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付録7 平成29年度 障害者週間 心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞

【小学生部門】◆千葉県

わたしの弟(おとうと)

我孫子(あびこ)市立湖北台西(こほくだいにし)小学校 二年
茅野(かやの) 葵(あおい)


わたしには4さいの弟がいます。名前はゆう太といいます。ゆうちゃんは、生まれつきはついくがゆっくりしています。そのため、言ばを上手に話せません。たとえば「ジュースをちょうだい。」とかは言えません。一人でトイレに行けないのでオムツをしています。

毎日元気いっぱいで、いつもニコニコしています。テレビやラジオからすきな歌が聞こえてくるとおどり出す時があります。

テレビを見ている時や、絵本を読んでいる時は、わたしのひざの上にちょこんとすわります。いいにおいがしてとてもかわいいです。

お姉さんとけんかをしてないてしまった時には、ハンカチをもって来てくれました。なみだをふいていたら、頭をよしよしとなでてくれました。とてもやさしいです。

お手つだいもします。ごはんの時はお茶わんをはこんで、おはしをならべます。上手にできなくても、一生けんめいがんばります。

ごはんは、おなかがパンパンにふくれるまで食べます。バナナがすきで、べつばらをいくつももっているようです。

公園のすべり台が大すきで、何回でもすべります。犬のさん歩をしている人を見かけると近づいて行ってすぐになかよしになります。

どうやら、ゆうちゃんのえ顔は、みんなをしあわせにするふしぎな力があるようです。

こまることもあります。わたしをかむことです。かんだらすぐには、はなしません。せ中に、はがたがついたこともあります。

いたずらもよくします。つくえの上をちらかしたり、ふすまにマジックでいたずら書きをしたこともあります。こないだは、トイレにボールをながしてつまらせてしまい、とってもこまりました。わたしがちゅういすると「あっかんべー」をしてお母さんのところへにげて行ってしまいました。

せん日、弟が一人で外へ行ってしまったことがあります。公園へさがしに行ってもいません。通りがかった人が「小さな男の子がスーパーにむかって歩いているのを見た」と教えてくれました。いそいでスーパーに行ってみると、弟が店内で買いものをしていました。小さな手さげの中には、タコ、たらこ、キウイフルーツ、ネギが入っていました。タコい外は、かぞくのこうぶつです。

タコはというと、わたしが「工作でたこ糸がほしい。」と言っていたのを聞いていたのでしょうか。とつぜん、なみだが出て来て、弟をだきしめてしまいました。ぶじでよかった。

わかったことがあります。弟はゆっくりだけど、自分でくつもはけるし、歩くこともできるのです。道も知っています。それと、うまくおしゃべりはできないけれど、話を聞いて理かいしていることです。

お父さんは「これからは一人前にあつかわなければならないね。」と言いました。

弟はかけがえのない家ぞくの一いんです。

小学生になって、一しょに学校に行くのが楽しみです。ゆうちゃん大すきだよ。


【中学生部門】◆千葉県

会話(かいわ)の先(さき)にあるもの

筑波大学附属(つくばだいがくふぞく)聴覚特別支援学校中学部 三年
髙橋(たかはし) 茜(あかね)


「利用者と積極的にお話してください。」高齢者の皆さんが利用するデイサービスでの職場体験。打ち合わせでそう言われたとき、私はとても心配になりました。

私は聴覚に障害があります。耳が聞こえない私がどうやって話せばいいのか。どんなお話をすればいいのか。どうすれば楽しんでいただけるのか。話が通じなかったらどうしようと、不安でいっぱいになりました。

当日まで悩みました。様々なことを考えました。私の発音は、耳の聞こえる人とは違います。でも経験上、頑張って相手に伝えようと発音に気をつけ過ぎると、いつもの自分の声ではなくなり、かえって伝わりにくくなることがわかっています。声はいつも通り、簡単な身振りをつけてみよう、と考えました。まずはじめは、自分の学校生活について話してみてはどうかとも思いました。

職場体験当日、考えていた通り、自分から声をかけて話してみました。すると、話しかけた相手、おばあさんは、うなずきながら聞いてくださったので、私は、私の話が伝わっているんだな、とほっとしました。嬉しくなった私は、家族の話、将来の話など、話題も変えてみました。そうすると、相手も、自分の学生時代の話や家族の話をしてくださるようになりました。時々身振りをつけたり、顔の表情をはっきり示してくださったりもしました。私が聞こえない生徒であることを知って、気を遣ってくださったのかもしれませんが、聞こえるとか聞こえないにかかわらず、一生懸命私に伝えてくださっているようにも思えました。利用者の方々のお陰で、たくさん会話をすることができました。私は驚きました。会話を重ねていくうちに、相手が、笑顔になっていくではないですか。私との会話を楽しんでくださっていることがわかりました。安心すると同時に、味わったことのない喜びがこみ上げてきました。私自身も、おばあさんとの会話がとても楽しかったのです。

私は、相手の話の内容が全てわかったわけではありません。どうしても読み取れない言葉、聞き逃したり、見逃したりした言葉もありました。はっきり話してくださったお陰で、口の形から単語がわかり、話の流れを想像しながら、内容を理解していくことができました。気をつけたことは、最後まで聞くこと、共感して聞くことです。そうしようと思えたのは、一生懸命私に話を聞かせてくれる、自分のことを伝えようとしてくれる利用者のおばあさんが目の前にいたからです。

利用者の方々のお話は、とても興味深いものでした。特に、戦争を体験したときの話は、私が知らなかったことがたくさんありました。私と同じような年頃に、学校に行けず、兵隊さんの軍服を作る毎日だったそうです。「今の子どもたちは、希望をもてるからうらやましい」と話してくださいました。やりたいことがあっても自分の夢をあきらめなければならなかったのです。私は、自分は幸せだと感じました。自分ができることは積極的に取り組んでいこう、と思いました。耳が聞こえないことを理由にして、自分のやりたいことをあきらめるのはやめよう、そう思ったのです。

