【一般区分】 ◆佳作 清水 真理
働くこと
清水 真理 (長野県)
四十歳の春、人生で初めての正社員として私は入社式に臨んだ。背筋が緊張感でこわばる。配属された経理課で自己紹介を終えて周りに目を向けると山のように押し寄せる請求書類や分厚い伝票の束を先輩たちが次々にさばいていた。「大変な所に来てしまった。」焦りで呼吸が浅くなる。「まだ始まったばかりだ。やるしかない」自分を奮い立たせようと必死だった。
中学生の頃に発症した関節リウマチは、私の身体から自由を奪っていった。全身の関節はズキズキと痛み、熱をもって腫れ、骨や軟部組織が破壊された。特に指先の小さな関節は日常生活に様々な不自由さをもたらした。経理課での仕事は私の最も弱い部分を酷使する仕事だった。伝票に何枚ものり付けされた請求書や、クリップで大量に添付されてくる書類のすべてを手作業で分類し、不備がないか審査していく。毎日が締切りとの闘いで、素早さと正確さが求められた。指の痛みで電卓やパソコンのキーが直接叩けないから小さな棒に滑り止めのシートを巻き付け自作の補助具を作った。右手にはチェック用の青鉛筆を握りしめ、慣れない左手で棒をつかみ電卓を押す。書類の詰まった重い引き出しを開けるときはフックを引っかけて両手でエイッツと力を込めた。工夫をしてもできないことはたくさんあった。大量の紙を輪ゴムで束ねること、硬いクリップの付け外しをすること、重い書類ファイルを運ぶこと、数百枚の書類に印鑑を押すこと、そのどれもが不自由な手では困難だった。
働き始めて一週間後、「みずさんの能力が低いからという事ではないのだけど、経理課に追加でパートの職員さんに入ってもらう事にします。みずさんはできる事をやってくれればいいですから」課長は言葉を選びながらとても丁寧に話していた。自分が経理課の皆に迷惑を掛けていることは十分すぎるほどに理解していたけれど直接現実を突きつけられると動揺する心が深く落ちていきそうだった。
仕事中に何度も人に頼まなければいけないことに、自分を否定する気持ちがどんどん強くなった。家に帰れば「情けない。情けない。」とつぶやいた。
ある日、友人に胸の内を打ち明けると「人を助けることって相手にとっても嬉しいことだったりすると思うよ。私もありがとうって言われたら嬉しいもん。」と返ってきた。私は「助ける側じゃなくて、いつも助けられる側だったらどう?」と聞くと困ったように「私にはその状況は無理かも。」と正直な反応だった。誰しも「人に迷惑をかけたくない」「世話になりたくない」という思いを抱えているのかもしれない。働く場では一層強く感じられた。
別の部署にも障害を持った人たちがいた。いわゆる健常者の職員が「ああなってまで働きたくないな」とか「健常者と同じに働ける障害者を雇えばいいのに」と話しているのを耳にしたこともある。自分もそう思われていると思うと怖かった。
一年もすると、指は童話の中の意地悪な魔女のように硬く折れ曲がり、皮膚が裂けそうなほど薄く引き伸ばされていた。身体からの悲鳴が聞こえた。そして左手の手術をすることになった。手術後はリハビリが延々と続いた。小さなおはじきをつまみ上げたり、紙をちぎったり、紐を結わえたり、ありとあらゆる指先の訓練を行った。「このままじゃ仕事についていけない」追い立てられていた。なんとか仕事へ復帰するも今度は利き手である右手の指が硬く曲がって手術が必要となった。私の両手は左右七本手術をして、人工関節も内五カ所に埋め込まれている。「サイボーグハンドだね。かっこいいよ」夫はこう言って励ましてくれた。
しかし一度破壊された手は手術をしても完全には戻らない。仕事は相変わらず大変だった。
経理課は手の不自由な私にとって負担が大きかったと思う。めげそうになった時「迷惑ばかりかけて、役に立てずごめんね。」と言うと、「何を言っているのですか。経理課で一番頑張っているのはみずさんじゃないですか。」と返してくれたトミコさん。「任せてください!」といつも助けてくれた頼もしいムラちゃん。「みずさんは必要な人です。もっと身体への負担を考慮してあげてください」と私が知らぬ間に人事へ掛け合っていたニシダさん。「みずさんだから出来る仕事が絶対ある。自分が保証する!」と熱く語ってくれたオダさん。「みずさんがいる事で周りにいっぱいいい影響を与えているのよ」とやさしく見守ってくれたノリエさん。迷惑になるくらいなら、足手まといになるくらいならと自分ばかり気にしていたことが恥ずかしかった。
退職を伝えたとき、涙を流しながら「私がもっと力になってあげられたら良かったのに本当にごめんね。」と言ったのは、二人三脚で一緒に歩き続けてくれたパートのタケミさんだった。
障害者と働くことになったら大変と感じる人もいる。早く自分の元から去って欲しいと願う人もいる。しかし、私が共に働いた仲間のように、良いところを認め合い、違いを受け入れようとしてくれる人もいる。だから私はどんなに手が痛くても、仕事の内容が自分には向いていないと思っていても必死に続けられた。
私の誇りは、四十歳のあの日、不安でいっぱいの中新たな環境へと一歩踏み出したこと。仲間と仕事をする中で自分を肯定すること、人を信頼すること、一人では経験できなかった気づきを与えてもらった。素晴らしい同僚たちと働けたことは決して忘れないよ。これからまた新しい一歩を踏み出す私に勇気をくれたみんなありがとう。