【高校生区分】 ◆優秀賞 奥田 梨世(おくだ りいよ)

ろう者と聴者の関わり
奥田 梨世 (筑波大学附属聴覚特別支援学校高等部 2年 千葉県)

私は、家族全員が耳の聞こえない「ろう者」である、デフファミリーの下で生まれた。そのため、手話でコミュニケーションをとるのが当たり前だった。耳が聞こえる「聴者」は、私と違って異質な存在であり、私とは異なる「聴者世界」で暮らす外国人のような存在だと認識していた。
 私は小学生の頃、地元のバスケットボールクラブに所属しており、聴者と頻繁に交流する機会があった。ろう者とは手話で会話できるが、聴者とは筆談で話すため、コミュニケーションが上手くいかず、居心地が良くないことが多かった。その当時の私は語彙力がほとんどなかったため、自分の伝えたいことを思うように表現できなかった。そして消極的な性格で集団に入るのが困難で苦手だった。
 聴者同士で楽しげに声で会話している様子を見て、私こそが「差異な人」なんだと痛感するとともに、疎外感や排除感に心が痛んだ忍耐力のない私にとっては耐え難く、バスケットボールクラブを辞めてしまった。
 中学では、陸上部に入部した。顧問の先生は私と同じろう者だったが、聴者と交流するのがとても上手で、自分にはないコミュニケーション能力を持っていた。その先生は聴者と、できる限り関わりたくないと思った臆病な私に対して、「聴者と仲良くしろ」「ろう者も聴者と対等な立場なのだから、恐れるな」と何回も言ってくれた。
 陸上の大会では、招集場所に直接行って、審判員のコールに応じなければならない。耳の聞こえない私が「声をかけてくれ」と、審判員にお願いしても、審判員は忙しいため特別扱いしてもらうことは難しい。そこで、勇気を振り絞って、近くにいる聴者の選手に「すみません、あなたは何組ですか?」と、拙い字で書いたメモ紙を見せて尋ねた。その人は「あっ、私は〇組ですよ」とペンで私のメモ帳に丁寧に書いてくれた。私の聴覚障害を受け入れてくれたかのようだった。「意外と簡単に聴者と話すことができた!」と、嬉しく飛び跳ねたい気分になり、私は耳が聞こえないが、聴者も同じ世界を生きているんだと希望を持つことができた。
 高校二年生の夏休みに、アメリカに短期留学した。初めての留学で、不安や恐怖を勝手に感じていた。聴者とは英語で筆談したが、身振りでも通じることが多かった。アメリカは多様な人が住んでいるので、様々な人とのコミュニケーションに慣れていると感じた。「I’m Deaf」という一言を伝えれば、ろう者であることを一瞬で伝えることができ、親切に対応してくれた。留学先では、ろう者に対して偏見や先入観がなく、差別を受けることは一度もなかった。アメリカでは自分をアピールして、お互いに尊重し合うという考え方が根本にあることを感じた。そうした社会観に感銘を受け、自己肯定感が自然と高められ、聾者である自分を包み隠さず、貫いていこうと考えるようになった。
 このような経験から、聴者への恐怖感や抵抗感がなくなった。さらにもっと関係を作りたいと意欲が湧いている。今はInstagramなどのSNSを通じて、聴者とビデオ通話をしたりチャットをしたりして、この世界で生きる喜びを感じている。
 聴者がマジョリティである社会で生活する以上、聴者と接する機会を避けることは不可能である。この社会で生きていくためには、聴者と少しずつでも接していくことは大きな意味があると学んだ。身体的な差異は確かにあり、それを聴者に完全に理解してもらうことは難しいが、抵抗感を取り除くことはできる。今でも、聴覚障害者に対して、可哀想という見方や、どのように対応するのか分からない、ろう者と会ったことがない、といった聴者もおり、ろう者は聴者社会から孤立しがちである。
 このような社会を変えていくためには、私たちろう者が積極的に社会参加して、聴者と交流する機会を持つ必要があると考える。そして、ろう者との接し方を伝え、偏見をなくしていかなければならない。
 私たちろう者は手話でコミュニケーションするため、ろう者の社会はストレスのないコンフォートゾーンである。しかし、そこから抜け出し、ストレッチゾーンである聴者の社会に飛び込むことで、多角的な視野が得られ、この社会で生きていくために必要な力を得ることができると考える。そうすることで、自分を変えていくのではなく、進化させていくことができるだろう。どのような人でも、自分の個性や才能を開花できる社会にしていきたい。