付録 7 平成28年度 心の輪を広げる体験作文 優秀作品
最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞
【小学生部門】◆山口県
やくそく
うべしりつかわかみしょうがっこう
宇部市立川上小学校 二年
ますだ ゆきな
益田 幸奈
わたしの二番目の兄は、自へいしょうです。おしゃべりはできないけど、いつもわらっている和音兄ちゃんです。
おふろが大すきです。おふろからあがって、パジャマをきて、おちゃを一口のんで、またおふろに入ります。手をぐるぐるまわして、とびはねます。まわりの人は、へんな人だなとめいわくそうです。わたしはなれているけれど、お兄ちゃんはすこしめだつみたいです。
わたしが小学校に入学した時、お兄ちゃんはしょうがいをもつ人の学校にかよっていました。
「和音兄ちゃんは何のしょうがいなの。」
とわたしが聞くと、母はこたえました。
「自へいしょうよ。人とのかかわりがにが手なの。自分でとじるって書くの。一人ぼっちがすきでくらいかんじかな。」
わたしはすこしおどろいて言いました。
「そんなわけないやん。お兄ちゃんは一人ですぐどこかにいっちゃうけど、みんなといることも大すきだよ。それにいつも楽しそうだもん。ぎゃく、ぎゃく、自分でとじていないよあけっぱなしだよ。」
母はうなづきながら言いました。
「自へいしょうの名前をつけた人がまちがえたんかね。」
わたしと母はわらいました。
和音兄ちゃんが、わたしのおやつをかっ手にぜんぶたべた時、わたしは和音兄ちゃんをおこりました。すると、一番上のお兄ちゃんにおやつをおきっぱなしにしたわたしがわるいと、おこられました。わたしが、なっとくできずにないていると、一番上のお兄ちゃんだって、ずっと前に大じなつう知ひょうを和音兄ちゃんにハサミでバラバラに切られてしまったことを話してくれました。つう知ひょうをかたづけないあなたがわるいと、おやにしかられて、その時はなっとくできなかったそうです。和音兄ちゃんのせいでおこられても、しかたないと思えるようになりました。自分が先に気をつければいいだけだからです。
お父さんは、わたしにはべんきょうしろとうるさいのに、和音兄ちゃんには言わないところは、なんかずるいと思います。お兄ちゃんの学校はときどきジョイフルでハンバーグをたのんでたべるじゅぎょうがあるそうです。うらやましいとおもいます。でも和音兄ちゃんを見ていて、いつも思うのは、大へんそうだなということです。お兄ちゃんは、自分のやってほしいことも、こまっていることも、上手につたえられません。赤ちゃんのなき声がにが手で、わたしも小さい時にいっぱいこまらせたそうです。ラーメンは「うまかっちゃん」ときまっています。みそもしょうゆもほかのとんこつも、なっとくしません。トイレに行きたいと言えないので、はじめて行くばしょはソワソワしていないかかぞくみんなで気にしています。スーパーではぐれたら、わたしがさがしに行きます。チョコレートコーナーかバームクーヘンコーナーの前でよく見つけます。とつぜんキーキーと大ごえをだしてあばれることがあります。でもそういう時は、何かりゆうがあるので、母とそれを考えます。お兄ちゃんも大へんそうだけど、わたしもつかれます。そんな時に母が話してくれました。
「和音兄ちゃんはね。生まれてくる前に、かみさまとお話したの。つぎの人生は、思いどおりにならないことが多いよ。ごかいされることもあるよ。たすけてもらうことばかりだよ。でもきみならやれると思うよ。どうするってね。そしたらお兄ちゃんはね、やってみますってこたえたんだよ。あとね、うるさい妹もいるけどねって、言われたんだよ。」
そういえば母は、
「もうかみさまわーくんは」
と言いながら、お兄ちゃんのかたづけをしていました。かみさまならしかたがないと、わたしはしぶしぶてつだうようになりました。わたしと姉がけんかをすると、母は言いました。
「わーくんは、生まれて今まで一ども人のわる口をいったことがないの。そしてこれからもずっとね。」
お兄ちゃんにはおそわることがいっぱいです。でもわたしは、すぐにわすれてよけいなことをいってしまいます。
わたしは、かみさまとどんなやくそくをして生まれてきたのかな。
【中学生部門】◆大阪府
妹
がっこうほうじんそうかがくえんかんさいそうかちゅうがっこう
学校法人創価学園関西創価中学校 三年
ときわ みみ
常盤 美海
私の妹は殺されてもいいのでしょうか?
二○一六年七月二十六日、最悪な事件が起こった。神奈川県相模原市にある障がい者施設で、元職員により、入居していた障がい者が十九人殺されたのです。犯人は、事件の少し前、衆議院議長に、障がい者を殺すことを正当化させる手紙を送りました。手紙には「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳。障害者は不幸を作ることしかできません。障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。」と書かれてありました。この事件があった後、ツイッターなどでは、「犯人、よくやった!」と言う人達が何人もいたそうです。
私の妹が殺されたら、みんなは幸せになりますか?
