、この入院で大きなショックを受けました。元々筋力のない私にとって、これまで目指していたような「普通」に合わせる生活は過度な負荷だと伝えられたからです。それと同時に、私が抱えている障がいは、自身で想像していたよりもうんと重いものであることを痛感しました。私は、悔しさや落胆でどうしていけばいいのか分からなくなりました。
そんな時に、呼吸リハビリは始まりました。当初は、とにかく機能を戻すべく張り切って身体を動かしすぎて注意を受けました。担当の理学療法士さんに「現状を維持することが成果だからね。」と言われても気持ちは焦っていました。
リハビリが始まり数日が経ったころ、ある患者さんと診療台が隣になりました。整形外科に入院されていたその方は、とても明るく私にも話しかけてくださいました。
「最近、よく頑張りよるね。」
「私は、退院したらまた自転車に乗って出かけるとよ。」
「でも、無理はダメげな。できるとこまで。」
その方は、事故で右脚を失っていました。それでも、目標を定め、自分の頑張り方で前に進んでいました。私は、その方のリハビリをする姿に、こうした一言一言に衝撃を受けました。そして、私は憧れを追うあまり、いつからか自分のできる頑張り方から離れていたことに気づきました。
今思うと、私自身が障がいを持っていることは弱いことだ、という偏見を持っていたのかもしれません。周りに近づくことだけが正解とばかり思っていたかもしれません。みんなと同じレベルを目指す「普通」でなく、自分の意志を持って「普通」に頑張る。障がいの有無に関わらず、その人ができるその人の頑張り方を見つけていくことが大事なのだと思います。
私は現在、就労事業所に通所しながら患者会等のグループ活動にも参加しています。様々な会への参加は、私の視野を少しずつ広げてくれています。私と似た疾患だけでなく、全く違う部位の疾患の方とも話す機会が増えました。誰かと不安や希望を共有することは、大きな安心感を生むことを教えてもらいました。
私にとって大きな転機となった呼吸器を使うようになって、もう八年が経ちました。あの頃より、少しはマイペースを覚えられたと思っています。これからも、より多くの人と出会い、それぞれの「普通」を学び続けたいです。そしていつか、頑張り方に迷った人が安心して話せる場所づくりに携わりたいです。