【一般区分】 ◆佳作 新城 元美(しんじょう もとみ)

人生の壁について
新城 元美 (沖縄県)

人間にはそれぞれ乗り越えられる壁と、乗り越えられない壁があると思う。私の乗り越えられなかった壁は、負け組と呼ばれた事。生活保護で暮らし、家族親戚と上手く付き合えず、いわゆる普通の人が持っている幸せを味わうことができなかった。いい年なのに、親におんぶに抱っこされて、周りに尊敬されることもなく、生きる意味はないのではないかと絶えず思っていた。病気にならなければ両親や姉弟との関係ももっと違ったものだったかもしれない。何の希望もない毎日。いつも辛い痛みがプルプルと湧き上がっている。この痛みはどこから来るのか。親姉弟への愛が足りなかったのか。友人を作ろうとする努力が足りなかったのか。それとも何?私は答えのない問いを自分の中で何度も何度も繰り返していた。

私が精神病を発症したのは、十九歳と二十歳の境目で、友達みんなが若さを謳歌している頃だった。アルバイト先の店長は些細なことでも大きな声で攻め立てる人だった。パワハラに耐えられないならアルバイトを辞めるという知恵も持っていなかった。私は夜も眠れず睡眠薬を薬局で購入し飲んでいた。家の近くの精神科の夜間クリニックへ先生の優しさに甘え毎日通い、自分の恐怖をつぶさに訴えた。また、家の中で電話機の受信音を聞きながら両親の帰りを待っていたこともある。ツーツーと受話器の音は響く「父ちゃん寂しいよ、母ちゃん寂しいよ。」私は相手のない向こう側に涙ながらに話しかけるのである。

想えば病気を発病してから、両親は私を精神科や脳神経外科などいろいろな病院へ連れて行ってくれた。そして、私の気を晴らそうといろんな風景を見に連れて行ってくれた。私は後部座席で泣きわめき、ガラスを必死にたたいていた。私が騒ぎ疲れると雑木林を抜けたある岩壁へたどり着いた。父は言った。「元美、この波はなんといっているのだろうお前には解るかい?答えもなく打ち寄せ悲しみのように見えるのだが、お前も何か答えが欲しいのかい?」

また第一回つつじ祭りにも連れて行ってくれた。父は「元美、よく見ておきなさい。このはげ山が十年二十年後には見事なつつじ山となるのだよ。自然の強さの前には、人間の強さはうすっぺらなものだと思わないかい。」と言い巨人のように佇んだ。

また両親は私を美味しいものを食べにも連れて行ってくれたが、私は半分も食べられなかった。「ごめんね、父ちゃん、母ちゃん。今はとても食べられない。」と泣きながら言ってしまった。すると急に父がポケットからテープレコーダーを取り出し、たどたどしい口調で話す姪の声を聴かせてくれた。思わず姪の名前を叫びクスっと笑った私を見て「ほら、笑えるじゃないか。お前には過去はあるけれど未来もあるぞ。彼女のいい伯母として生きてみないかい。」私はもう一度クスっと笑った。すると父がインスタントカメラで私を写した。「なかなか、良い顔をしているじゃないか。」と今写した写真を私の前においてくれた。

私の病気との戦いはおよそ私の半生をかけた。三十代は病院デイケアでまるでヤンキーのようなものだった。三十代半ばから五十代前半までは病院に入院する戦い。五十代半ばから六十代に入る頃安定期、もう発病はないだろうと思われる時期である。私達親子は姉弟が五十代の坂を超えてから幸福と呼べるものにありつけた。まるで台風のような半生だったが、老いた両親が家族の因縁と闘いながら、自らの子供と孫を守り通したことに、愛の深さを感じる。

昔の歌手の歌に「陽はまた昇る どんな人の心にも」という歌がある。人生をあきらめなければ、誰の心の中にも太陽は沈んでまた昇るのである。それは個々の人生をドラマとして彩るのである。