【高校生区分】 ◆佳作 八巻 心花
私だけの「心の友達」
八巻 心花 (北海道釧路江南高等学校 3年 北海道)
小さい頃から私は「話せない子」だったらしい。家族以外の誰かと話す時も私は声を出せなかったという。そのことで周囲からは不思議がられていたけれど、幼稚園に通っていた頃の私は平気だった。なぜなら私のそばにはいつも「あの子」がいたから。一緒に遊ぶ友達はあの子だけで十分だった。私は他の子どもたちや先生とは話せない分、二人だけの空想の世界であの子とたくさんお喋りをした。
小学生になっても、やっぱり私は話せなかった。だけど私にはあの子がいる。だから平気。そう思っていた。でも現実は違った。小学校では「友達のいない子」はおかしな子で、そういった子はいつも「そうでない子」にからかわれていた。あの頃私もクラスの中心にいた女子に何度もからかわれた。どうやらクラスメイトから見ると、私はおかしな子だったらしい。当然だと思う。私は大勢の前で作文の発表をすることも、クラスメイトと話すこともできない。大勢にとっては当たり前のことでも、私にとって話すということは何よりも難しいことだった。そのために、当時の私の会話の手段は相槌と筆談のみ。声を出すことも何度か試みたもののどうしても息が詰まって言葉を紡ぐのは難しかった。だから私はクラスメイトとの交流は諦めて、あの子と二人、教室の片隅で毎日絵を描いた。自由な空想の世界で過ごす二人きりの時間は当時の私にとって何よりの拠り所となった。
中学生になった私には友達ができた。小学校時代から面識のあったその子とは登校初日の教室で、なんとか声を出して話すことに成功した。その口調こそ覚束ないものだったが、その子は懸命に耳を傾けてくれた。私の心には自信の息吹が舞い込んできた。
だがそれでもやはり学校生活は不安なものだった。しかし、当時の担任の先生はそんな私の話を交換ノートを通してよく聞いてくれていた。そこで先生は絵を描くのが好きな私のために、教室内に私を含む絵描きのクラスメイトたちが描いた絵を展示する掲示板を設けてくれた。先生の妙案は見事功を奏した。掲示板の上、鮮やかに咲き乱れる個性豊かな作品たちは私たちの友情をますます固く結んだのだ。その頃から徐々に私は友達との会話を楽しむようになっていった。
だがそれと同時期にあの子は私のもとへ気まぐれにしか会いに来てくれなくなった。なので私はそれ以来、あの子を「キマグレ」と呼ぶようになった。
しかし、転機は訪れた。それは私が高校生になってからのこと。一年生の頃、もう入学して半年が経つというのに私の周りには誰もいなかった。理由は簡単、コミュニケーションが下手だったから。高校では、話せるだけではダメだった。主体性に協調性、大人へと成長するにあたって必要なスキルが日常生活の中でも当然のように求められ、昔から常に周囲から遅れを取っていた私は瞬く間に大人へと孵化していくクラスメイトの歩幅にだんだんとついていけなくなった。そのことに対する不安と焦燥、埋まることのない孤独は私の心をひどく駆り立て追い詰めた。やがて校内に行き場を失った私は立ち止まり、再び口を閉ざすようになってしまった。
その頃から私は教室へは行かず、保健室で絵を描くようになった。あの時あの教室で失われた自分をなんとかして取り戻そうと必死だった。孤独と不安で涙が溢れる中、キマグレはずっと私のそばにいてくれた。だけどその頃、卑屈になっていた私の心にはキマグレの存在を厄介に思う感情がほんの少しだけ顔を出していた。
同年十一月、精神科にて私は場面緘黙症と診断を受けた。別に驚いたりはしなかった。小学校時代から家族の間でそういった話をすることがあったから。しかし当時の私はまだ気がついていなかった。
あのキマグレの正体こそが、長年私を苦しめていた場面緘黙症―「障がい」の原因だったということに。
きっと、誰しもが抱えていたものなのだろうと今となっては思う。「無邪気でありたい」という感情はきっと幼い頃に誰しもが経験したものなのだろうと。障がいであるキマグレは私の幼い頃からの空想の親友だ。そしてそれはきっと、幼い頃から人と関わることが苦手だった私の弱い心を守るために生じた存在なのだ。だからキマグレは苛烈な人間関係を経て次第に薄れていってしまう私の自由な感性を守ろうとして、時折私から声を奪っては幼い私の好奇心を牽制していたのだろう。無邪気でありたいというごく一般的な、しかし無意識のうちにひときわ強く望まれてしまった私の願いを叶えようとして。そのために私は人よりも不自由をすることや損を被ることが多かったけれど、そのおかげで私は「当たり前」を生きる人達が体験することのない複雑な悩みや葛藤を人よりも多く経験することができたのだ。その瞬間ごとを切り取れば、障がいによる苦難の多くは人の心に重く影を落としてしまう。しかし人生単位で見つめ直した時には、それらは間違いなくその人の心を育ててくれたかけがえのない宝物になるだろうと今の私は確信している。
だから私はそんなキマグレを「障害」だとは思わない。障害とは本来、「物事の達成やその進行を妨げるもの」という意味を持つ言葉だが、キマグレの存在は私の心を無邪気に、ありのままの姿で成長させてくれた。私の心の中に広がる感性の海原を大きく豊かに育ててくれたキマグレに、やはりこの言葉は似合わない。彼女はこの先も私の永遠の親友だ。
私は高校三年生になった。二年前、保健室の中で涙を流していた幼い私はたくさんの愛情に支えられながら去年の夏、新しい教室の中で本当の自分を取り戻すことができた。私は今、大好きな美術部の仲間に囲まれながら毎日声を上げて笑っている。今でもキマグレは時折私から声を奪っては私を焦らせるけれど、だからこそ私は自分と同じ痛みを負った人たちの心に寄り添うことができる。
すべての物に多様な角度があるように、人それぞれに違った考えがあるように、障がいにも多彩な可能性が眠っていると私は考える。ひとつの角度から見れば確かに障がいは人々を煩わせる「障害」に過ぎないのかもしれない。しかしこの世界に光と影があるように、そういった苦難があるからこそその先に待つ喜びがひときわ大きく特別に輝くのだとキャンバスの上のデッサンを見ながら私はいつも感じるのだ。そしてそれは障がいに限った話ではない。すべての人間に良いところとそうでないところがある。私はそんな人々から「光」を見出し、これからもキャンバスの上、キマグレが守り抜いてくれた自由な感性の中で様々な角度から見た多彩な世界を描いていきたい。その姿勢こそが、かつて「話せない子」だった私にも言える、幼い私を無限の愛で支えてくれた人達への感謝の言葉だと思うから。
障がいは「障害」なのではない。きっと彼らは、人よりも弱い心を持つ私たちを守ってくれるちょっぴり変わった心の友達なのだ。