私の妹は障がい児です。妹はうまれつき、知的障がいと脳性麻痺を持っていて、今は小学校の支援クラスに通っています。家族に障がい児がいる、ということは、すごく大変なことです。妹は十歳ですが、二歳程度の能力しかなく、普通の子が普通にできることができません。なので、なにをするにしても手伝わないといけません。もし妹が普通の子だったらどれだけ楽だろうと思わない日はありません。
でも、大変だと思うこと以上に、喜びの方が大きいです。妹が笑っていることが嬉しい。妹の成長が嬉しい。妹は、かけがえのない大切な存在で、私達家族の宝であり、誇りです。
しかし、そんな私の妹は殺されるべきだと思う人がいる。障がい者がいたら不幸だと、決め付ける人がいる。妹が「不幸しか作ることのできない存在だ」と、誰が決めていいのだろうか。私は妹に、これ以上ないくらいの幸せをもらっています。妹がいない人生なんて想像できません。
では、なぜ、障がい者は殺されるべきだと思う人がいるのでしょうか。
私は、みんなが、障がいのある人達のことを全然知らないからだと思います。小学生のとき、クラスの男の子が、「がいじ」と言いながら支援クラスの子の真似をしていました。私はすごくショックでした。小学生でもそうやって差別するのに、大人が差別しないはずがないと思いました。
でも、もし全ての人に私の妹のような障がい者の家族がいたら、障がい者を差別したり、障がい者は殺されるべきだと言う人はいなくなると思いませんか?家族でなくても、一人でも障がい者の友達や知り合いがいたら、少しでも障がい者のことを理解していたら、そのようなことを言う人は必ずいなくなると思います。二度とこのような事件を起こさないようにするには、一人一人が障がい者のことを理解する必要があると思います。
そのためにも、小学校や中学校で、もっと障がい者と触れる機会を作るべきだと思います。公立の小学校や中学校には支援クラスがあるので、もっと交流したらいいと思います。また、支援クラスがない場合は、支援学校と交流するとか、支援学校の人達や先生に講演会をしてもらったりしたらいいと思います。
私は、人は必ず使命を持って生まれてきていると思います。障がい者が障がいを持って生まれてきたのは、弱い人がいるということをみんなに伝えるためで、私たちが健康に生まれてきたのは、弱い人を守るためだと思います。私達と障がい者は、障がいがあるかないかが違うだけで、同じ一人の人間です。全ての人間で助け合って生きること、それが、全ての人間が持つ使命だと思います。
私はこれからも、一人の人間として、そして障がい児の姉として、たくさんの人に障がい者のことを伝えていきます。そして必ず、大切な妹のことを最後まで絶対に守り抜きます。
【高校生・一般部門】◆鳥取県
文字が読める喜び
やまざき よしみつ
山崎 嘉通
私は、63歳の障がい者です。障害名は、脳性マヒで、両手両足がマヒのため不自由ですが、首から上は自由に動かすことができるので、口を使って何とかできることを考え、試してみるのですが、できることはごく限られたもので、結局は暮らしの中の大半は介助を受け、それに頼ることになるのです。
自分のできることで一番重要なのは、ある程度の準備をしてもらえば食事が自分で取れることです。他には、パソコンも操作できますが、マウスが使えないので、トラックボールを使い、キーボードでの文字の打ち込みも、口にくわえた棒で打ち込みをします。そして、携帯もスマホに変わりましたが、そのスマホが困りもので、木の棒では反応してくれませんから、インターネットで検索し探して、「長いタッチペン」というものがあり、それを使って操作をしています。また、電動車イスの運転操作も、顎のところでコントローラーを操作ができるようにしていますが、その他のことは口では到底できないことばかりで殆どが介助をしてもらっています。
そんな私は、障がい者支援施設で生活していますが、同じ施設利用者の中で支援員に足を使って一生懸命何かを訴えている女性がおられます。彼女の障害も私と同じ脳性マヒで、構音障害で話すことが難しく言葉で会話をすることは殆どできません。その為、「意思伝達装置」が必要だとリハビリ担当の訓練士さんが判断され、今年の春に申請が通り給付が認められました。
何か月か経って真新しい「意思伝達装置」が届きました。最近の「意思伝達装置」は、ノート型のパソコンでソフトを動かすようになっていて、そのノート型パソコンの画面の下半分に、「あ・か・さ・た・な…」と横方向に表示され、その行が順番に点滅していくので、その中の「あ」の行が点滅したときにボタンを押し選択すると、縦の列の「あ・い・う・え・お」のどれかを選択できるように点滅していくのです。その点滅のタイミングに合わせて、特殊な大きいボタンを押すと、自分が打ち込みたい文字が選ばれ、画面の上半分の白い部分に最終的に選択された文字が表示されて、文章を作ることができるのです。出来上がったその文書を音声で発声させて、相手に聞いてもらいながら会話ができ、またその文書をプリンターで紙に印刷ができるようになっているのです。この機能を使えば、両手が不自由で文字を書けない彼女も、自分の意思を伝えることができるのです。彼女の両足は手よりも器用に使えるので、足を使って操作する彼女にとっては、「意思伝達装置」以上の役割になると思ったのです。
私も彼女も重度の障がい者なので、年齢的にいえば教育免除という措置で、義務教育は受けることができなかった年代だと思います。ですから、小・中学校で当然の義務教育で学ぶべく勉強が学べなかったのです。特に生活でよく使う文字も学べる機会は無かったのですが、運よく私の場合は「ひらがな」や「カタカナ」だけは、明治生まれの祖母が教えてくれて何とか覚えることができました。漢字は模型と相撲にとても興味があり、テレビの相撲中継で、ファンだった力士の四股名を覚えるのにアナウンサーが読み上げるのを聞き、それを覚えました。そしてもう一つは、模型の戦車や軍艦・飛行機が好きになり、戦争で使われた経緯などが専門雑誌の写真とかの横に書いてあり、その説明を読みたくて一文字ずつ聞いているうちに覚えることができました。中でも、一番漢字を覚えることに活躍してくれたのは「ワープロ」でした。言葉を知っていれば、その言葉を打ち込むと自動的に漢字に変換してくれるのですが、初期の「ワープロ」は文字を打ち込んで熟語ごとに変換すると意味不明な変換をして、もう一度一文字ごとに変換しないと、手紙を書いても意味が通じない手紙になってしまったのを覚えています。
そして、彼女の場合は、この施設に入所することが決まってからの短い間に、大急ぎで「ひらがな」と「カタカナ」を覚えられたそうで、漢字までは覚えられなかったと嘆いています。
