【一般区分】 ◆最優秀賞 栗生 智津子(くりう ちづこ)

日常
栗生 智津子 (和歌山県)

今年もこの季節がやってきた。夏から秋にかけて、発達検査を実施してもらい、保健、医療、福祉、教育、様々な分野の専門家から指導、助言をもらい、来年度はどこに所属しどのように過ごしていくのか、連携を取り決断していく。最終決定はもちろん親である私なのだが、息子のために時間をかけて一緒に考えてくださることに感謝をしている。
 発達障害、自閉スペクトラム症で、場面緘黙症を併発している息子は、児童発達支援センターでお世話になっている。
 今年は重要な一年だ。年長児である。小学校入学を控え、来年度はどうするのか。地域の小学校普通学級か、それとも特別支援学級か、あるいは特別支援学校か。どこの環境が合うのだろう…。息子と向き合う日々の中で考える。そして、ふとした時、他の大多数のお母さんは、こんな選択で悩まないのだろうな…。と、私の心に哀愁が漂う。子供の進路について、誰にもわかるはずのない未来を考え、悩む。どの進路を選んでも、メリット、デメリットがある。子供に合う一番の環境を模索しつつ、頭の片隅に常にあるのは障害者というレッテルだ。
 世の中、多様性や個性が大事だと言われるようになってきているが、どうしても、社会には障害者は劣っているという風に考える層が一定数いることは明確なため、障害と聞くと拒否反応が出る。だから、子どもが発達障害だと診断された時、悲しくなったり、苦しくなったり、少し発達が遅れているだけで障害ではないと思ったりする。
 しかし、重要なのはその視点ではないと、私は考える。障害があろうとなかろうと、息子は息子で、それ以上でも以下でもない。障害という言葉に惑わされはならない。
通常とは違うアプローチ方法で教育したほうが、より成長を促せる。子どもが安心して学び、成長するのに適した環境へ導き支援したい。その環境へ導くため、障害と名付け支援に繋げるというのが、福祉システムなのではないのかと、私は考える。
 子どもがあたりまえに持つ、生きようとする力、探求心や成長への意欲は、健やかな成長と幸福への資源だ。その環境の一つが療育であり、福祉支援なのだと考えている。
 ある日、息子と二人で水族館に行ったことがあった。海の生き物、川の生き物、興味津々、喜色満面になったのは、母親である私だった。
 「見て見て!カニだよ、亀もいるよ。」
などと、息子に声をかけると、私が指をさす方向を見て、うなずいてはくれる。だが、反応は薄い。少しがっかりした瞬間、息子に声をかけられる。
 「ママ見て!」
ようやくか、と思った息子の指の先にあったもの…。
 「非常出口がある。」
薄暗い館内、非常出口の緑色が輝くように光っている。
 「あそこにも、こっちにも。非常出口がいっぱいある。」
水族館に来て、非常出口を見て喜ぶことは、決して悪いことではない。マイノリティなだけである。
 息子は、非常出口やトイレなどのピクトグラムが好きで、興味を持っているようだ。
 ピクトグラムが広まった背景は、言語の壁を越えるためだったそうだ。
 言語や文化、年齢に関わらず、誰もが瞬時に情報を理解し、安心して過ごせるようにする。ピクトグラムには、そんな思いがある。言葉の壁を越え、より多くの人が安全に社会生活を送れるようにというユニバーサルデザインの考え方、理念と共通する。
 場面緘黙症という言語の壁の特性をもつ息子が惹かれるとは、何だかとても感慨深い。
 成長の仕方は人それぞれ。発達の過程もそれに要する時間も十人十色だ。
 一人一人が違う人間なのだから、そんなことはあたりまえで、平均枠からはみ出したから、良いとか悪いということではない。他の誰かと比べて劣等感を持つ気持ちは、もちろん経験があるしわかるのだが、あえて言う、そんなのナンセンスだ。
 自分は自分で他人は他人、価値観も違うし考え方も違う。優劣はないものだ。違いを認め合う関係でいたい。
 障害者はマイノリティ。だからこそ孤独感を抱くこともあり、苦難や苦労も多いことだろう。しかし、その苦難は不幸ではなく、生きていく上でのエッセンスであり、彩りである。
 障害物レースの障害がなかったら、あっという間にゴールだ。障害に四苦八苦しながらも、それすら楽しんでゴールを目指してほしい。
 目の前で生き生き遊ぶ子どもたちへ、ありのままで素晴らしい。そんなあなただから美しい。そんな気持ちを胸に抱き、今日も見守っている。