職場体験に行く前、私は、聞こえない私が会話をすることができるのか、楽しむことなんかできないのではないか、心配ばかりしていました。「聞こえない」ということに、私自身がこだわっていました。お互いが伝えたい、わかり合いたいと思えたとき、話は伝わるのです。聞こえるか聞こえないかではない。通じなかったら、通じるまで工夫して伝えること、相手の話がわからなかったら、わかるまで聞くこと、そんな当たり前のことをこれからも大事にしたいと強く思いました。そうすれば、お互いに様々なことを感じたり、思いがけないことを相手から教わったりすることができるのではないかと思うのです。


【高校生・一般部門】◆岩手県

人生(じんせい)を支(ささ)えた出会(であ)い

駒場(こまば) 恒雄(つねお)


手足が不自由になる病気を発症し、障がい者に厳しい社会に生きる意欲を失ったこともある。街や施設の構造よりも辛かったのは、身体障害に対する偏見と差別だった。

病気の理解が得られないという苦しみは、家庭崩壊も引き起こした。この苦しみや悩みは自己責任として誰もが耐えていた。不便な社会で暮らす体験を、思い切って地元新聞に投稿した。同じ悩みを抱える知らない人から、感謝と励ましの電話を貰い驚いた。

この行動で「ひとりぼっち」の不安が解消され自信もできた。患者会など障がい者団体活動やイベントに参加し、色々な障害を抱える人やその家族と出会うことが出来た。更に、一歩踏み出すことで福祉関係者や医療関係者などたくさんの人との交流で人脈も出来た。

人との出会いは悩みを抱える仲間にも役立つことが出来たのは大きな成果としている。

三十歳になったある日、床の少しの段差につまずいて転んだ。手足の異常は疲れが原因だと思っていた。体の異変は回復すること無く階段を上る足の力もなくなった。

未だ治療法も無い筋ジストロフィーによる障害と暮らすことになったのである。手足の運動機能から、心臓や呼吸の筋力まで侵されやがては寝たきりから死に至る重篤な病気だと知った。医学研究や医療技術が進歩している時代に、治療法の無い病気があることが信じられなかった。

手足の筋力は日毎に衰え、段差に躓いて転び、和式トイレから立ち上がることが出来ず助けを呼んだ。職場の階段には手すりが無かった。階段を四つん這いになって上ったこともある。「無理するな、休め。治ってからまた働けば良いのに」と、その姿に同僚らは心配してくれたが私には辛い言葉だった。背中におんぶしてもらい二階に移動することもあった。病気は徐々に進行し寝たきりになると言われていたので、できるところまで頑張ろうと心に決めていた。

挫けそうな時には石川啄木の詩、「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」を心の支えとした。

職場の上司や同僚に励まされながら、車いすの生活になっても働いていたが、限界となり52歳で退職した。病気を発症して以来、身体障害が徐々に悪化する姿を見守ってくれた、職場と上司の優しさに感謝している。

病気理解を深めるため患者会に入会し、研修会や講演会に参加することで病気の理解が深まった。この研修会には家族も一緒に同行してくれた。仲間の症状を見ることで、これから自分の体に現れる状態を予測し覚悟ができた。家族に病気の理解があったお蔭で、闘病生活に大きな支えとなった。

筋力が低下する原因は、人間の体を作っている遺伝子DNAの変異と言われ、よく理解ができなかった。生物の宿命である突然変異は遺伝子DNAの写し間違いや重複や、祖先や親から引き継がれてきたものだった。この生物が抱える神秘的な宿命に誰も羨むことができない事実だった。

特異な病気に対する偏見に苦しみ、徐々に進行する身体障害の不安。誰かに聞いてほしい悩みを抱える患者と家族と出会い、傾聴は生きる勇気を支える大切なものだった。

仲間との会話から、病気や障害の体験者として役立つことを知った。福祉制度の適用を受けるには、申請や届け出が必要であり無ければ自己責任としている。個人情報保護という法律のため仲間への情報提供が難しい状況がある。

相談者に正確な情報やアドバイスのため、福祉制度や医療などの知識が必要だった。スキルアップのため福祉住環境コーディネーター二級の試験に挑戦し合格することもできた。

お金を伴うものは聞くことが難しかった。障害年金申請の手続きをしていなかった人にアドバイスし五年間も遡って年金を貰った。病気を理由に解雇された人に傷病手当金の請求と、障害年金申請の手続きを助言。時効の直前に手続きが間に合い、満額貰える幸運もあり感謝された。

経済的な問題と身体障害の精神的な不安など、二重の負担に苦しんでいる人が多くあった。医療や年金問題、身体障害者手帳の申請、車いすなどの補そう具の相談では専門的な知識も必要とした。福祉専門家や障害者団体など、人との交流から出来たネットワークの人脈が皆のためになった。

ベッドに横たわり、燃え尽きる命と必死に闘っている仲間も少なくない。病気診断の時、医師から最悪なケースで宣告され、人それぞれがどう生きたいのか問われている。生き方まで医師のカルテ(診療記録)には無い。闘病記など生きた証を残している人の記録や話が参考に役立った。様々な葛藤と闘い、人生を明るく生きるため何が支えであったかと問われれば、同じ宿命と共に生きている仲間と出会い、その人を支える人たちとの交流と温かい姿であった。

障害に悩み苦しんだ体験が役立つ人生は予想もしていなかった。地元の市役所から身体障害者相談員として委嘱を受け活動を続けることが出来ている。

「誰かが言ってくれるだろう、やってくれるだろう」と、無責任ではいけない。自分に出来る工夫は無いのだろうかと、考えるゆとりと「自分のため、人のため、後に続く人のため」の心構えが大切だった。