「意思伝達装置」が来るまでの彼女は、何か職員にしてもらいたいことや用事があるときは、足の指に鉛筆をはさみ、メモ用紙にいっぱいの大きさの「ひらがな」で訴えたい内容を書いて渡していたのですが、足で書いているので、慣れた相手にしかその文字を読んでもらえず、理解に苦しむ職員もいたので困っていました。ですから、彼女が「意思伝達装置」で、「ひらがな」はもちろんのこと漢字も扱えることが分かると、文書の書き方や漢字の使い方を教えて欲しいと、真新しくまだ使い慣れない「意思伝達装置」をさっそく使い、打ち間違えながらも、隣のテーブルでパソコンをしていた私に「文字を読みたい」とか「文書の書き方」などを教えて欲しいと訴えて手紙を書いてきたのです。
私もその時は、驚き、「こんな私に誰かに文字や書き方を教えてあげられるような大役が務まるのか」ということが頭に浮かびましたが、「文字を読みたい」とか「文書の書き方」などを覚えたいという気持ちは、私も以前は思っていたことなので、彼女の気持ちに共感しました。でも、正直を言って、一瞬の迷いもあったことは確かでした。でも、反対の立場であったとしたら、私も同じように頼み込んだと思うので、快く引き受けることにしました。その姿を目にした時「本当に文字を覚えたかった」という一途な気持ちと、素直な気持ちが伝わってきました。
快く引き受けたのですが、私にとって初めて教える方の立場になるので、いったいどのような教え方をすれば、簡単に覚えてもらえるかをいろいろ考え、職員にも知恵を絞ってもらい、ネットで検索をして、たどり着いたのが、大きく漢字を書いて(打って)その上の行に小さく「ふりがな」を入れたものを作るというものでした。離れた場所から見る為もう少し文字を大きくして欲しいと、要望があり、大きくしたのですが、一枚の用紙に印刷できる文字数が減り、同じ文字数だけ作るのにも何枚もの用紙を使うことになり、それに壁に貼れる枚数も限られる為、その文字の大きさを決めるのに手間取りましたが、私がパソコンのある部屋へ行ってみると、その漢字が印刷された紙をジッと見つめておられる彼女の姿を見かけるようになりました。
それからの毎日は、おやつの後の時間帯、彼女も自分のパソコンに向かって、一生懸命足で文字を打つのが日課になりつつあります。一番彼女がしたかったことは、買い物でした。自分の欲しい物がある時は、週に3回ある「買い物代行」というこの施設での制度があり、その買い物で買ってきて欲しい品物の名前と数量を「ひらがな」だけで、打っていて、間違えると私を言葉にならない声で呼び、半分出来上がった文書の直し方や「、」の付くところを教えて欲しいとばかりに呼ばれるので後ろに回って、彼女の肩越しに画面を見ながら教えてあげています。
私のような重度の障がい者は、普段から介助を受けての生活なので、他人に頼ってばかりの生活に慣れてしまい、他人から頼られるとか、信頼されることが殆どない生活ですので、こんなに信頼され、頼られるということは、私にとって、とても嬉しく思えることです。
ですから、これからもより一層、他人から信頼されて、なんにでも頼られる人間になり、精神的にもっと成長をしていきたいと思っています。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【小学生部門】◆大阪市
入院生活で得たこと
おおさかしりつたかどのしょうがっこう
大阪市立高殿小学校 六年
むらた あさと
村田 亜聡
ぼくは、二年生の時にいじめられてPTSDになり、それ以来学校に行けなくなりました。周りに配りょしてもらったり、支援してもらったり、理解してもらわなければ、ふつうに生活が出来なくなるなんて思ってもみないことでした。いつ、だれが障がいを持っても、おかしくないという事を知りました。
学校に行けなくなった三年目の日、ぼくは夢か現実かわからなくなって、気づいたら家の二階のベランダから飛び降りて救急車で運ばれました。いじめられた経験から、子供が怖いぼくは、入院生活を上手くやっていけるか心配だったけど、入院先で知り合った友達は、みんな違う理由で入院しているのに、自然と仲良くなって楽しい毎日を過ごす事ができました。みんなPTSDの事は知らないしぼくも友達の病気の事は詳しく知らないし、友達の中にはもともと障がいを持って生まれてきた子もいれば事故でそうなってしまった子もいました。ぼくたちにとっては、たまたま、友達に障がいがあったというだけで、みんながんばっているという風にしか思いませんでした。みんな、思うようにいかない事もあるので、違う理由でイライラすることもあったけど、なんだかその気持ちが自然と理解できて、そっとしてあげようというふんいきになりました。友達が困っている時は、心配して、一緒に楽しく過ごせるように力になれる事はなんでもしました。障がいについて理解するより、その子の気持ちを理解しようと自然にみんな動いていました。ぼくも、こうふんしすぎたり、悪夢を見て毎晩ベッドから落ちたりするので、同室の友達は、その度、ナースコールを押してくれました。あまりにも毎日続くので、友達は、ぼくのお母さんから理由を聞いて、お母さんがいない時には、看護師さんに理由を伝えてくれたりもしました。いじめられた時の話も自然と出来たし、苦しい事も話したりもしました。人がつらい気持ちを話している時は、だれもわかったふりはしなかったし、理解しようと耳を傾けていました。お母さんから後で聞いた話ですが、ぼくを集中治療室から小児科病棟にうつす時いじめられてPTSDになって、学校に長い間行けていない事やぼくの抱えている問題を看護師さん達は理解し、足の骨折の治りょうだけでなく、この入院生活がぼくにとって成功体験になるように、どの子と同室にすべきか等、いろいろ考えてくれたそうで、おかげで、ぼくは、自分の事を受け入れてくれる子がいる事を知り、自信がつきました。
ぼくは、学校に復学する事も病気を治す事もあきらめていません。ぼくが学校に行くという事は、配りょや支えんが必要なので、周囲にぼくの事を理解してもらわないといけませんが、くじけずに頑張ろうと思います。入院中はその子だけを見ていたので、その子の病気や障がいなんて全く気にもならなかったけど、ぼくも友達も退院すれば、周囲に配りょをしてもらって、支援をしてもらいながら生活をしていく事になります。障がいや病気ばかりを見て、心ない事を言う人もいるかもしれません。ぼくだけでなく、友達もみんな社会の中で、自分の障がいや病気を受け入れて、頑張っているんだと思うとぼくも負けていられないと思っています。学校でも、入院中と同じように、病気や障がいは関係なくまず、その子自身を好きになって、大事に想って、一緒の時間をどうすれば楽しく過ごせるのかを考えて、どうにもならない時は、周りの大人に頼って、安心して過ごせたらいいのになと思いました。障がいや病気なんて関係なく、共に生きていける世の中になるために、ぼくもがんばっていきたいと思いました。
