【一般区分】 ◆佳作 久保田 美津穂(くぼた みづほ)

男の子の友達久保田 美津穂(広島市)

今から五十年以上も前、私が小学校一年生の時の事です。同級生にとても心優しい「男の子の友達」がいました。彼は小児麻痺だったのでしょうか、足が不自由で、今思い出すと少し知的障害もあったようでした。まだ小さい私よりはうんと体が大きく、いつもニコニコしていて、おっとり優しく話す子でした。

まだ支援学級など無い時代のこと、教室は二階にあったと思います。

二時間目と三時間目の間にあった、十五分休憩になると子供たちは皆競争のように校庭へ駆け出します。私は他の友達何人かと一緒に、彼を誘って教室を出ます。階段では大きな彼をおんぶしては立ち止まり、やっと下まで降りたらもう休憩時間終了のチャイムが鳴ります。今度はまたおんぶしたり手を引いたりして、階段を昇って教室に戻る。とても間に合わない。そんな毎日でした。

そんな中でも優しい彼は、力のない私達にイラつくこともなく、いつもニコニコしていて、「ありがとう」って言ってくれるのです。

でも私は純粋に何とかして、他の皆と同じ様に、友達と一緒に運動場でボール遊びをしたり、池の鯉を見に行ったりしたかった。きっと一年生の休憩時間ってそう過ごすのが当たり前だと思っていたから。

でも思い返すと、なぜか私の記憶の中に、先生や大きな上級生が手を貸してくれた場面はありません。きっとあの時、そばを駆け抜けて行く多くの誰かが見ていたはずなのに。

彼の家は近所でしたから、放課後遊びに誘いに行くこともありました。

当時はまだまだ貧しい時代、特に原爆の大きな被害を受けた広島市内には、戦後のままの姿のバラックがあちらこちらに残っていました。子供だった私には彼の家はそんなおうちのように見えました。

私の記憶の中では、丸顔の彼に似た優しい笑顔のお母さんと暮らしていました。何度かおうちに入れて頂いて、一緒に本を読んだり絵を描いたりして遊んだこともありました。彼と過ごした光景は、何故か今でも私の心に暖かい光を灯しているのです。

彼との思い出はそのあたりで消えています。どこかに引っ越されたのか、転校されたのか、今となっては分からないのです。これほど永く忘れないでいる人なのに、お別れした日の事はまるで覚えていません。

もう五十年以上も前の古い古い小さな記憶となりましたが、今でも彼をおんぶして階段を昇り降りした光景や、間に合わなかった悔しい想いがありありと蘇ります。きっとわんぱく盛りの男の子なら、私よりももっともっと遊びたくて、悔しかったはずです。

今の時代であれば、教室は一階でスロープだってあったでしょう。きっと車椅子も使えた事でしょう。私だって、もう少し知恵があれば、先生にお願いする事も出来たでしょうに。あの時代に障害を持って生きるには、どんなに親子で苦労されたか、自分が大人になってから何度も何度も思い返しました。登下校はどうされていたのか。体育の授業や遠足、運動会など、どう参加されたのか。私も幼い頃で記憶にはありません。

もう私も六十歳を超えたという事は、心優しい彼も、きっと同じ年齢をどこかで元気に生きていらっしゃるはず。

今、あの時代より社会は便利に豊かになったけれど、果たして彼にとって、生きやすい、生活しやすい世の中になっているのでしょうか。

パラリンピックが盛大に開催されるほど、社会的に制度が整い、障害のある人もスポーツを楽しみ、世界でも活躍できる時代になりましたが、まだ休憩時間に運動場で遊べない子や、運動会に参加できない小学生はいないでしょうか。

そして大人になった私は、果たしてあの頃の気持ちで共に学びあい、助け合う行動ができるのか。今だからこそ出来る事もきっとあるはずなのに。

そして思うのです。彼は一緒に過ごした小学校一年生の日々や、私のことを覚えていてくれているでしょうか。