振返れば辛いことや悔しいことが思い出されるが、病気と障害のためたくさんの人と出会い、楽しい人生を暮らすことが出来たと思っている。失った機能は戻らないが、人の優しさや出会いの思いでは言い尽くせないほどあり感謝している。残された機能と命は燃え尽きるまで、負い目を感じること無く一生の仕事として続いている。


優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞

【小学生部門】◆福岡県

見守(みまも)られて

福岡(ふくおか)県立久留米(くるめ)聴覚特別支援学校 五年
犬塚(いぬつか) 優璃(ゆうり)


私は、生まれつき耳が聞こえません。

小さい時からお父さんやお母さんといっしょに、手話やいろんなことを覚えました。

学校にはお母さんから車でおくりむかえをしてもらっていて、人に会うことはありません。でも小学三年生からは、自主登校をして家から学校まで歩いて行くようにしました。

さいしょは、お母さんといっしょに歩いて学校に行く練習をしました。いままでは車で行っていたから、わからなかったけど、歩いて行くと道がせまいことや車がスピードを出してギリギリを通って行くことがわかりました。

学校にいくとちゅうに中学校があります。

その中学校は毎日、校門に先生が立って朝のあいさつをします。

私は初めて歩いて通る時に、その先生があいさつしてくれたことに気がつきませんでした。後から、お母さんから聞いて知りました。私は、手話がないと声だけでは、なかなか気づくことができません。

次の日から私は、自分からその先生の方を向いて手話であいさつをするようにしました。

その先生は手話がわからなくても

「おはよう。」

と言って頭を大きくさげてくれました。

私は、うれしかったです。それから毎日中学校の先生とあいさつをしています。

中学校があいさつ運動の時にほかの先生たちも校門に立ちます。

その先生たちも朝のあいさつをしてくれます。いつの日かその中の一人の先生が手話で

「おはよう」

とあいさつをしてくれました。

私のために手話を覚えてくれたのだと思いました。私はとってもうれしい気持ちになりました。

私は歩いて学校に通うようになっていろいろな人に会うようになりました。

中学校の先生のほかにも近所のおじさんやおばさんにも会います。その人達がお母さんに私が元気に学校に行っていることや、あいさつをしてくれることを、話しているそうです。

私はいろんな人に見守られて、元気に学校に通うことができているのだと思いました。

これからも、元気に学校に通いたいです。


【小学生部門】◆兵庫県

白杖(はくじょう)SOS

加古川(かこがわ)市立浜(はま)の宮(みや)小学校 六年
永井(ながい) 月雫(るな)


母と駅近くの病院にいくために、改札をでてすぐの広場を行こうとしていたときでした。杖をたたきながら歩いている人が、と中で止まってはまた同じところを歩いて進んでいない感じでした。

私と母は「どうしたんやろなぁ」と言いながら、気になり少し様子を見ていました。すると、その人が立ちどまって杖をまっすぐにあげました。

とりあえず、二人で相だんして話しかけることにしました。「なにかお手伝いしましょうか」と母が声をかけると、少しびっくりした様子でしたがすぐに「ありがとう。助かります」と言われました。聞けば目的地は私たちが行こうとしていた病院でした。

私も母も声をかけたのはいいけれど、どうやってサポートすればいいのか分からずとまどっていると、その人に「ひじか肩につかまらせてください」と言われました。つかんであげたほうが安心と思ったのですが、ひじか肩をつかまらせてもらったほうが安心なんだそうです。そして、「ちょっと先に出て歩いてもらえますか」と言われました。その方が段差になってもひじや肩の高さが変わるのでわかりやすいそうです。

私たちがふつうにいけば駅から一~二分の病院でもはじめてのゆうどうできんちょうしたのもあるのか、時間が長く感じられました。でも、無事に病院について「本当にありがとうございました」と言われ、私と母は目を合わせてニッコリしました。手助けができてとてもうれしい気持ちになりました。

私は家に帰ってから、どうして杖が白色だったのかを調べました。白杖とは視覚障害者の人が歩行の際に前方の路面をさわって使用する白い杖で、安全の確保、歩行に必要な情報の収集、他の歩行者などに気づいてもらう、という役割があるそうです。たたきながら歩くのは「周りに自分の存在をしってもらうため、音をだしている」とのことでした。そして、立ちどまって杖をあげたのは、困っているという合図で「白杖SOS」というそうです。

でも、私のようにそのようなことを知っている人はどれくらいいるでしょうか。もっとわかってもらえるように国や市が動くのも大切ではないでしょうか。

たとえば、白杖の意味や白杖SOSの合図、杖をたたいて音を出す理由などを説明したポスターをはったりパンフレットを配ったりしてはどうでしょうか。理解が広がればふしぎそうに見る人も少なくなるし、何かを協力してくれる人も増えるのではないでしょうか。

学校などで弱い立場の人を助けることについてよく教えられます。なので頭の中ではわかっていましたが、今回のような場面に出会い、私も母も声をかけるまでとまどい、時間がかかりました。でも、おもいきって声をかけることで、「ありがとう」という言葉がきけ、白杖のことも知りゆうどうのしかたも体験できて自分にもプラスになることがたくさんありました。

私の周りも白杖についてよく知らない人がたくさんいます。その人たちに今回学んだことを話し、少しでもわかってもらえる人が増えるようにしたいです。そして「少しの勇気で助かる人がいる」と日ごろから心がけていきたいです。


【小学生部門】◆長崎県

だいすきなおにいちゃん

佐世保(させぼ)市立宮(みや)小学校 一年
土居(どい) 桜河(おうが)


「みみがきこえなくて、かわいそう。」

これは、ぼくがおにいちゃんにいったことがあることばです。おにいちゃんは、

「かわいそうと、いわれたくない。」

といいました。

ぼくには、二さいとしうえのおにいちゃんがいます。いっしょにあそんでくれたり、いろいろなことをしっていて、ぼくにたくさんのことをおしえてくれたりするやさしいおにいちゃんです。