【小学生部門】◆千葉市
未来への一歩をふみ出そう
ちばしりつおゆみのみなみしょうがっこう
千葉市立おゆみ野南小学校 三年
かわしま あおい
川嶋 碧
あの夏忘れられない出会いをしました。一年程前、家族で旅行に行った京都でわがしの手作り体験をしました。甘い物も何かを作ることも大好きな私は、その日をとても楽しみにしていました。
いよいよ待ちに待った当日。
お店へ入ると、まず目に入ったショーケースの中のわがし。そこには、明るいひざしにてらされて、かがやく色とりどりのわがしがたくさんならんでいました。ママとケーキ屋さんへはよく行ったけど、わがし屋さんにはほとんど行ったことのない私は、わがしのきれいさに目がはなれなかったのをおぼえています。あじさいやあさがお、ききょうなどいろんなしゅるいの花の形をしたわがしをながめているとおくからお姉さんが出てきました。私にわがし作りを教えてくれるお姉さんは、笑顔のやさしい方でした。調理場へ行き、用意されたいくつかのあんこを手の平で丸くし、別のあんこでまたそのあんこを包んでいきます。その後、小さい木のヘラで花びらを作るようにゆっくりとほっていきます。細かい作業に苦せんしていると、横でお手本を作りながら教えてくれていたお姉さんが手をそえて一緒に形を整えてくれました。花びらが完成してうれしく思っていた時、お姉さんの手に目がとまりました。きように花びらを作っているその手は指が少なかったのです。私の視線に気づいたお姉さんは、静かに笑って、
「小さい時事故でね。他の指もあまり曲げたりできないの。」
と言いました。こんな事聞いたらいけないと頭で分かっているのに、思わず私は
「それなのにどうして手を使う仕事をえらんだの?」
と聞いてしまいました。でもその質問にお姉さんは、真っすぐ私の目を見て
「わがしが好きだからだよ。手の事を理由にしてあきらめたくなかったから。お姉さんの手は右手にハンデがあるけど、その分左手ががんばりやさんだから大丈夫なの。」
と言いました。
その言葉にドキッとしました。今まで私は辛い事があると、まずあきらめることを考えていました。にげる理由を見つけようとしていました。それは、あきらめる事ががんばるより楽だから。
「何で私だけがこんな思いをしなくちゃいけないの?」
それしか考えられなかった自分が恥ずかしくなりました。
そうじゃない。私だけじゃない。きっとみんな何かとたたかっている。立ち止まってもいいんだ。もし苦しくて前に進む力がなかったら、その場で足ふみをしてもいいから後ろにさがらないようにふんばればいいんだ。自分を信じる勇気を持たなければ何も変わらない。お姉さんに大切な事を気づかせてもらったしゅんかんでした。
完成したわがしは、お姉さんの作ったわがしに比べると形も少し曲がっていて上手とは言えないかもしれないけど私はすっきりとした気もちでした。それは、作る前の自分にはなかった勇気をもてたから。
お姉さんは、しょうがいをのりこえて自分の夢をかなえました。
ありのままの自分を受け入れた先に見えるのは希望だと感じました。
今日の一歩は私の未来への一歩
お姉さんからもらった大きな一歩
【小学生部門】◆神戸市
みんなでいっしょにくらしていこう
こうべしりつうずがもりしょうがっこう
神戸市立渦が森小学校 二年
たうち ゆうしん
田内 湧心
「ねえ、おかあさんあそこに耳のない子がいるよ。かわいそうだね。」
としょかんで四さいのおとうとが大きなこえで言った。いえにかえってからおかあさんはぼくたちきょうだい三人に図書かんでのできごとについてどう思うかを聞いた。よく聞くとおとうとはその子に耳がないのはけがをしたからだと思ったらしい。けがの時いたかったんじゃないかなとしんぱいでかわいそうと思ったみたいだ。五年生のおにいちゃんはすこし考えてから
「やっぱりかわいそうな気がする。耳がないと音が聞こえないかもしれないし、へいこうかんかくが人とちがっているかもしれない。」
と言った。ぼくもいっぱい考えた。耳がないってかわいそうなことなのかな。
ぼくはその子は生まれたときから耳がないのかもしれないと思った。ぼくの学校にも手のさきがなかったり、耳が聞こえにくかったり、歩くのがゆっくりなともだちがいることを校長先生がちょう会ではなしてくれたことがある。校長先生は体にどんなとくちょうがあって、ぼくたちがどうしてあげたらその子たちが学校ですごしやすいかをせつめいしてくれた。校長先生の話をきいてぼくは元気でふつうにクラスですごしているけど、体にとくちょうをもった子もみんなといっしょにすごしやすいかんきょうをつくりたいと思った。こまっていることや手つだってほしいことがないか聞いてあげればいい。クラスに一人今までのやりかたでいっしょにあそべないともだちがいたら、あそびのルールをかえたり新しくくふうをしてなるべくみんなであそべるようにしたい。
ぼくはふつうの赤ちゃんより小さく生まれて二年生になった今も小さいままだ。それにサ行がきれいに話せなくてことばの教しつに通った。ようち園の時ともだちから
「四月生まれなのになんでそんなに小さいの。」
「なんでそんなしゃべりかたになるの。」
と言われてしまった。じ分でもじかくがあるからいやだとは思わなかった。小さく生まれたこと、ことばの教しつに行っていることをつたえたらともだちも分かったというようにそれい上なにも言ってこなかった。小さいのがかわいそうと言われるのはいい気がしないけど、ぼくのことをよく見てきょうみをもって聞いてくれたならうれしい。
体に人とちがうところがあるとしてもそれはかわいそうなことではないと思う。でも体のとくちょうをりゆうにわらったりなか間はずれをしたらかわいそうなことになる。いっしょにくらせるかんきょうをつくるために、まずはあい手をよく見て分からないことはすなおに聞いてみようと思う。おとうとの図書かんでのことばはあい手をきずつけたかもしれない。でもその分ぼくたちきょうだいはいっぱい考えた。耳がなくてもその子がしあわせでいられるかんきょうをみんなでつくればいい。
【中学生部門】◆鳥取県
私=私+障がい
くらよししりつひがしちゅうがっこう
倉吉市立東中学校 三年
いしが みづき
石賀 美月
みなさんは、障がいと聞いてどんな障がいを思い浮かべますか。一口に障がいといっても、乙武さんのように四肢欠損など見た目だけで配慮が必要だと判断できる障がいもあれば、ヘレン・ケラーさんのように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったりする見た目だけでは判断しづらい障がいもあります。
