【中学生区分】 ◆優秀賞 藤本 晄
ハンセン病患者と触れ合って ~過ちを繰り返さないために私ができること~
藤本 晄 (盈進中学校 3年 広島県)
私は中学一年生の時からある場所に通い続けている。それはそこに、私の会いたい人がいるからだ。
その人とは国立ハンセン病療養所長島愛生園に暮らす田村保男さん(92)だ。彼は高校生で長島愛生園に入所した。私が田村さんに出会ったのは長島愛生園にある病院だった。とても優しい人で笑顔がすてきな方だ。しかし田村さんもハンセン病に対する差別の被害者だ。ハンセン病者は人からも社会からも差別された。ハンセン病に感染すると手足が麻痺し顔が歪むことがある。その見た目から差別や偏見を受け続けてきた。地域から感染者をあぶり出し、見つけ次第療養所に強制収容させることを定めた。それが「らい予防法」だ。ハンセン病者を自分達の町から排除させるように「官民一体」となり徹底して強制収容させた。それが「無らい県運動」だ。この事実を知った時、二度と繰り返してはならないことだと強く感じた。
田村さんは妹がいる。彼にとって大切な存在の妹も、田村さんと同様に差別された。ハンセン病に対する差別は決して患者だけでなく、その家族も差別の被害者だった。田村さんは悔しそうに語った。「わしがこの病気になって中学生の妹は、病気じゃないのに、『来なくていい』と学校に言われた。卒業証書ももらっていない。わしが病気になったから妹も病気になるはずだと学校も友達も妹を避けた。トイレもまともに使わせてもらえなかった。あまりにひどい差別だから誰にも言えなかったんよ。自分が強制収容されたことより、妹が受けたいじめと差別はどうしても許せんのよ。」私は心が締め付けられた。クラス内だけでなく、学校側までも差別に加担したのだ。それほど「ハンセン病はうつる病気だ」という誤った認識が広がっていたのだ。
転校した小学5年生の頃、私自身も仲間外れにされた経験がある。当時の私は、昼休みでもみんなが遊んでいる風景を眺めることしか出来なかった。「このまま卒業するのかなあ…」と不安を感じていた。そんなある日、教室で遊んでいた何人かが私に「一緒に遊ぼう!」と声をかけてくれた。嬉しくて叫びたかった。その時の友達とは今でも仲が良い。当時の私と田村さんの妹とは重なる点があるように思う。彼女は「ハンセン病患者の妹だから」、私は「転校してきたから」という理由で仲間外れにされた。妹の話を聞いた時、その悲しみや苦しみが当時の経験と重なり、胸が苦しくなった。私にはそんな友達の存在があった。その存在は、私にとって心強いものだった。だからこそ、あの時の友達が私にしてくれたように、私も誰にでも優しく出来る人になりたい。中学生になった私は、少しずつ積極的に仲間作りをしようと心がけた。中学三年生になった今、友達は私にとってかけがえのない存在だ。あの時声をかけてくれた友達に少しでも近づけただろうか。あの時の自分と似たような境遇の子がいたら、勇気を出して声をかけることが出来るだろうか。一緒に何かしようと誘われたら、誰だって嬉しいはずだ。これから学校生活、社会生活を送っていく中で、以前の自分のように一人でいたり、いじめを受けている人がいたら、相談に乗り、自分から話しかけて、最終的には笑い合える仲間になる。そのきっかけとなる行動を私はしていく。
田村さんのお話を聞いた後、「二度と同じ思いをする人がいなくなるように。」と握手を交わした。その時私は、このように思った。「次は、私達が田村さんの人生と、その思いを伝える側になる。」