でも、おにいちゃんは、うまれつき、みみがきこえにくいというしょうがいがあります。それで、じんこうないじのしゅじゅつをし、ほちょうきをつけています。そうしないと、きこえにくいそうです。ぼくは、なにもしないできこえるので、おにいちゃんは、たいへんだなとおもっていました。ぼくにとって、きこえるのは、あたりまえなので、みんなのこえがきこえないと、こわいです。

だから、おにいちゃんは、きこえなくて、かわいそうだなあとずっとおもっていたのです。

でも、おにいちゃんとはなしてみると、かわいそうだとおもうことは、ちがっていました。

だって、おにいちゃんは、じぶんのことをかわいそうだとおもっていないからです。

おにいちゃんは、まいにち、いっしょうけんめいべんきょうし、ともだちと、げんきにあそび、とてもたのしいそうです。がっこうできこえにくくてこまっているときは、くらすのともだちやせんせいがたすけてくれるのでみんなとおなじように、なんでもちゃれんじできて、とてもうれしいとはなしてくれました。ぼくは、このはなしをきいて、

「みみがきこえなくて、かわいそう。」

というかんがえは、まちがっていたときづきました。

おにいちゃんには、おにいちゃんをおなじくらすのなかまだとおもってくれているともだちがいます。おにいちゃんは、きこえにくいというしょうがいにまけない、げんきでつよくあかるいこころをもっています。

そんなおにいちゃんが、かっこよくて、だいすきです。

おにいちゃんのまわりのともだちに、

「ありがとう。」

といいたいです。ぼくも、おにいちゃんのように、なんでも、がんばりたいです。おにいちゃんのように、だれとでもなかよくします。

きこえがわるいひと、あしがわるいひと、めがみえないひと、いろいろなひとがいます。

みんながんばっていきています。かわいそうだとおもわず、だれにでも、やさしく、なかよくなれるよう、がんばります。


【中学生部門】◆横浜市

最高(さいこう)の仲間(なかま)と共(とも)に

桜美林(おうびりん)中学校 二年
山本(やまもと) 彩佳(あやか)


「勝つことよりも、みんなが参加して楽しめる方が大切じゃない?」

中学生になり、体育祭に向けての話し合いが行われた日のことだった。生まれつき筋肉の少ない病気で、転びやすく、ゆっくり歩くことはできるが走ることも行進することもできない私は、小学校の運動会はほとんどテントの中での見学だった。今回も私は応援だけをしようと思い、皆の輪に加わらず後ろの方でぼーっと空を眺めていた。私にはこの時間は苦痛でしかない。「彩佳も並んで、ペアを決めようよ。」と突然言われた。それは全学年の全クラス対抗の「二人三脚」のペア決めだった。私が転んだらペアの子も転んでしまう。私の番で絶対に遅れてしまう。皆の足を引っ張ってしまう。大きな不安が心を覆った。私は自分の気持ちを話した。「みんなの気持ちは、すごく嬉しいけど…。」と言うと、「私達はみんなで一生の思い出に残る体育祭にしたいの。もちろん勝ちたいよ。でもね、勝つ事より大切な事があると思う。」と一人が言った。他の子は「歩くのが不安なら、彩佳は車椅子に乗って、ペアの子が押せばいいよ。」と言ってくれた。友達の言葉を聞いて、私の中ではもうこの体育祭は一生の思い出になっていた。

体育祭当日。結局、私はみんなと同じ距離を車椅子を使わず参加した。バトンがどんどん近づいてくる。それも一位で。胸がドキドキした。バトンを受け取った瞬間、みんなの視線、歓声、責任感。これまで体験したことのない時間に、自然と涙が溢れてきた。精一杯足を前に出した。他の人から見ると、ゆっくり歩くような速さだったかもしれない。後ろから来た人達に何組も抜かされ、どんどん差が広がった。焦った私は転んでしまったが、なんとか次にバトンを渡すことができた。「凄かったよ。」「頑張ったね。」「お疲れ様。」友達が次々と声をかけてくれた。私の後ろのペアの子達が差を縮めてくれたが、結果は最下位から2番目だった。私が出なければ一位だったのに、誰も私を責めなかった。それどころか、「競走は負けたけれど、クラスの団結では一番だね。」と言ってくれた友達もいた。

中学に入学し、素敵な仲間と出会い、私は何事も最初から諦めず、とにかくやってみようと思えるようになった。困った時には手を貸してくれる友達がいる。これからは積極的に取り組もう。体育祭が少し好きになってきた。


【中学生部門】◆岐阜県

特別(とくべつ)な一本(いっぽん)

高山(たかやま)市立朝日(あさひ)中学校 一年
深澤(ふかざわ) 菜月(なつき)


「障害者はなにもできない。」「障害者はきたない。」「障害者は人を不幸にする。」障がい者に対して、そんなイメージを持った人に伝えたい。一本の染色体が私に教えてくれたことを。

「おはよう。」今日も朝から元気な声がします。「なっきー、今夜一緒にお風呂入ろう。」なっちゃんが誘ってきます。いつもニコニコ笑顔の絶えない私の姉はダウン症です。

ダウン症について詳しく知っている人はどれ程いるでしょうか?おそらく多くの人はよく知らないでしょう。私も姉がダウン症でなければ知らなかったし、知ろうともしなかったと思います。

ダウン症は21番目の染色体が一本多く三本あるために発症します。でも、その一本には、私を含め、みんなが持っていない何かがあると思っています。

姉はとても優しい心を持っています。私たち家族のことを大好きな気持ちが伝わってきます。私が落ち込んでいるとき、何も言わずそばにいて一緒に泣いてくれます。反対にうれしいときは自分のことのように飛び上がって喜んでくれます。本当に優しい姉なのです。

それなのに、私は姉に対して冷たい態度をとってしまう時があります。姉にはがんばっても出来ないことがたくさんあると分かっているのに、無理なことを言ってしまう時。できないことにイライラしてしまう時。どうして自分だけが叱られなくてはならないのかと思ってしまう時などです。特に二人で同じことをしていたのに、私の方が強く叱られたりすると、その感情が抑えられなくなってしまうことがあります。そして、姉に八つ当たりをし、ひどい言葉を浴びせてしまいます。