私は後者の障がい者です。小学校一年生の時に聴力検査において再検査の通知を受け、大学病院でくわしく検査したところ、私には左耳の聴力が先天的に備わっていないことが判明しました。私はその時、どうりで聞きとりにくいことがあるわけだと納得したのですが、一緒に来ていた母は先が見えなくなり、私の将来を案じ、病院からの帰り道このまま私を連れて海で死のうと本気で思ったそうです。今私は生きているのですが、当時私が母をそこまで追いつめていたのかと思うと、心苦しくなります。その後私は小学校に入学してすくすくと育っていくのですが、成長するにつれ、私は耳のことで思い悩むようになりました。なぜかというと、私は左側から音を受けとることができないので、左側から話しかけられても反応を返せないからです。その反応を返せないことが無視だと思われてしまい、私は一部の人から嫌われるようになりました。そのことが辛くて、どうして神様は私に障がいを与えたのだろうか、どうしてもっと見てわかりやすく、誤解されない障がいにしてくれなかったのだろうかと毎日毎日考えました。
それは中学校に入学してからも続きました。私は中学一年生の時、左側から迫る車に気付けずに交通事故にあいました。幸い命に関わるものではありませんでしたが、このことでまたいちだんと自分の耳が嫌いになり、いつしかそれは憎しみに変わりました。自分のことが嫌でたまらなくなり、消えたいと何回も願いました。今自分が呼吸していることすら罪のように感じ、どうせ聴こえないなら左耳を切り落としてやりたいとも思いました。
私がネットでジーン・ドリスコル選手の名言を見つけたのはそんな時でした。ドリスコル選手は幼少の頃から車椅子に乗って過ごして、パラリンピックで5つの金メダルを獲得した長距離の選手です。私が見つけた彼の名言はこれです。
「障がいは障がいではなくて、私の特徴の一つになった。」
私は初めてこの名言を見つけた時、頭をハンマーで殴られたかのようなショックを受けました。なぜなら、今まで私にとって障がいとはお荷物でしかなく、障がいが自分の特徴の一つなどとは一ミリも考えていなかったからです。しかし、私はこの名言のおかげでとても大切なことに気付くことができました。それは、私は左耳が聴こえないということもふくめて私だということです。だからいくら私が自分の障がいを憎んでも、私と障がいは切っても切れないものなのです。私は障がいとよりそい生きていくのです。しかしなぜでしょうか。障がいのある私というのが前よりも嫌いじゃありません。むしろ、自分の特徴の一つとして人に堂々と話せるようになりました。
それはなぜかというと、やっぱり自分の障がいを受け入れたからだと思います。自分の障がいを受け入れ堂々としているだけで、私の心はずいぶんと軽くなりました。だからもしも今、自分の障がいをお荷物だと思っている人がいるとしたら私はこう伝えたいです。
あなたはその障がいもふくめてあなたなんだよ。そしてその障がいは、あなたにしかない大切な個性。だから障がいをお荷物として憎むのではなく、個性として認めて欲しい。そうすることできっとあなたは楽になるし、私たちの世界をもっともっと広げていけるのだから。
【中学生部門】◆茨城県
「日本では肩身が狭いのよ。」
つちうらしりつつちうらだいいちちゅうがっこう
土浦市立土浦第一中学校 二年
みやしろ かずき
宮代 和騎
僕はこの夏、両親とカナダに住む友人家族を訪ねた。バンクーバーとカルガリー、そしてバンフという町でロッキー山脈を見に行った。アメリカはもちろん、ヨーロッパやアフリカ、アジアの人たちが集まり、僕は少し、怖いと感じてしまった。いろいろな人種の人が、いろいろな言葉を話し、ジェスチャーも大きくて、表情も激しく変わるし、大声を出す人も多かったからだ。
しかし、バスに乗ろうとした時に、その印象が一変したのだ。十人くらいの行列ができていた。杖をついていた女性が行列の後ろに立っていて、遠慮しているように見えた。僕はそれに気づいたけれど、自分の番になったら乗り込もう、運転手さんに英語で挨拶しなくちゃ…と考えながら待っていただけだった。すると、ガムをクチャクチャかんでいた黒人の若い男性が、僕をいきなり後ろへ引っぱった。その手には大きな指輪や入れずみがありてっきり乱暴なことをされると思ってしまった。助けて欲しくてまわりを見ると、金髪の派手な服装の女性や、かなり高齢に見える白人男性も、僕を引っぱった。驚いていると、バスの入口の前の人ごみがスッと分かれて、みんなが一番後ろの女性を支えて、バスのステップに上がれるようにしてあげていた。その女性は、何度も「サンキュー」と言って、笑顔でバスに乗り込んだ。その後に僕も乗り込み、さっき、自分が人を『見かけ』で判断してしまったことを後悔していた。そして、バスがなかなか発車しないことを不思議に思い、奧の方を見回した。
バスの中は混んでいたが、その女性が進んだ先が、またスーッと道が開いて、折りたたまれた座席を、近くの黒人の人や白人の人が女性が座れるように準備していた。僕は思わずそれに手を貸していた。その女性がその席に座れるまで、バスは動かずに待ってから、静かに出発した。
バスが動き出すと、その、杖をついた女性が僕に話しかけた。
「日本では、肩身が狭いのよ。」
僕が日本人だとわかったようだ。その女性も日本人だった。
「日本って急いでる人が多いのかな。私みたいな者は、迷惑そうな目を向けられて、早くしてよ、と言われているみたいで。電車やバスに乗るのは用事の時だけ。旅に出るなら海外の方が逆に気楽。急かす人も少ないし。」
僕は恥ずかしい気持ちになった。確かに僕も、杖をついた人を自然に支えようとか、スマートな行動はできずにいた。全員乗ったバスは、すぐに扉を閉めて急な発進をすることに慣れていた。その気持ちが伝わったのか、その女性は、
「でも、周りの人が助けてくれていた時、手伝ってくれたね。」
と、笑ってくれた。少し救われた気がした。
この初めての海外旅行を通して、僕は、自分自身もいろいろな偏見を持ってしまっていたことに気づいた。『この国の人はこんな人』…と、イメージを持ってしまっていた。そして、『国内より海外の方が旅行しやすい』と思う、障がいを持つ日本の方がいることにも初めて気づいた。そういえば、この旅行中、高山にも氷河にも滝の近くにも、たくさんの車いすの方が旅していたことも印象的だった。
日本は平和で便利で優しい国だと信じきっていたので、ショックだった。でも、あの女性が、最後に、
「でも、三十年前より、バリアフリーは進んでいるよ、確実に。」
