【高校生区分】 ◆優秀賞 小辻 英里加(こつじ えりか)

私が伝えたいこと小辻 英里加(三重県立名張高等学校(定時制)3年 三重県)

私は、中学二年生の時に軽度の知的障害と診断されました。診断を受けるまでの間は苦痛とも言える生活でした。周りの人とのコミュニケーションが取りづらく、作業ペースも遅く、理解力が乏しく、周りからバカにされました。

診断を受けた当初は、『障害者』として優しい扱いを受けて嬉しかった反面、『障害者』になってしまったという複雑な気持ちがありました。当時の私は、「障害者は可哀想」としか思っていませんでした。根拠のない、ただの偏見でしか見ていませんでした。

実は、私の弟にも障害があります。弟は障害のためしゃべることができません。歩くのもトイレに行くのも誰かの助けが必要です。私はそんな弟が大嫌いでした。両親は弟ばかり気にかけていて、私のことは後回しで、次第にそれが虐待に発展して、辛い思いばかりすることになりました。その間も弟は、眩しいくらいの笑顔を見せていました。私はその笑顔も嫌いでした。

ですが、「大嫌いな弟」から「自慢のできる大好きな弟」になったのは、私にも軽度の障害があると分かってからでした。きっかけは、弟が保育園に通い始めた時です。私は両親に代わって送り迎えをしていたのですが、弟は家にいるといつも笑顔なのに、登園する時はいつも泣いてパニックを起こしました。最初は気にとめていませんでした。保育園に通い始めて三ヶ月が経った時、私の学校が早く終わり、いつもより早く迎えに行った時です。保育園の先生が弟に対して、酷い嫌がらせをしているところを見てしまいました。その時、私は「ゆづ君を守らな」と思いました。その先生のところへ行き、見たことをすべて伝え、「大事な弟を虐めるな」と言って弟を連れ帰りました。帰り道、弟は「お姉ちゃん、ありがとう」と言葉の代わりに笑顔で語りかけてくれました。今まで嫌いだったはずの笑顔は、すごくかわいくて、その笑顔を見るとホッとしました。私はやっぱり弟が大好きなんだと心から実感しました。

私が中学を卒業し、両親が離婚し、弟は施設に入り、私は進学をあきらめ就職しました。就職してからは『障害者』として虐められたりバカにされたりしました。「障害者は生きている価値がない」とか、「障害者は人類のお荷物」とも言われたことがありました。

いつも疑問に思っていたことがあります。『健常者』は『障害者』のことをどう思っているのか?

障害を持っている私たちには、確かにハンディーがありますが、それは健常者も同じだと思います。世の中、完璧な人間はいないと思うし、私たちも健常者と同じように感情があります。健常者だって自分の得意・不得意があるはずです。ただ私たちは、得意・不得意が普通よりはっきりしているだけの事なのに、それが嫌われたりします。私たちは『得意』より『不得意』が多いかもしれません。でも、得意なことだと周りの人よりも優れた才能を発揮します。例えば、私は記憶力が優れていて、通りがかった車の番号や形などを一瞬で記憶してしまいます。弟は、自分の好きなアニメのキャラクターを全部覚えていて、写真を見ただけで写真とネームプレートを組み合わせることができます。それを聞いて、「だから障害なんやろ」と言ってくる人がいますが、それは違います。それは『障害』ではなく、一人の人間の『個性』であることを認識してほしいと思います。

そして、国や政府にお願いしたいこともあります。さまざまな福祉サービスを受けられるのはありがたいですが、障害の度合いによって受けられないサービスや制度もあります。その審査基準を広げていただき、最も軽度な人でも利用しやすくしていただきたいです。そして、障害者施設を増やしていただき、職員も増えるような改革を考えてほしいです。

そしてもう一つ、『障害者雇用制度』の名称を変えてください。『障害者』という言葉は、私たちにとってとても嫌な言葉です。外国人が『外人』と呼ばれるのが嫌なように、私たちも『障害者』と呼ばれるのは、周りと違ったものとして見られるようで嫌です。私たちは障害があっても、周りと同じ人間なんだから。

最初に、私も「障害者は可哀想」としか思ってなかったと書きました。自分にも障害があると分かり、弟と接していて気持ちが変化し、今は「可哀想」ではなく「最高」の人間なんだと思うようになりました。

今、伝えたいことは、どんな人でも一人の人間として見てほしい。困っている人がいたら、すぐに手助けをしてあげてほしい。そうすれば、この世の中は、ハンディーのある人間もない人も、もっと共存しやすくなると思います。心の輪を広げることができると思います。

最後に、私は『障害』があって良かったと心の底から思っています。なぜなら、人の痛みや辛さが分かるようになったから。他の人たちには、二度と嫌な思いをさせないって心に誓うことができたからです。