一度姉と大喧嘩をしたことがあります。原因はささいなこと……。取っ組み合いの喧嘩になり二人とも大泣きしました。その時、姉にも抑えられない感情があったんだと少し驚きました。いつもは穏やかで優しい姉。きっと、本当はいつも私に色々言われて我慢していたのだろうと思いました。心の中で思っていることをうまく言葉で表現できないから我慢してしまう。日々その繰り返しなのかもしれないと思いました。だから、私は姉の気持ちを姉の立場になって考えてあげなくてはいけないと考えるようになりました。イライラした時、一度目を閉じて「私が姉なら……。」と考えてから話をするようにしました。すると、私自身がとても優しい気持ちになることが出来ました。

姉の周りにはいつも多くの人が集まってきます。だから、私は、姉のおかげで多くの人と知り合うことができました。姉には人と人とを結びつける力があるのだと思います。以前、姉と話をした人が「とても楽しくて、優しい気持ちになれたよ。」と言ってくれました。その言葉を聞いて私は嬉しくなりました。

昨年行われたアンケートで、ダウン症のある人の90%以上が幸せだと感じているという結果が出ました。障がいがあるということは、もちろん大変です。でも、その分幸せも大きいのです。私は、その幸せな気持ちが周囲の人にも伝わり、周りまで幸せで優しい気持ちにしてしまうのだと思います。

ダウン症の人しか持っていない特別な一本の染色体。その特別な一本には、思いやりの気持ち、優しい気持ち、みんなを幸せにする心がたくさん詰まっているのです。

私は、ダウン症の姉がいることで多くのことを学ぶことが出来ます。学んだり知ったことを、自分の心の中だけにとどめておくだけでなく、友人や周囲の人に伝えていくこと。そして、ダウン症に限らず、障がいのある人とこれからも触れ合っていくこと。これこそが、障がいをもった姉の妹として、そして一人の人間としての私の生き方です。

こんなふうに考えさせてくれたのも、姉の持つ特別な一本の染色体のおかげです。みんなを幸せにする一本。みんなを優しい心にする一本。そして、人と人とをつなげる一本。

本当に特別な一本です。


【中学生部門】◆沖縄県

妹(いもうと)との6年間(ねんかん)

沖縄尚学高等学校附属(おきなわしょうがくこうとうがっこうふぞく)中学校 一年
古謝(こじゃ) 心悠(みゆう)


私が初めて障害者と会ったのは、私が小学校1年生の冬でした。私は会ったとき、「なんで障害を持って産まれてきたの?」「なんでこれから一緒に遊べないの?」と涙があふれてきましたが、「泣かないで」と私に訴えるような目で私を見ていた事は、今でもはっきりと覚えています。

私が一番最初に会った障害者は2011年11月25日に生まれた大切な私の二番目の妹でした。妹は、母親のお腹の中にいる時から前全脳胞症という障害で、前脳の全てが空洞という、症状でした。空洞だと、体内の水がそこにたまり、どんどん広がって脳細胞が押し潰され命がとても危いです。なので妹は自分で吸収した水を排出物として、外に出せるように、頭にシャントという機械を入れ、お腹に水を自力でではなく、シャントを使って運んでいました。たまにシャントに菌が入ったりして、それをなおしたりする手術を生まれてからの6年間の間で約20回ほどの手術をくり返しています。

妹は、私の家の近くにある、特別支援学校の隣にある周和園で毎日生活をして、日帰りでも、少しだけでも家に帰ってこれることを信じて姉妹で頑張ってきました。妹は、1週間に1回ぐらい、遊んだり、絵本を読んであげたりと、とても幸せな時間をたまに過ごしていました。

私が小学校4年生の時に、近くの、泡瀬特別支援学校の一年生と交流会があり、その交流会では、妹と違う病気の子供とたくさんふれ合い、妹とはお話ができないので車イスを押してあげたり、自己紹介など、いろいろな事をやらせて、経験させていただくことができました。その経験を通して、妹を見る目を変えることができました。

今までは、遊びたいと思ってずっと絵本を読んであげたり、話しかけたり、反応もできない、声も出ない妹に対して、「本当に聞いてくれているのかな」「私の存在をお姉ちゃんとして分かってくれているのかな」と不安で、でも、何も考える事もできないし、声も出すことができないからなとあきらめていたことが交流会を終えた後、私は、妹に申し訳なく思いました。交流した小学生は言葉も話せるけど、上手く話せない、自分の心をコントロールできない子たちでした。それでも目を輝かせて私の話を聞いてくれました。それを通して、妹もそうだったのかなと思うと、涙があふれてきました。

一つ質問があります。皆さんは、TVで障害者を観ると、まず最初に何て思いますか。かわいそうと思っている人が多くないですか。妹が産まれてくる前は、私も障害者を観たときにかわいそうだなとか、残念だったなとかそのような事しか考えることができませんでした。でも、妹が産まれてかわりました。かわいそうと思ってはいけないと思いました。何故なら、障害を持っている人も、幸せに生きているからです。健常者と同じような行動に近づけるように努力している人もいるのに、そのような人たちに向かっての「かわいそう」は一番ショックで一番悔しいと思いました。この考え方は妹が伝えたくて、妹に教えてもらったのだなと今でも思っています。

今回、夏休みの課題の作文のテーマが3つあった中から、私がこの作文を選んだ理由は、妹が伝えたかったこと、妹が残してくれたこと、妹が一生懸命生きた証を私の作文を読んでもらえる全員に伝えたかったからです。心の輪を広げる体験作文、今、私がこれをテーマに書いている、「妹との6年間」がたくさんの方に理解していただけ、たくさんの方に妹の思いが伝わって、みんなの思いやりや、障害者、お年寄りへの対応、視線が良い方向に変わってほしいと思います。妹は、今年の五月に亡くなり、八月三十一日、夏休み最終日が100日です。

