【高校生区分】 ◆最優秀賞 久保 天清(くぼ てんしん)

チャレンジド久保 天清(鹿児島県立鹿児島工業高等学校2年 鹿児島県)

私は生まれつき肘から先が無い、世間的に言う「障害者」だ。

人間の顔がみんな違うのは誰もが知っている当たり前のことだ。産まれたときの体重も身長も髪の毛の本数も、何もかもが違う。自分と全く同じコピーなどこの世には存在しない。

ではなぜ、産まれたときに、手がなかったら、足がなかったら、「障害者」という枠に放り込まれてしまうのだろうか。それは、大多数の人々の当たり前なこと、その人たちにとって普通なことを、社会全体の当たり前にしてしまっているからだと私は思う。私のこの体は、私にとって普通の体であり、この体と共に生きることが、私にとって当たり前のことである。もちろん自分の腕を見て、「障害だ」なんて思ったことは、生まれてから一度も無い。なのに周りの人々は「可哀想」「不自由そう」というような見方をし、「君は障害があるからこの作業は出来ないね。」などと決めつけられることもあった。私はそれがとても悔しかった。そんなことは無いからだ。考え方、工夫の仕方次第で可能性は広げられるということを知っていたからだ。だからこそ私は、示したいと思った。自らの生き方で。生まれ持った体で、自分なりに生きることが、当たり前のこと、普通のことであるということを。

小学生の時、私は足で字を書いていた。腕で字を書く方法も試したが、早く書ける分、丁寧さが損なわれたため早い段階で足を使い始めた。左足の親指と人差し指で鉛筆を挟み、紙がずれぬよう右足で押さえながらという方法だった。硬筆展で入賞したこともあったため、私の字だけが、極端に汚かったということはなかったと思う。そんな自分のことを理解してくれた先生方や友人の支えもあり(ながら)、なんとか無事に小学校を卒業することができた。

中学は特別支援学校ではなく、近所の公立中学に入学した。しかし、中学の板書の量は小学校のものとは比べものにならないくらい多かった。その分、足への負担も多くなっていた。さらに、移動教室の機会も大幅に増えたため、十分間の休み時間で、授業中に書ききれなかった板書を書写し、靴下を履き直し、次の授業の準備をして教室移動までやり切るのは正直厳しいなと思った。そこで私は腕で字を書く練習を始めた。スピードは足よりも格段に上がるが、人に見せられるような字ではなかった。綺麗に早く書く。その練習を繰り返した。腕を痛めることもあった。タコもできた。しかし、全く苦痛では無かった。その努力は自分にとって必要なものであり、当たり前のことであったからだ。その甲斐あって、最低限綺麗に、早く字を書けるようになったし、休み時間にも余裕が生まれた。周りの同級生たちとも、なんら変わりのない学校生活を送れるようになった。

部活動も始めた。小学校の時、クラブ活動で少しだけしたこともあった、ソフトテニス部に入った。ラケットは左脇に挟んで持つことができた。ボールも右腕と顎で挟んで持った。サーブは顔より上にトスを上げることが難しかったので、膝くらいの高さで打つカットサーブにした。みんなと同じ練習もこなした。その甲斐あって公式戦で勝つこともできた。先輩方が引退し、新チームになると、キャプテンを任せて頂いた。チームの代表として貴重な経験をたくさんすることができた。最初はたくさんの人に、「本当に出来るのか」と心配された。しかし、そんな時母は、「あんたはやればできるんだよ」と、何度も何度も背中を押してくれた。結局のところ工夫の仕方でどうにでもなったのだ。自分がやりたい事があり、それができるように必死に努力する。その大切さを、中学校でのたくさんの活動を通して感じることができた。

高校は、鹿児島工業高校に入学した。将来建築系の仕事に就きたいという夢を叶えるため、そして大好きなソフトテニスの強豪校であったからだ。部活動の練習の質は格段に上がり、授業での実習も、専門系の高校ということもあり、中学校の時とは比べものにならないほど繊細な作業が増えた。正直まだまだ難しいこともたくさんある。上手くキーボードを扱えなかったり、木材を腕で押さえながら鋸を挽けなかったり。課題は山積みだ。でも、夢を叶えるために必死になって努力するのは誰にとっても当たり前。手がないからなんだ。挑戦すれば必ず結果がついてくるのだ。そんな私の背中を押してくれる人がいる。そんな私を支えてくれる人がいる。そんな私を見て、「自分も頑張ろう」と思ってくれる人もいる。

私はこれからも示していきたい。「障害者」というレッテルを貼られた人間でも、生まれ持った体で、自分なりに生きれば、努力を惜しまず挑戦し続ければ、夢を叶えることが出来るということを。