【中学生区分】 ◆最優秀賞 薛 知明(せつ ちみん)

子ども食堂は社会への窓口薛 知明(名古屋市立若葉中学校2年 名古屋市)

私の家は、家族全員が自閉スペクトラム症という発達障害を抱えている。タイプはそれぞれ違うが、全員に共通しているのは、好きな分野についての知識や技能が突出し、学校の成績もトップレベルの一方で、情緒や社会性が非常に幼いということだ。主治医の先生方によると、私は「情緒が幼児並み」らしいし、父は「社会性が壊れている」と言われた。

母は、いじめ、虐待、場面緘黙、引きこもりなど幼児時代から今までの体験が頭の中で自動再生されていることで、時折興奮したりうつになったりしている。私が小学四年生のとき、母が長いうつ状態に陥っていた。外国人の父は当時既に引きこもり生活になっていて、家族それぞれが自分のことで手一杯だった。以前から孤食が当たり前の家だったが、一時期食べるものが食パンしかない状態だった。夏休み中に私の体重が減ったことを担任の先生から聞いた母は驚いて学校の栄養士さんに相談したが、そもそも母は料理ができない。ただ、私の生活にあるものが加わった。
「子ども食堂」だ。

私も母も、初めての場所や人が恐ろしいが、体の健康も大切だ。障害者用の福祉乗車券を利用して地下鉄やバスを乗り継ぎ、十か所近くの子ども食堂の常連になった。どの食堂も開催日が月に一日から三日程度なので、それらを組み合わせ、週に二回ぐらいは栄養バランスの取れた食事をおなかいっぱい食べられるようになった。

母は、早い段階で私たちの障害のことを子ども食堂に伝えた。私は、スタッフの方がにこやかに話しかけてきても黙り込んでいたが、母は、スタッフ全員が親切で、暴力や暴言と無縁な場所なので安心できると言い、食堂の人と話すようになった。食事を終えて、
「この料理はどうやって作るのですか。」
と尋ねた母に、食堂の人はごみ袋から空の容器を拾い上げて見せ、
「これで味付けするだけです。」
と説明していた。また母は、子ども食堂のフードパントリーで、
「この野菜は初めて見ました。どう調理すればいいですか。」
と熱心に聞いていたが、私は母が子ども食堂の人と話すのを見ているのも怖いので、母に、
「人に話しかけたり質問したりしないで。」
と頼んだ。数日後、母の相談を受けた「先生」からメールが来た。「先生」とは、私が通っていた療育センターの先生で、センター退職後は児童館で親子向けのソーシャルスキルの先生をしている人だ。
「お母さんは幼いころに家庭で学べなかった社会性を、いま子ども食堂で学んでいます。その邪魔をしてはいけませんよ。あなた自身の社会性を育てるためにも必要なことです。」と書かれていたので、怖いけれど我慢することにした。

やがて我が家の食事は、以前子ども食堂で出されたのと同じ味のスペイン風オムレツ一色になった。その後、具が日替わりで変化するようになり、この数年間、カップ麺ばかりだった父も喜んで食べるようになった。父は調子のよい日は私に英語や歴史・地理の講義をしてくれるようになり、来日前は中学の先生だったという父の、教壇に立つ姿が浮かんでくるような気がした。

もともと食事目当てで通い始めた子ども食堂だが、母に人と会話する自信をもたらし、父をも変えた。私は今、子ども食堂に行くたびに、スタッフの人と挨拶や会話ができるように自分を奮い立たせている。食堂に早く到着したときは、フードパントリーの袋詰めのお手伝いもした。子ども食堂は、私たち家族にとって社会につながる窓口だが、他にもこのような窓口はいろいろある。「怖いけれどちょっと楽しみ」な気持ちでいろいろな窓口を覗いて様々な人たちとつながり、この社会の一員として成長していけたらと思う。