最後に、私が言いたいことは、障害を持っている人も、そうでない人も、皆、平等であり、皆人権があるということです。だから健常者はお年寄り、障害者に対する思いやり、を大切にし、障害者の意見にも、よく耳をかたむけてほしいです。

「みんなちがって、みんないい」私は、この詩が大好きです。この詩の通り、みんなが1人1人を認め合い、健常者と障害者との間にかべのない、思いやりのある社会にしていきたいです。


【高校生・一般部門】◆静岡市

私(わたし)らしく学(まな)びたい、私(わたし)らしく生(い)きたい。

静岡(しずおか)県立静岡中央(しずおかちゅうおう)高等学校 二年
渡邉(わたなべ) 千夏(ちなつ)


私は二十一歳の現役高校生です。

なぜ二十一歳になっても高校生なのかと疑問に思う方もいるでしょう。私らしく学びたいと考えに考えた結果が今の私なのです。

私は中学校二年生から昨年まで耳栓がないと学校生活を過ごすことができませんでした。色々な音が、例えば廊下を歩く足音、ノートを板書する音すべてが同じ音量で聞こえてしまって、パニックを起こしてしまうことがよくありました。その時、私を助けてくれたのが「耳栓」という「イヤリング」だったのです。しかし、実際問題、学校生活を送る以上私が耳栓をつけることをクラスメイトにも知ってもらう必要がありました。そこで中学二年生の担任の先生が帰りの会でこう言いました。「千夏さんは授業中、耳栓をします。だから少し大きめな声で話しかけてあげてください。世の中にはいろんな人がいます。見た目ではわからなくてもそういう人がたくさんいることを学んでほしいです。」私は先生の言葉は今でも正しかったと思います。クラスメイトの中にも大きめの声で話してくれる人がいた一方で、「耳栓なんかしている奴と関わるなよ。おかしいんだよ。」と心ない言葉を言ってくるクラスメイトもいました。でも、心ない言葉を言ってきた同級生の意見がすべて間違っている訳ではなかったと耳栓が必要なくなった今、思います。「人と違う」ということに負の印象を持つのは普通のことだと思います。それは「同調」を求める「学校」のシステム上あたり前のことなのかもしれません。

私は中学二年生から昨年までの六年間、少しずつ、少しずつ、耳栓がなくても生活できるように努力をしました。「この一時間は耳栓なしで授業を受けよう。」そういう思いを大切に生活しました。

でも、一番大きなきっかけになったのは「朗読」と出会ったことでした。自分の想いを言葉にして「伝えよう」と努力することで、今まで雑音として聞こえていたものが、一つひとつ大切な音として耳に入ってくるようになりました。そして、耳栓が必要なくなった昨年、私の想いを詩にしました。

『耳栓をすること』
 私が耳栓をしているのは
 目が悪くなったら眼鏡をかけることと同じ
 耳が悪くなったら補聴器をつけるのと同じ
 ただ少しでも快適に生活したいだけなんだ
 私にとって耳栓はイヤリングと変わらない
 みんなとお話したくない訳じゃない
 みんなとお話したいから耳栓をするんだよ

私が「私らしく学びたい」と考えたのにはもうひとつ大きな出来事がありました。私は高校に入学した頃から、自分が触ったものが汚なくなってしまうのではないか、誰かに少し当たっただけで危害を加えてしまうのではないかという加害恐怖を強く感じてしまう病気になってしまいました。外に出ることがつらく学校にも行けなくなり、家の中の自分の部屋のベットの中にひきこもる。たまに外に出る時もまわりを汚してしまわないように手袋をいつでもしている。そんな日々を半年から一年間くらい過ごしていました。

そんな毎日を過ごしていた時、体育の先生が「ハンディキャップ体育の授業を受けてみない?」とすすめてくださいました。私は、「ハンディ」という言葉に少しとまどいました。確かに「病気」かもしれないけれど「障害」とまでは言えない自分が「ハンディキャップ体育」の授業を受けさせてもらえる権利があるのかと。今、思えばその考えさえも偏見だったのかもしれないなと感じています。

でも、実際にハンディキャップ体育の授業を受けてみると、体に障害がある仲間はもちろん、私のように心に病気がある仲間もいてとてもアットホームな授業でした。「自分らしさ」を一番大切にして、他の体育の授業とは少しだけ違い、「人と比べて」ではなく「自分の中の記録と比べる」すなわち「ナンバーワン」を目指すのではなく「オンリーワン」を目指すことを大切にして指導してくださる授業でした。昨日の自分と比べてどのように体調が違いそれがどのように記録に反映されているのかを先生や仲間と分析し「ムリはしないけど努力はする。」自分らしくがんばる。どうしたら仲間が目標を達成できるのかみんなで考える。そして自分が元気な時は仲間のことを気づかい、自分が調子が悪い時は仲間に助けてもらう。というとても素敵な経験をさせていただきました。私は、病気や障害の有無で人は比べられないんだと強く想いました。そして、私が耳栓をしたり、手袋をして生活しているのは少し変わった個性なんだと考えるようになりました。

先生がくださった言葉で心に残っている言葉が二つあります。

一つは保健室の先生が言ってくださった言葉で「千夏さんは細かいことが気になる病気で悩んだり、苦しいこともあるけれど細かいことが気になることは千夏さんが目指している理系の研究職にきっと向いているんだよ。」という言葉。

二つ目は世界史の先生が授業中に言ってくださった言葉で「フィンセント・ファン・ゴッホは現代で言うアスペルガー症候群だったのかもしれない。でも障害として見るのではなく彼の個性として見るべきで、その個性が彼のような天才を生んだんじゃないかな。」という言葉。

