【一般区分】 ◆佳作 西村 有美
融通無碍な世の中
西村 有美(三重県)
今年の春、縁あって障害者支援施設の事務の仕事をさせていただくことになった。前の職場でうまくいかず、折れてしまった心を抱えた私は、勤務の初日も心細い気持ちで一杯だった。何十年も前に言われたことが蘇る。「人の困りごとや悩みに寄り添うような仕事がしたい」と人に打ち明けた時のことだ。返事は「あのね。そういう仕事はしっかりとした強い心を持った人にしかできないんだよ。」であった。私はその言葉に何も言い返すことができず、自身の無力さを実感し落胆した。自分のことで精一杯の私が他人に寄り添うなんてきっと無理に決まっている。
職場に到着すると、事務所で丁寧に迎えていただいた。まずはそのことに安堵し、いよいよ利用者さんのいる棟へ挨拶に向かった。
変化が苦手な人もいるだろう。自分の生活圏内に知らない人が突然入ってくることに不快感を抱く人もいるかもしれない。私はあらゆる方向からの視線を感じ、思わず目線を落としてしまった。私はここにいていいのだろうかと委縮してしまう。不安と、頑張らなければと思う気持ちが私の頭の中でせめぎ合った。なんとか気持ちを前向きに切り替えるようにし、落とした目線を周囲に戻したその時、一人の女性の利用者さんが私ににっこりと笑いかけてくれたのが見えた。心がじんわりと暖かくなる、という経験は今まで何度もしてきたが、この時ほど自分の中に温度を感じたことはない。彼女のありのままの優しい笑顔が、私に居場所を与えてくれたように思えた。
この日を境に実際に福祉の世界に足を踏み入れてみて感じたことがある。それは「強い心を持っていなくても大丈夫」だということだ。経験や知識の量に差はあれども、きっと誰もが誰かの役に立つことができる。かつて自身の弱さに失望していた私も、今は誰かを支えているのだと実感できている。
そしてもう一つ新たに得た気づきがある。それは、誰かを支援することで不思議と自分自身も救われる思いがするということである。利用者さんの「ありがとう」という言葉の有無にかかわらず、喜んでくれている利用者さんの顔を見ると本当に嬉しくてたまらなくなる。また逆に、夕飯のおかずを考えていただけなのに、私の表情を見た利用者さんが「どうしたの。悩みがあるのなら聞くよ。」と声をかけてくれたこともあった。迷いや悩みがあっても、強い心を持っていなくても大丈夫だ。誰かに寄り添い、そして寄り添われることで、元気に笑って日々を乗り越えていけるのだと、支援の仕事を通して知ることができた。
同年代の利用者さんに接していると、私はAくんと呼ばれていた知的障害の男の子のことを思い出す。Aくんは、中学生の時の同級生で特別支援学級に在籍していた。しかし気の毒なことにAくんは、修学旅行中に不慮の事故でその短い人生を終えてしまった。
私はAくんと話したことは一度もなかったが、クラスメートと一緒に自宅へお悔やみに行った。皆で押し黙って大勢の列に加わりお焼香の順番を待っていた時、私はこの大人数の沈み切った悲壮な雰囲気をどうにか明るくしなければと誤った考えが頭に浮かんでしまい、咄嗟にその場にそぐわない言動をしてしまった。その時の情景ももう思い出せないが、きっと誰も笑っていなかっただろう。
大人になってからも、子供が生まれた時も、子供が修学旅行に行く時も、私は自責の念に駆られた。Aくんと彼のご家族にただただ申し訳なく思った。
現在の仕事を始めてからも、もしあの時に戻れたらあのような非常識な言動はしないのに、と考えていた。しかし利用者さん方のことを少しずつだが知り始めたある日、その考えが変化しつつあることに私は気がついた。もし戻れたら、私はAくんのことをもっと知ろうとするだろう。Aくんは何が好きだったのだろう。同級生の皆は、どうやってコミュニケーションを取っていたのだろう。そんなふうに彼のことを知り、関わっていればあのような不謹慎なことなど考えもしなかっただろうにと思う。
今となっては、私がAくんと関わりをもつことはもう二度と叶わない。悔やんでも悔やみきれないが、目の前の利用者さん方に向き合い、自分が今やれることを精一杯するほかないのである。
「融通無碍」という言葉がある。元々は仏教用語であり、「宇宙の万物万象は、それぞれが孤立したものではなく、お互いに影響し合いながら調和を生み出している、そして何の障りもなく物事が滞ることがない」という意味である。私は、これは目指すべき未来の世の中そのものであるように思う。
悩みがあっても、障害があっても、決して一人ではない。皆が当たり前に関わり合い影響を与え合いながら、かつ自由に生きていくことができたらどんなに素晴らしいだろう。
施設内でさまざまな障害をもつ利用者さんと共に日々を過ごしているうち、自分にとって障害は身近で、決して他人事ではないのだと認識するようになった。またその過程で、今まで気づかずにいた障害に対する世間一般の対応について考えることも増えた。
例えば「車椅子に乗った人が段差を越えられなくて困るので段差をなくしましょう」という障害の社会モデルの説明が頻繁に使用されているが、本当になくす必要があるのは〈段差〉ではなく、障害のある人に対する世間の〈偏った観点や認識〉かもしれない。彼らを生き辛くしている真の「障害」は、恐らく私達の潜在意識だと日々私は考えている。
世の中にはさまざまな障害を持った人がいる。昨日までは他人事だったかもしれない。しかし、今日もしなんらかの障害がある人に出会ったら、どうか意識を素通りさせないでほしいと思う。皆で意識し自分事にしていくことが、共生を目指す世の中を創るために必要であると私は強く思う。