と、話してくれた。この旅で感じたことや、体験したことを、いろいろなところで、いろいろな人に伝えていこう。すぐに大きなことはできなくても、伝えていくことで、何かにつながるかも知れないのだ。
【中学生部門】◆広島県
きむ
希望になりたい~金さんがくれた人の輪~
がっこうほうじんえいしんがくえん えいしんちゅうがくこうとうがっこう
学校法人盈進学園 盈進中学高等学校 二年
きたはら たくみ
北原 匠
金泰九(キムテグ)さん。90才。瀬戸内海の小島に60年以上暮らしている。そこは岡山県の長島愛生園という国立(ハンセン病)療養所。私は、幼い頃から金さんが大好きだ。
ハンセン病は、かつて“らい”と呼ばれて、厳しい差別と偏見にさらされた。慢性の感染症で、主に末梢神経が冒され、知覚マヒなどを引き起こす。手足や顔に障がいが見えることなどから、人びとから嫌われてきた過去がある。現在の日本では、完全に克服されている。だから、現在の愛生園には、ハンセン病患者は一人もいない。かつてこの病を患った人は回復者と呼ばれ、金さんもその一人だ。
日本には、1996年まで、「らい予防法」という、ハンセン病にかかった人たちを愛生園などの人里離れた療養所に隔離する法律があった。金さんは1952年に、大阪に妻を残して長島愛生園に強制収容された。「回春寮という名の収容所で、裸にされ、身体検査をされたときに、『ああ、これで、妻のもとへは帰られないなぁ』と思った」と金さんは私に語った。
かつて、園内では、比較的病気の軽い人が病気の重い人の看病をしたり、手足の不自由な仲間のトイレの世話をしたり、畑仕事をしたり・・・療養所は病院。にもかかわらず、強制労働があったので、知覚マヒを起こした手足を痛め、そこに傷口をつくって病状が悪化した。「痛い」という感覚を奪われた手足の傷は、知らぬ間にさらに悪化し、指が曲がり、切断しなくてはならなくなった人も多かった。入所者のなかに、そんな人が多いのは、病気そのものによるものではなく、そのような理由からであり、後遺障がいに過ぎない。金さんは、差別に耐えてきたからこそ、私にも誰にでもやさしく、いつも笑顔だ。そんな金さんも手足に障がいがある。左手の五指はすべて曲がっている。右手の親指と人差し指と中指は切断、薬指と小指は曲がっている。でも、私は、そんな金さんの手が大好きで、会えば、いつもその手をずっと握っている。苦労したその手は、強く生きてきた証に思える。幼い頃、その手で、高々と抱き上げてもらったことがあるが、とてもうれしかったので、いまでもはっきり覚えている。
私には障がいがある。生まれつき骨の成長が極端に遅い骨幹端軟骨無形成症。現在、身長90㎝、体重18㎏。2万人に1人の割合で発症する厚生労働省の指定難病だ。私は脊椎の側弯を伴う。毎日3種類の投薬は欠かせない。
通っている中学校には感謝している。先生方と全校生徒1200人が私を受け入れてくれた。トイレには手すり、公衆電話には踏み台、勉強机は小さいサイズにしてもらった。
ただ1つ、不安なことがある。他の生徒が校舎内を走ることだ。ちょうど彼らのひざが私の頭にあたるので、何度か怖い思いをした。教室を出た途端、ぶつかった。私は突き飛ばされて頭を打った。大事に至らなかったが怖かった。先生も生徒も急ぐ場合もあるだろう。でも少しだけ周りを気にしてほしい。
7月下旬、相模原市の知的障害者施設で起きた殺人事件。怒り心頭。言語道断。人の命と生きる権利は、誰も奪うことはできない。
先日、学校の仲間や先輩たちと一泊二日で金さんに会いに行った。金さんは耳も目も衰えている。動きも遅くなり、言葉も少なくなった。少し悲しかったが、笑顔は衰えていなかった。私のことも覚えていてくれて、「(会えて)うれしいよ」と言ってくださった。金さんの手を握った。本当に勇気がわいてきた。
合宿だったので、男子5人で大きなお風呂に行った。背中を流し合って、湯船で語り合った。その嬉しさは最上級だった。なぜなら、気がついたら、みんなと同じように、私は普通に生活しているからだ。仲間こそ宝だ。
金さんがくれた人の輪。そして、人と人がつながるかけがえのない時間。金さんが私の希望であるように、私は、障がいのある人の希望になりたい。みんなが他者を思いやれば差別や偏見はきっとなくすことができる。
【高校生・一般部門】◆栃木県
見えること、見えないこと
とちぎけんりつもうがっこう(こうとうぶ)
栃木県立盲学校(高等部) 一年
やそめ まどか
八染 まどか
何か見たいものが見えたとき、涙が溢れるほど喜んだことはありますか。今まで見たことがなかったもの、ずっと見たかったものが見えたときの感動を知っていますか。
私はその感動を三回体験したことがあります。
一度目は中学三年生の時でした。私は生まれつき弱視だったので毎日母が学校の送迎をしてくれていました。その日も母を校門近くで待っていました。昼から雨が降っていましたが、昇降口を出る頃には止んでいました。私は母を待ちながらぼんやり空を見上げていました。虹が見たかったからです。私は、映像や写真、絵以外で虹を見たことがありませんでした。だから雨上がりはいつも空を眺めていたけれど、見えたことはありません。今日も無理かと諦めかけていたとき、私の狭い視野に虹が入り込んできました。
「虹が見えた!とてもきれい。」
私は母が来たのも気付かずに虹を見ていました。すごく嬉しかった。母に声をかけられるまで私はずっと虹を見ていました。自然と笑顔になっていました。
二度目と三度目は高校一年生になってからでした。ある日、従兄弟たちと私の家族で蛍を見に行きました。私は蛍も見たことがありませんでした。光が薄く小さいうえに動き回るので、狭い私の視野ではなかなかとらえることができないからです。きょろきょろしながら探していたら母に「目の前の茂みに止まっているからよく見てごらん。」と言われ、少しずつ視線を動かしながら探すと、淡い光が視界に入ってきました。涙が溢れそうでした。まわりにはたくさん蛍がいるけどその蛍の群れは見えません。でも、たった一匹の蛍を見つけることができたことは私にとって何よりも嬉しかったです。帰るときに、やはり初めて蛍を見た従兄弟が
「蛍、いっぱいいてすごかったね。きれいだった。」
と興奮して話しかけてきました。どのくらいいたかはわからなかった私は、一匹だけ見た蛍がたくさんいる様子を想像して従兄弟に
「そうだね。」
と答えました。数は違いますが、同じ蛍を見て「きれいだったね」と笑い合えました。
「すごいね」「そうだね」
何気ない会話ですが、それまでの従兄弟と私には縁がありませんでした。それを一匹の蛍がつないでくれたのです。そのときまた、涙が溢れそうになりました。