どちらの言葉も病気や障害は個性で、それを大切にするべきだと私の心に残っています。

私は今まで、たくさんの心ない言葉に傷つけられたこともあったけどたくさんの心のこもった言葉に助けられました。

私は、病気や障害を温かい目で見守ることが大切だと思います。自分もそうしてほしいですし、自分もそうしたい。

私はタイトルにもあるように私らしく学び高校を卒業したい。そして自立して生活したい。そのための一歩として私はアルバイトを始め、一年以上続けて働くことができています。「個性」が少しくらい強くても工夫次第で素敵な日々を歩んでいけるはずです。

だから「私らしく学びたい、私らしく生きたい。」そう強く想います。


【高校生・一般部門】◆広島県

米(よね)ちゃんの糖尿病(とうにょうびょう)

金谷(かなや) 祥枝(さちえ)


私の祖母は知的障害者の里親をしていた。我が家には私の生まれる前から知的障害者の米ちゃん、青ちゃん、絹ちゃんがいて一緒に生活し、私は育った。里親をしてきた祖母は10年前に亡くなった。青ちゃんも7年くらい前に仕事中の事故で亡くなり、絹ちゃんは絹ちゃんの両親から帰ってきて欲しいと言われ介護のために実家に帰った。今は米ちゃんだけが、私の実家で私の両親と一緒に生活している。米ちゃんは小学校5年生の頃に我が家に来た。もう50年以上、私の実家で生活をしている。米ちゃんは手先がとても器用で、修理するのが得意だ。以前、鍋の柄が取れてしまったことがあり、母は「米よ、これ直してごさんか?(これ直してくれないか?)」と頼むと、鍋をトンカチで叩き出した。急に鍋を叩き出した姿がおかしくて、一緒にいた私はつい吹き出してしまったが、しばらくすると、鍋の柄は、しっかり取り付けられていた。米ちゃんには、米ちゃんなりの修理の仕方があるらしい。

米ちゃんの今の仕事は、農作業の手伝いや食事の支度以外の家事全般をこなしている。壊れたものの修理や、漁業会の大網から魚を外す作業も頼まれることもある。毎日忙しく生活している。

10年くらい前に、米ちゃんは糖尿病になった。健康診断で糖尿病が見つかって、今も薬を飲んで治療をしている。米ちゃんは子供の頃から、コーラや饅頭、アンパンなどが大好きだ。病気になってしばらくは、数値が落ち着かなくて、母は通院に付き添い、たびたび病院で指導を受けていた。食事指導、運動指導、服薬指導、母と一緒に米ちゃんも指導を受けたこともあるが、糖尿の数値は変わらず落ち着かなかった。

米ちゃんは月に決められたお小遣いをもらっている。漁業会の手伝いをした時は、アルバイト料をもらうことがある。米ちゃんは自由に使えるお金を持っているので、母の用意した食事以外にも、コーラやお饅頭を自分で買い食べる。米ちゃんの部屋には、コーラの空になったペットボトルや、アンパンの空き袋が転がっていた。それを見つけて、母が怒ると「腹が空くだもん。」と言う。そんな状況が続き、米ちゃんは入院することになった。

私の実家は、昔商売をしていたこともあり、人の出入りが多い。母は、とても心配性で、不安なことがあると近所の人や訪ねてきた人に相談する。漁業会の人が、「米に手伝ってもらいたいのに、最近見かけん。」と言って訪ねて来た。母は、「米が調子がようなて、糖尿で入院しちょる。甘いもんが好きだけん、食べたらいけんがなって言うと隠れて食べる。どげすればええだぁか?(米の調子が良くなくて糖尿病で入院している。食べたらいけんと言うと隠れて食べる。どうすればいいのか?)」人が来るたびに相談しまくった。

米ちゃんは入院して2週間ほどで、退院することになった。退院してから、「体の調子が良かったら、手伝いに来て欲しい。」と漁業会の人から連絡があり、米ちゃんは出かけて行った。手伝いの後、「このお金で菓子を買って食うと、また入院せんといけんようになぁだぞ。体のことを考えて食べんといけん。」と言ってアルバイト料を渡したそうだ。漁業会の人から、米ちゃんにアルバイト料を渡す時に、ちょっと注意しておいたと母に連絡があった。

家から自転車で10分離れたところに自動販売機がある。米ちゃんは、いつもそこでコーラを買って飲む。コーラを買っているところを、近所の人に見つかり、「そんなもん飲んどったら命がなくなってしまぁだぞ。お母ちゃん(私の母)を心配させたらいけんがな。」と怒られたと、米ちゃんが母に話していた。

米ちゃんは、薬を飲んだり、飲まなかったりしていたようで、私は母に相談されたことがあった。その時は、米ちゃんに「ちゃんと薬を飲まんといけん。」とだけ言った。数日後実家に帰ると米ちゃんが座るテーブルの上にタッパーが置いてあった。中には色がついた箱が3つあり、朝、昼、夕に分けて薬が入れてある。米ちゃんは字が読めない。だから色分けして、いつ飲めばいいか分かるようにしたと母は言った。今まで、薬袋から出して飲んでいた薬は、同じような袋に入っていて、いつ飲めば良いかわからなかったのかもしれない。飲まなかったのではなく、飲めなかったんだと母は言った。

糖尿病は、食事、運動療法が基本だが、長い経過の中で病気の理解ができる健常者でも自己コントロールしていくことが難しい。甘いものを食べることが好きな米ちゃんに、「食べるな」と言っても理解することは難しいかもしれない。母が、たくさんの人に相談しまくったおかげで、近所の人たちみんなが、米ちゃんの病気のことを知っていて心配し、見守っていてくれる。近所の人たちが病気のことを心配していること、元気でいて欲しいと応援されていることは、米ちゃんにも、ちゃんと届いている。米ちゃんは、薬を飲むようになり、間食もしなくなった。

