【高校生区分】 ◆優秀賞 榎本 あおば
生きる意味
榎本 あおば (関西創価高等学校 1年 神戸市)
「障がい者なんていなくなればいい」「障がい者は不幸をばらまく存在」理由もなくつけっ放しになっていたテレビからこんな言葉が聞こえてきた。ある障がい者施設で起きた殺人事件の容疑者の供述であった。私は頭を強く殴られたような衝撃を受けるとともに心を深くえぐられるような感覚に襲われた。
私の祖父は障がい者等級一級のいわゆる重度障がい者だ。脳梗塞を発症し、一時は危篤の状態まで陥ったが、なんとか命をつなぐことができた。しかし、後遺症として言語障がいや右半身の麻痺が残ってしまった。五文字程度までの短い単語なら、後に続いて発することができるが、ほとんど会話はできない。歩くことや立つことすらできず、寝るとき以外はずっと車椅子に座って時間を過ごす。もちろん自力で寝たり起き上がることもできない。自力では生活がままならないのだ。
最近、祖父がまだ元気だった時のことをよく思い返す。祖父母の家は名古屋にあり、私が住んでいる神戸から車で三時間程かかる。学校の長期休みに遊びに行った時にはいつも「よく来たね。」と迎え入れてくれた。お風呂から上がってきた時には大きなお腹を叩いて笑わせてくれるのがお決まりだった。スーパーで買ってもらって美味しいねと言いながら食べた、熱々の鯛焼きの味。近所の駄菓子屋で買ってもらった、たくさんのお菓子。一緒に庭で花火をしたり、動物園や水族館に行ったり…。祖父がつい昨日まで元気だったかのように鮮明に記憶が蘇ってくる。今の祖父には不可能なことばかりである。でも、そんな祖父を嫌いにはならない。「いなくなればいい」とか「不幸だ」などとは思わない。むしろ祖父は私に生きる希望を与えてくれる。
祖父が危篤の状態だと知った時、正直私は祖父とはもう会えないのかもしれないと思った。なんとか生きてほしい、それだけだった。大きな後遺症が残り、前のように遊んだり、話すことすらできないと知った時、もちろんショックはあった。でも、それ以上に祖父が生きてくれているということが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。また、祖父の命が一生懸命生きようと叫んでいるのだと私は感じた。ほぼ一日中車椅子に座っているだけの祖父であるが、その祖父の姿を見るたびに私も頑張って生きようと思わされる。
人の存在価値はその人の能力では決まらない。その人の存在そのものが最も尊く、周りの人の生きる希望になっていると私は思う。赤ちゃんだってそうである。ごはんは食べさせてもらう。おむつもかえてもらう。何かあると泣きわめく。でも、その存在は周りを明るく照らし、笑顔にする。しかし、人々はそのことを忘れてしまう。それは、世の中が相対的評価であふれているからだと思う。成績や業績で人々は評価され、その評価が良い人が社会的に認められていき、優位に立つ。反対に悪いと見下されたりしてひどい扱いを受けることもある。そのような相対的評価を気にするあまり、自己嫌悪に陥って悩み、苦しんでいる人も多いだろう。私も実際にそうである。私は中学二年生の頃に体調を崩し、学校に通えない期間が長くあった。授業に参加できず、自力で勉強はしていたものの、限界があり、不安でいっぱいだった。勉強もまともにできず、両親や先生にも迷惑をかけてばかりの自分には存在価値などないのではないかと思うこともあった。そんな私に生きる意味を教えてくれたのが祖父の姿だった。祖父は語らずして私を励ましてくれていたのだ。
障がいがあるとかないとか、何ができるかできないかで人の存在価値は決まらない。その人にはその人にしかない生き方、使命が必ずある。それを尊重し合える社会ができたらいいな。いや、私達が作っていかなければならないのだと思う。