私は暗いところが見えにくく、夜空には月しか映りません。そんな私は見てみたいものがありました。それは星空です。プラネタリウムでも見ることができなかった星。夜空に浮かぶたくさんの星を見たいと、幼い頃からずっと思っていました。流星群が見られるという日には空を見上げて流れ星を探しました。けれどいつも真っ暗な空に見えるのは月だけでした。
あるスーパーマーズの日。私は母と外に出て、火星を探してみました。いつもの通り見えるのは月だけ。半分諦めながらも母に火星の位置を教えてもらい探していたら、とても小さな光が真っ暗な夜空に一つ見えました。母にその光を指さしながら「あれって火星?」と聞いてみました。母は「そうそう。よかったね、星が見れて。」と言いました。「うん」と私がうなずいた瞬間に涙が一筋流れました。他の星は見えなかったけど、ずっと見たかった星を見ることができて私はとても幸せな気持ちになりました。ふと、母が言いました。「希望は捨てないでね。今、まどかの目で星が見えたんだから。いつ治療法が見つかるかわからないけど、最後まで希望を捨てないで。いつか星いっぱいの夜空が見えることを信じて。」
私はそのとき、中学二年生の時の友達との約束を思い出しました。スキー宿泊学習の夜にした他愛のない約束。
「いつかみんなでスキーしに来て、その夜に星見ようね。」
同じ部屋にいた六人が口々に「見ようね」「そうだね」と言い、私にも笑いかけてきました。「うん」としか言えなかった私。私はこの約束をきっと果たせないと諦めていました。だけど火星を見ることができて、「いつか見たいね。」と、あのときのクラスメイトに心の中で語りかけていました。
これが私が経験した三回の感動です。健常な人たちには虹や蛍や星が見えるのは当たり前かもしれません。だからきれいなものを見て感動しても、見えたことに感動することはあまりないのかもしれません。私に見える世界と見えない世界は他の人のそれと違います。それでも、私に見えないものを見たいという希望を捨てずにいたいと思います。見たいと思っていたものが見えた嬉しさ。そして、その気持ちを誰かと共有できたときの喜び。それがかけがえのないことだと私は実感しています。
健常な人も含めて、人によって見え方はいろいろあるでしょう。だからこそ、自分に見えて相手に見えないこと、相手に見えて自分に見えないこと、お互い見えていること、見えていないことを共有し、理解し合っていきたい。そうすることが、一緒に笑い合い、ともに歩んでいく社会を築くささやかな一歩になると信じています。
【高校生・一般部門】◆仙台市
あの時の思い…そしてこれから
すずき しほ
鈴木 志保
ずっと心の奥に引っかかっている忘れられない出来事があります。
私の家は老舗のそば屋を営んでいます。私が幼い頃はコンビニや飲食店も今より普及しておらず、とても忙しく従業員さんも十人位いたと思います。その十人の半分は知的障がい者の人で住み込みで働いていました。今は一人だけになってしまいましたが、その人ももう二十五年、一緒に暮らしています。トイレもお風呂も御飯も一緒です。今の核家族世代の子どもたちは想像もつかないかもしれません。祖父母、父と母、妹二人、そして従業員さん、核大、大!家族です。生まれた時からそんな環境の中で育ったので違和感や嫌悪感は感じたことはありませんでした。
私や妹の面倒を見てくれていたのは知的障がいを持つ従業員の方たちでした。こんな言い方は失礼かもしれませんが、他の従業員の人と同じ様に働くことは難しく、洗い場や掃除の他に父母にかわり私達姉妹に御飯を食べさせてくれて、オムツも替えてお風呂にも入れてくれました。オンブをして公園に連れて行くことも日課だったと聞きました。絵が得意な人はよくロボットやアニメの絵を描いてくれたのを今でもはっきり覚えています。
障がいのある人とない人が支え合う共生社会、という言葉をよく耳にします。私が幼かったあの頃、祖父母も父母も周りの誰もが共生社会ということを考えていた訳ではなく、あたり前に、障がいのあるなしに関わらずお互いを信頼し助け合って生きていたように思います。誰かから信じて頼りにされることで、やる気や自信がつき頑張って生きていくことが出来るのだと…父母は本当に心から信頼して私達姉妹の面倒を見てもらっていたのだと思います。
それなのに…自分でもなぜあの時あんな態度を取ってしまったのか、私の心が弱く醜かったからでしょうか。
私が中学二年の時、友達と下校中に遠くの方で両手を大きく振って、体をピョンピョン跳ねて
「おっかえり?!ヤッホ?!」
と満面の笑みでずっと手を振っている人がいました。お店で働いている知的障がい者の人でした。ただいま、と手を振り返そうとした時に友達が、
「何あの変な人、知ってる?」
と、その時私は俯いて、全然知らない、と答えてしまったのです。俯きながら目だけその人を見ると不思議そうな少し悲しそうな顔で手を振っていました。胸が苦しくて痛くて、自分が恥ずかしくて、店に帰ってもその人と顔を合わせられずにいました。でもその人は忘れているのか何とも思っていないのか、いつも通り笑顔で話しかけてきました。普通に接してくれる程に自分のことが嫌で嫌でたまらなくなりました。生まれた時から一緒に暮らしてきて家族のように思っていた筈なのに、友達に変な人と思われた人と一緒に住んでいると思われたくなかった、そう思った自分が恥ずかしくて、折角私を見つけて嬉しくて大きく手を振ってくれたのに声も掛けずに悲しい気持ちにさせてしまった事、ずっと忘れられずに過ごしてきました。
私が大学に入学する頃にその従業員さんも店を辞めてしまい会うこともなくなりました。それでも胸の奥にあるあの時の気持ちは忘れたことはありませんでした。
結婚をして三番目の子を妊娠中、六ヵ月で破水をしてしまいお医者様から、もし生まれてきてもかなり重い障がいを持つと告げられました。ベットの上で頭に思い浮かんだ事はあの時の罰だ、あの時醜い気持ちで無視してしまったからだと。今思えばその人は私を恨んだり怒ったりしている筈がないのに、そんな事を考えていました。
我が子は奇跡的に無事生まれて、左半身の軽いまひはあるものの元気に中学校に通っています。障がいがあることで我慢すること、辛いことも多々ありますがとても心が強く、どんな風に生まれてきても今、生きていることが大事なんだよ、と逆に励まされています。
母になり、障がいを持つ子の親になり、気づいたこと、教えられたことが山ほどあります。障がいがあることで皆に迷惑をかけることを誰よりも本人が理解していること、だからこそいつもありがとう、と感謝の気持ちでいます。そして何事にも一生懸命です。
