【一般区分】 ◆最優秀賞 銘苅 幸也(めかる ゆきや)

苦しくても、苦しくても銘苅 幸也(沖縄県)

私の身に起きた、数年間の出来事を精一杯あなたに伝えたい。

学生の頃、私は医師から強迫性障害と診断された。強迫性障害とは、ネガティブな言葉や感情を抑えきれず、強く頭に流れ込んでしまう症状だ。放っておくと徐々に嫌悪感は広がる。そしてそれは行動を強制される症状のため日常に支障をきたす。

医師の話では、今まで気にさえ留めなかった「それ」に耐えられなくなっているということだった。私は大学を中退して、ひたすら元の自分に戻ることだけを願った。

当初は症状が酷く、リビングの灯りやちょっとした音に、全身を針で刺されたような鋭い痛みを感じた。

初めての体験に苛立ちと驚きで混乱する私に、母も同様の気持ちだっただろう。母と会話する時は顔を避け、一方的に「ごめんなさいと助けてください」の気持ちをぶつけた。母が涙を堪えてアイマスクを買いに出る姿は今でも鮮明に覚えている。

しばらくの間、食事は目を覆って食べた。パン一枚でも絶対に見ることはできない。ぼんやりした視界の中でおそるおそる食べた。それが一番食べやすかったのだ。また、箸でもフォークでもなく、スプーンを使ったほうが物を口に運びやすいことも学んだ。

部屋から出ることをやめ、そこに在るすべてに怯える生活が始まった。唾は飲み込めず、いつも栗を頬張ったリスみたいな顔。部屋のカーテンを常に閉めきり、暗闇の中に自分を溶け込ませた。曖昧な空間がなぜか居心地が良かった。

頻繁に蛇口へ急ぎ、口いっぱいの唾を吐き出しながら気の済むまで手を洗う。手を洗うことで、一時的に落ち着いたが、やっと立っていられる程に疲労が襲う。それを一日に何度も行うのだから、腰を痛め、左人差し指の爪がもろくなって切れた。それでも手洗い行動を続けなくては心がもたない。

心身ともにクタクタでも無関係に、日々振り回されるストレス、不安、焦りが絶えず押し寄せるので、とてもじゃないが抱えきれないでいた。唯一、眠ることで「それ」から解放された。

悲しかったこともある。自分の気持ちを伝えられなかったことだ。たとえば「不必要に手を洗いたくなってしまう」と相談しても「それなら手を洗わなければ良い」と返される。至極真っ当な返事に、話した自分がバカバカしくなって、それ以上は続けなかった。心療内科の先生も同様でモヤモヤは晴れなかった。

苦しい……けど誰もわかってくれない……。自分の弱さに絶望しながら夜中、枕に顔をうずめて泣いた。「なんで……生きてるんだろう」そう思ったことも一度きりではない。それでも家族とともに、懸命に毎日を過ごした。過ごせたと言ったほうが良いかもしれない。

私の家族は、強迫性障害の小難しい内容を聞く事より、私を第一に受けとめたのだ。最初こそ何度も激しく手を洗う様子に心配していたが、段々何も言わなくなった。怖くて私から謝ろうとしたが「心配するな。できることはするから、とにかく頑張れ」と父に言われた。その父の言葉は私に、大きな温もりと元気を与えてくれた。今でも父と母には感謝しても、し尽せない。

少しずつ「自分」を取り戻すと、一人の淋しさを意識し始めた。父と母に相談しながら、近くのボランティア団体から「私のため」の子犬を引き取った。名前はジャック。人懐っこい性格で、いつも励まされた。次第にジャックに話しかけることも多くなった。なんとなく向き合えたのが、楽だったかも知れない。

訪問看護に頼った頃から「少し頑張ってみてもいいのかな」と希望を持つようになった。テレビの代わりにラジオを聞いたり、おしぼりを携帯したりと日常に工夫を重ね、息苦しい生活を一歩ずつ良い方向へ変える努力をしてみた。特に、友人の理解を得られたことが何より嬉しく、ずっと一人で背負っていた葛藤を断ち切れたのだ。

就労支援では、一人の男性職員に大変お世話になった。私は毎日その方と、雑談を混ぜた相談をしていたが、その度に必ず「大丈夫。絶対に大丈夫だよ」と何度も沢山の勇気を頂いた。

あれから私は、ヘタなりにも「それ」と向き合い続けている。就職もでき、以前の怯える私はもういない。勿論、今でも気を抜けば「それ」に呑まれることもある。それでも「絶対に大丈夫だ」と私は言い聞かせ続けている。

今後は支えてくれた方々に恩返しできるよう胸を張って人生を歩みたい。

私の体験があなたの為になれば幸いに思う。