【高校生区分】 ◆最優秀賞 佐野 夢果(さの ゆめか)

気づきから生まれる誰もが暮らしやすい社会
佐野 夢果 (静岡県立掛川東高等学校 2年 静岡県)

「夢ちゃんは夢ちゃんだよ。」
友達の何気ない一言だった。しかし私にはこの言葉が本当に嬉しくてたまらなかったのだ。

私は生まれつき障害があり、車いすで日常生活を送る車いすユーザーだ。そんな私は、小中、そして現在の高校に至るまで、普通学級で学校生活を送ってきた。障害がある生徒は私一人。

そんな中での学校生活は、私にたくさんの出会いや気づきをもたらしてくれた。私の小学校は全学年一クラスの小さな学校で、クラス替えもなく、六年間同じクラスメイト。そんな六年間を共にしたクラスメイトは、いつも自然と私に手を差し伸べてくれた。学校行事ではどうすれば、私が参加できるのかを、周りの友達がいつも一緒になって考えてくれたし、先生もたくさんの工夫やアイディアでどうしたら私が参加できるかを考えてくれた。例えば授業で川に行くことがあった時、先生が濡れてもいいようにと防災用の車いすを借りてくれたこともあった。授業の一環で野菜を育てた時も、畑に車いすで行けるようにとクラスの友達が、ダンボールを敷いてくれた。今回の募集テーマになっている「心の輪」は、そんな学校生活でいつも私の周りに広がっていたように思う。そんなクラスメイトや先生達とだったからこそ、私は障害という括りの中ではなく、私自身として過ごせたのだ。その一方で、学校の外では障害の中で自身が括られることに、違和感を感じることも多かった。例えば登校中、
「車いすなのに偉いわね。」
と声をかけられたり、賞を取ったときも
「車いすなのにすごいわね。」
と言われることがあった。本当に何気ない一言だった。しかし私は私が私として評価されないことや、障害の中で括られていることがとても悲しかったのだと思う。そんな時、一緒に登校していた友達が私に言ってくれた。
「夢ちゃんは、夢ちゃんだよ。」
これもまた何気ない一言だった。しかし私はこの言葉が嬉しくてたまらなかった。思えばいつも周りのクラスメイトや先生は、私に障害があるからではなく、どうしたら私が参加できるのかを考えてくれていたように思う。

私にはそんな経験を通して考えるようになったことがある。どうしたら障害のある人が、障害の中で括られずその人らしく生きられるのか。きっとその答えのひとつは一緒に過ごす時間にあると、私は思っている。障害と聞くと難しく考える人も多いかもしれない。しかし一緒に時間を過ごすと、障害はその人の一要素でしかないことに気づくはずだ。そして一緒に時間を過ごすうちに、色々な気づきがあると思う。私の学校生活はまさにこれだった。そんな一緒に過ごすうちに生まれる気づきが、とても大切なものなのだと私は思う。一番怖いことは、知らないことだ。知らないから、関わったことがないから、分からないから。そういうものに対して、人はつい難しく考えてしまう。だから幼少期の内から、障害に限らず色々な人がいる中で、生活をし、時間を共有することはとても大切なことだと私は思うのだ。そこから生まれるたくさんの気づきが、社会を良い方向に動かしていくはずだ。

私はそんな時間を共有できるお店で、現在ボランティアスタッフとして働いている。そのお店とは車いすユーザーの横山博則さんが店長を務める、「駄菓子屋横さんち」だ。

横さんちでは現在十一人の障害者が働いている。私はこの横さんちのボランティアを通して、多くの気づきをもらった。横さんちは障害というテーマをもつ一方で、お店を利用する人は障害や福祉に関わる人たちに限定されていない。障害や年齢や地域を限定せず、誰でも来てもらえるお店。それが「横さんち」だ。福祉の場ではなく、駄菓子屋さんであるからこそ、様々な人が訪れる。そしてそんな空間での自然な交流の中で、ふとした瞬間にたくさんの気づきが生まれていると、私は思う。例えば私がレジをしていると、いつもお店に来てくれる小学生は、自然と袋詰めを手伝ってくれる。買い物という日常生活の中で障害を持つスタッフと交流することで、困りごとや困りごとへの工夫の仕方をその小学生は当たり前に、知ってくれている。日常生活の中に当たり前にある「駄菓子屋」という空間だからこそ、そこで得る気づきは偶然得たものになる。何かしらの気づきや学びを得ようという意識のもとで得た学びも、当然大切な学びではあるが、ふとした瞬間に気付くことができた学びはより一層、その人の考え方や価値観へと繋がると私は思うのだ。私はこんな横さんちのような、自然と同じ時間を共有するなかでの気づきを生み出せる場が、もっと増えていけばいいなと感じている。知ることは、お互いを理解し、自分にできることを見つけるきっかけになる。そして、自分の経験の中から得られた一人一人の気づきが、いずれ社会を変えるきっかけとなっていくのだろう。

日常生活のありふれた時間の中で人と出会い、話し、気づき、学ぶことで、少しずつ変化が生まれる当たり前があればもっと、誰もが暮らしやすい社会になっていくと思う。私は当事者として、そんな自然な心のふれあいや気づきがうまれる場をつくっていきたい。そんな心のふれあいや気づきのその先にはきっと、誰もが自分らしく生きられる社会があるはずだ。