私はこの子が大人になり働きに出ることになった時、住み込みで働きに出せるかと考えてみました。働き口の方を心から信じていたとしても心配で手離せないかもしれません。逆に自分の子どもを、それも乳幼児や幼少の子を、障がいのある人に預けられるだろうか、信じて公園に行かせられるだろうか、無理かもしれません。自分の心の小ささに嫌気がします。障がいのあるなしに関わらず、人間が共に生きていくことには何よりも「信頼」が一番なのだと今更ながら思い知らされています。誰もが誰かに助けられ支えられ生きています。障がいがあるからといって何かをしてもらうばかりではありません。健常者だから何かをしてあげるばかりではないと思うのです。私が障がいを持つ人に育てられたように誰もが信じて頼られる存在であることが共生への第一歩なのではないかと思います。
今年の夏、父が近所のスーパーで二十五年振りに店で働いていた障がい者の人とばったり会ったそうです。私が中学の時、無視してしまったあの人です。店に来るように誘ったところ喜んで来てくれました。もう還暦なんだよーと話す笑顔はあの頃と何も変わっていませんでした。本当に四十歳位にしか見えず得意だったロボットの絵を沢山描いてお土産にと渡してくれました。あの時はごめんなさいと何度も言おうと思ったのですが言い出せずに、でも多分そんな事気にしてないよーといつもと同じ笑顔で言ってくれる気がしました。私の子どもたちと楽しく話しているのを見て、あの、忘れられなかった苦しい想いが少しずつ溶けて、何か優しい物が心に入っていくようでした。
私は多分障がい者の人と見近に生きてきたと思います。娘が障がいを持ったことでより色々な思いや悩み、苦労も喜びも感じることが出来ました。そんな私でも、人からの目を気にしたり、自分の子どもが今よりずっと重い障がいだったら今と同じ気持ちで生きていけるのか…わかりません。でも、だからこそ障がいのある人や子どもたちから沢山のことを学び伝えられることがあると思うのです。
人を傷つけると、自分の心も傷ついていきます。人を信じることは簡単ではありませんが、誰かを信じ、信じられ、助け、助けられ、支え、支え合えるそんな優しい輪が広がるよう、そんな未来を信じて笑顔で生きていきたいです。
【高校生・一般部門】◆富山県
私の夢
とやまけんりつなんとふくのこうとうがっこう
富山県立南砺福野高等学校 三年
なかむら みく
中村 未来
私には、叶えたい夢、叶えなければいけない夢があります。それは、美容師になることです。私は、障がいのある人もない人も、誰もが自分に自信を持てるきっかけとなる美容師になりたいと思っています。そのように思ったきっかけは二つあります。
一つ目は、私の兄についてです。三つ年上の兄は、知的障害があります。千人に一人の確率で生まれてくると言われているダウン症です。そんな兄は、昨年二十歳になり少し普段とは違う意識を持つようになりました。それは、〝かっこよくなりたい〟という美意識でした。知り合いが経営している美容室に行くと、いつも「この人みたいな髪型にして。」とわざわざ写真や雑誌を見せて切ってもらっています。ですが、全く同じになるわけでもなく、いつも同じような髪型で帰ってきます。本人は、とても満足している様子でしたが、私は少し違和感を感じました。調べてみると、あるワードが出てきました。それは、「障がい者カット」という髪型です。聞き慣れない方が多いと思われますが、障がいをもっておられる家庭や障がいについて聞いたことがあると思います。例えば、身体障がい者に対して、介護をする時に邪魔になるからと男女関係なくショートカットや坊主にする人がいます。本人がそうしたいと望んだのなら別ですが勝手なイメージで本人の気持ちを無視しその髪型になる人もいます。そのような方の髪型を「障がい者カット」といいます。この髪型にさせたくない。本人のなりたい自分になってもらいたい。キレイになった時の喜びを味わってもらいたいと強く思いました。
2つ目は、福祉系高校に通う私が地元の老人ホームに実習に行った時のことです。私が声を掛けた利用者の方は、嬉しそうに自分の手を見つめておられました。私は、とても気になり利用者の方の手元を見ると爪がキラキラとしていました。「これ、どうしたのですか。」と尋ねると利用者の方はニコッと笑い言いました。「先日ね、美容師の方が来てネイルやお化粧をしてくれたのよ。」と言い、再び嬉しそうに爪を見つめました。また、別の施設では、美容師の方がボランティアで利用者の方の髪を切りに来ている様子を見ることができました。普段、自虐的な発言が多い利用者の方が髪を切り終わった後には笑顔だったのがとても印象的でした。利用者の方の中には、美容師の方との会話を楽しみにしていると知りとても魅力を感じました。性別や年齢、障がいがあるなし関係なく「笑顔になってほしい」と思ったのがきっかけでした。
だからこそ私は、誰もが自分に自信を持つきっかけを作るためには、今の環境について知るべきだと思いました。障がい者の方はどこで髪を切っているのだろうか。私は、ふと疑問を抱き母に相談しました。すると、とても苦労をしていることが分かりました。障がい者を受け入れてくれる美容室や他人の目を気にせず髪を切ることができる場所、車椅子の障がい者に対する配慮や設備といった様々な条件が必要でした。そのような美容室がなかなか見つからず、自分の家で髪を切るという人もいると知りました。「差別」や「偏見」とまでは言えないかもしれないがそのような私たちの身近な場所で障がい者や家族が受け入れを断られています。私たちは、キレイになりたいと思い美容室に通うのに違った不安を抱えながら行く人がいるということをどれだけの人が知っているでしょうか。誰だって「キレイになりたい」「かっこよくなりたい」と一度は感じるものです。それをなかったことにするのはどうでしょうか。自分に自信を持てなくなると思います。そうなったら、毎日の生活を心の底から、楽しい、嬉しい、幸せなどの幸福感は出てくるのでしょうか。そこから生まれる笑顔は見ることができるでしょうか。
だから私は、美容師になり不安を抱えている方々の気持ちを少しでも取り除いていけるような活動をしていきたいです。そして、美容室を立ち上げ誰もが安心して通える空間、設備にしたいです。私たちが気づかない所で障がい者の方が日々の生活を困難としているかもしれません。それを、私たちが気づき、理解することで少しでもその困難をなくすことができるかもしれません。だから私は、これからも障がい者の方と関わりたいです。そして、少しでも兄や障がい者の方の支えとなるような様々な困難を見つけていきます。
※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページでご覧いただけます。