【一般区分】 ◆佳作 本行 邦彦(ほんぎょう くにひこ)

『桜の花の咲くまで』
本行 邦彦 (岡山県)

倉敷市連島矢柄は桜の名所である。そこで働き始めてから、幾度か桜の季節が過ぎた。
 還暦近くで転職を余儀なくされた私は、年齢経験不問の福祉施設の求人に応募した。採用試験を受け内定は頂いたものの、実際就職するかどうかは決めかねていた。何しろ福祉の仕事は今まで経験が無い。そんな私の背中を押したのは、ある少女。もっとも私と同じ歳、健在ならば、もうオバサンなのだが。
 小学生の頃、クラスにまったく読み書きのできない女の子がいた。ある日の放課後担任の先生がその子一人を教室に残して勉強を教えていた。それを見付けた悪ガキ共が窓の外から、その女の子を揶揄った。
「やーい、平仮名も読めない〇〇がいるぞ」
 すると女の子は机の上の教科書をパタンと閉じ、私を睨み付け、走って教室を飛び出して行った。先生からはお叱りを受けゲンコツの一つや二つは頂いただろうが、その記憶は無い。ただ、あの時の女の子の恨めしそうな顔と、走り去るその後ろ姿は、今も私の脳裏に焼き付いている。
 採用試験の後施設内を見学した。そこでは知的障害というハンデーを背負った人達が懸命に暮らしている。ご利用者と呼ばれるその人達の様子を見て、あの時の女の子の事が思い出されたのである。私と同じ歳のまったく読み書きもできない子が世の中に出て、今どんな暮らしをしているのか。それを思うと胸が痛む。縁あって福祉施設の求人に応募し内定も頂いた。障がい者の生活支援、多少とも世の為人の為になる仕事であろう。ここで頑張ればあの女の子も、あの時の事を許してくれるのではないか。そんな気持ちで、ここで働く事を決めた。春まだ浅い頃だった。
 こうして私は、福祉の仕事に就いた。もっとも入職三ヶ月は試用期間である。その間にこの仕事が本当に務まるかどうかの見極めがなされるのだが、凡てが初めての事ばかり、戸惑いが多かった。今まで色んな仕事をそこそこやって来たのだからと、それなりの自信もあった。しかし、実際に仕事に就いてみると、それが過信であった事に気付かされた。あの女の子にも許してもらえるから――と思ったけど、それは浅はかな考えだったのか。戸惑い、悩んでいた三ヶ月の試用期間。それが過ぎる頃、桜が咲き始めた。そしてある光景が私に踏ん切りを付けさせた。
 朝の散歩に出掛けていた利用者達が帰って来た。施設の前は公園である。公園には何本もの桜の木が植えられている。満開の桜、風に吹かれ花びらも舞っている。桜の花びらの舞う中を、若い女性職員と手を繋いだ利用者達が向こうから歩いて来る。みんな笑顔だ。
 まるで一幅の絵画、映画のワンシーン。
 桜、桜――。
 笑顔、笑顔――。
 それらが私の迷いも吹き飛ばした。この光景を又見たいと思った。桜の花に気持ちを新たにした私であった。
 丁度その頃、隣接する敷地に新しい施設が完成した。地域に暮らす障がい者の豊かな生活を実現する――そんな法人の基本理念に基づき、重度の身体障害を併せ持つ方、例えば車いすの方や医療支援が必要な方などに入浴や食事の提供を行う日中介護の施設である。そちらへの配属を打診され、私は快諾した。
 そこでの新たな活動が始まった。利用者の多くは歩く事のできない方、言葉で意思表示ができない方、流動食しか食べられず、胃瘻や痰吸引などの医療行為を必要とする方などである。そのような方々に、楽しく安心して過ごせる場所と時間を提供するのである。
 大変だがやりがいのある仕事だ。利用者の楽しそうな姿と笑顔が、何より嬉しい。
 しかし、楽しく嬉しい事ばかりではない。人の死が身近にあるからだ。重い障害を持った方々のお世話をしている以上、それは致し方のない事でもある。
 大病を患い入退院を繰り返している男性利用者、一度だけ入院中の彼を見舞った。
「又、旅行に行きたいな」
「又一緒に行こうよ。早く良くなってね」
 その会話が最後であった。数日後容態が急変し、彼は病床で息を引き取った。
 週に一日、施設を訪れる車椅子の男性がいた。自宅での入浴が困難な為、お風呂に入りに来られる。入浴支援は職員二人で行うが、その日は同僚がその方の体を洗っていた。いつになく丁寧だ。楽しそうに会話も弾んでいる。感心した私は、後で「丁寧な仕事だな」と同僚に声を掛けた。すると同僚曰く、
「週に一度しかお風呂に入れないんだ、少しでも綺麗にして差し上げようじゃないか」
 いつも決められた事だけで済ませてしまう自分を反省し、私も次回はそんな気持ちでお世話させていただこうと思ったものだ。しかしその機会は訪れなかった。彼はその夜急死した。翌朝、家人が気付いた時には、車椅子に座ったまま冷たくなっていたそうだ。でもその顔は安らかで、体はとても奇麗であったと聞かされた。週に一度の入浴をとても喜んでいたとの事であったが、結局あの日の入浴が人生で最後のお風呂になってしまった。
 人の死が身近にあるとは、そういう事。だから我々障がい者支援に携わる者は、それに敏感にならざるを得ない。とにかく健康で、少しでも楽しい時間を共に過ごしたい。
 苦しい事や辛い事はいっぱいあるが、私達はみんな生きている。生きていればきっと良い事がある、きっと楽しい事がある。それを信じて、これからも仕事に励みたい。
 幼い日の、あの女の子の事は忘れない。
 働き始めた春の、あの桜の下の笑顔は忘れない。
 もうすぐ春、又桜が咲く。桜の花の咲くまで、もう少し頑張ろうと思う。
(完)