【一般区分】 ◆優秀賞 原子 博子(はらこ ひろこ)
自然な眼で原子 博子(相模原市)
介護保険法の施行から二一年が過ぎ、『介護』『福祉』という言葉は、より私たちの身近になりました。街のバリアフリー化も進み、外出先で車椅子の方を見かける機会も増えました。
私の父は、今から三一年前に脳幹梗塞で倒れ、以来亡くなるまでの一七年間をベッドと車椅子で過ごしました。はじめの3か月は生死を彷徨い、ようやく容態が安定してからも、重度の麻痺が残りました。車椅子へは少しの時間座っているのがやっとです。食事もむせたり、こぼしたりしながら、何とか食べているといった状態でした。
当時、高校生になったばかりだった私が、社会人になる頃、ようやく父にも、出掛けられるだけの体力が付きました。そこで私は、母と一緒に父をあちこちへ連れて行きました。父は元々、外に出かけることが大好きで、私は幼い頃から、色々な所へ、ドライブや旅行に連れて行ってもらいました。そんな父の事ですから、外へ出かけられることをとても喜び、楽しんでいました。また母も私も、再び生きがいを見つけた父の姿を、嬉しく思っていました。
ところが当時、車椅子での外出は、随分不自由な思いをしました。また、障害者を見る機会が少なかったのでしょう。私たちは行く先々で、ジロジロと珍しいものを見るような人の視線を感じました。お店で食事をする時、父はエプロン代わりに、黒いビニールゴミ袋を首にかけます。母が食べさせては、食べこぼすし、むせるし、ヨダレも出ます。水を飲めば鼻から出ます。お店の人も、お客さんも、迷惑そうに怪訝な顔でジロジロ見ます。私はいつも申し訳なく、肩身の狭い思いをしていました。
法の整備に伴って、スロープの設置など物理的なバリアフリーは、少しずつ進んでいましたが、人々の心のバリアは、まだしっかりと存在していました。
それでも飛行機や車に乗って、日本国内を旅し、父にも自信が付いた頃のことです。父から、元気な時に叶わなかったハワイ旅行に連れて行って欲しい、と懇願されました。アメリカはバリアフリーの進んだ国だと知っていた私は、「車椅子でもなんとかなるだろう。」と、姉家族の協力を得て、父をハワイに連れて行きました。
意外なことに、ハワイでも段差や狭い通路など、不便な所は沢山ありました。それでも空港から、バスから、お店から、全てが私達には快適でした。スロープやエレベーターのない所は、通りがかりの人やお店の人が、当たり前のように快く手伝ってくれます。海にはビーチ専用の車椅子があり、父は何十年ぶりかで、波の中に入る事ができました。
でも、何よりうれしかったのは、夕食のために入ったレストランでのことでした。
いつものように父がゴミ袋エプロンを着けて料理を待っていると、店員の女性がこちらを見ています。「ああ、こっち見てるな。何か言われるかもな。」と、私は身構えました。その店員さんは、ツカツカと父に近づくと、にっこり笑い、とても明るい声で、
「オー! パパー、ソーキュート!」
と言いました。そして料理が運ばれると、
「エンジョイ ディナー」
と言ってウインクしました。食事中は、むせようがこぼそうが、誰も気に留めません。
普段、肩身の狭い思いをしていた父や私にとって、お店に、人に、受け入れられた気のする特別な経験となりました。
アメリカのバリアフリーは進んでいる。それは、単に物理的なものではなく、まさしく心のバリアフリーでした。
あれから一五年以上が過ぎ、日本人の心のバリアフリーも随分進んだと感じます。障害者に不親切だったり、ジロジロ見たりする人はあまりいない様に思います。
しかし、人々には『見ては失礼だ』『下手に関わると気を悪くされるのでは』といった心理が働き、かえって不自然なほど無関心を装っているようにも見えます。
今、私には掛けたい言葉があります。それはデザインのかっこいい車椅子や、その方の体に合わせて工夫された車椅子を見た時に言いたくなる、『かっこいい車椅子ですね』『いい車椅子に乗っていますね』という言葉です。あの時の父と私のように、その言葉で胸を張ってくれる人がいるのではないか、そう思うからです。
眼鏡をかけている人を見ても、何も特別と感じないのと同じように、車椅子や杖を使っている人の事も見てほしい。
ハワイの人々が教えてくれた、排除でも拒絶でも無視でも無関心でも特別視でもなく、ただ当たり前に、自然な眼で受け入れてくれる。それこそが、本当のバリアフリーなのだと思います。