先日、私は実家に帰った時にノンカロリーのコーラをお土産に渡した。「病気が悪くなるけん、いらん。」と笑って米ちゃんは言った。

毎朝米ちゃんは居間の掃除をし、亡くなった祖母の仏壇に線香を立てる。「お母ちゃん(私の母)より先に死なせてください。」と手を合わす。米ちゃんは、米ちゃんなりに必死で生きている。


【高校生・一般部門】◆千葉県

クラス会(かい)はエールの交換(こうかん)

小池(こいけ) みさを


母が脳出血で倒れるまで、私は『難病の娘』として、両親の庇護のもとにいた。

経済的には自立していたが、両親は、庭の草とり、窓掃除、具合いの悪い時に食事を届け、体力のない私を支え続けてきた。

先天性の病であることは、「誰にでも起こりうること」と、私が親を責めたことはないし、「待ち望んで産んでくれたのに、病気でゴメンネ」と思っていたのに、親にとって「先天性」という響きは、重荷だったことだろう。

私が体調不良で転職を繰り返していた時、「ムリするな」と見守ってくれた両親だった。

大学で幼児教育を学び、「明るい笑顔に、よく通る声、保育者になるべくして生まれたような人」と、身に余る実習評価をいただき、希望通りの保育現場に就職できたのに、私はたった2年で退職をし、入退院を繰り返していた。将来像が描けず、人生の落伍者になった気分だった。

級友の多くが、保育現場で働き、次々に結婚し、子育ての話題で盛り上がるクラス会に、私は気後れして欠席をするようになった。

クラス会は、大学卒業以来、数年毎に開催されている。クラス会幹事を初回からずっと務めているトモは、往復葉書でクラス会の案内を出してくれる。返信欄には、近況を載せるので、トモは全員の近況をコピーして、クラス会で配布し、欠席者には郵送する。手書きの近況は、級友たちの声が聴こえるようで懐かしい。私は、その近況欄に、なんて書いたらいいのか戸惑った。

和式トイレから立ち上がって大腿四頭筋断裂、尺骨神経マヒで両肘手術、瓶の蓋をひねって両手指の腱鞘炎で手術等々、日常生活場面で怪我が絶えず、大学病院で原因もわからない。筋力が弱いのは鍛練不足だと思い、自己流スクワットで膝の靱帯損傷、腕を大きくまわしたら大胸筋断裂、肩も亜脱臼。鍛えようと努力するほど、身体が壊れ、努力に裏切られてばかりの心も壊れていった。

手術の傷も治りにくく、私は思いきって保健所の難病相談に出向き、そこで出逢った医師に、コラーゲン組成異常の可能性を指摘された。精密検査の結果、私は難病と判り、長年の身体の謎が解けた。そして、難病者であることよりも、自分は努力しても無駄な人間だと、自尊心を欠いて生きる方がつらかったと実感した。

難病が判明し、腹が座った私は「よし、この稀少難病の周知をしよう。病気は直らなくても、早期発見によって、病気と上手につき合えれば、自尊心を保って生きていける」と思い、幼児教育を共に学んだ級友たちに、クラス会でうちあけた。

年齢は重ねたものの、学生時代同様に私は「元気なミサちゃん」で、外見から難病者に見えないから、級友たちは驚いたようだった。

久しぶりに皆とゆっくり語り合うと、幸せに輝いて見える級友たちも、それぞれ人生の荷物を背負っていることを知った。苦労を隠していたのではなく、私自身が自分に目が向いてばかりで、級友たちを慮る心が足りなかったのだろう。

社長夫人のチコは、「介護で痩せたと思われないようオシャレするの。従業員に心配させないようにね。」と言う。外見は、裕福で美人な社長夫人なのに、「姑を入れて5人の子育て中。」と、実際は汗だくの生活と知った。

子どもに障害のある級友もいた。自分が病であるより、我が子が病である方がつらい。

気立てが良く優秀で、級友の誰よりも早く園長に抜擢されたアンは、「私も病気したよ。」と打ちあけてくれた。元気なチィが心筋梗塞で急死した年、宿泊でクラス会を開催した。

私は夜8時を過ぎると、血管が弛緩してしまい、急性低血圧で倒れ易いので、このクラス会は断るつもりだった。

幹事から「ミサは8時就寝OK。夜中も喋りたい人と班分けするから任せておいて。」と連絡があり、割り勘なのに、4人部屋を私一人で使わせてくれた。トモとチコが幹事で、チコは「クラス会の下見という大義名分で介護を休めた。」と言う。旅行中、忍者屋敷で全員で忍者のポーズで記念写真。学生のように、腹の底から笑った2日間だった。

次のクラス会は、秋の訪れと共に逝ったアンへの黙とうから始まった。アンと私は、私がクラス会で病を告白して以来、文通をしていた。折り紙を花の形に切って貼った絵手紙は、今でもアンの温もりが伝わってくる。

今春、トモからクラス会の時期について打診があった。トモは、保育現場に就職しなかった数少ない一人だ。保育の話に興じる仲間の話を、トモはどんな思いで聞いてきたのだろう。親が決めた職に就いたトモは、「私のために考えた。」と親に感謝し、今の職場で面倒見のよさを発揮している。「10月は運動会があるだろうから、11月がいいかな。」と、皆の予定を案じながら、トモはクラス会を企画する。

そういえば、学生の頃、創作劇をした。

背の高いトモは、舞台中央でモミの木になって、劇の最初から最後まで見守る役だった。

小柄で賑やかな私は、仔犬役。その人らしさを考えて役を設定し、全員が主人公になるストーリーを創った。「誰もが、自分の人生の主人公。一人ひとり輝けるような劇にしよう」と、皆で頭をひねったものだ。

クラス会は数年毎なので、日頃は級友たちと会えない。でも、目を閉じれば、楽しかった思い出が蘇り、クラス会で知った級友たちの健闘ぶりも思い出される。私は難病だが、級友たちにも加齢に伴う不調がでてきた。病気になることも、老いることも、死ぬことも誰にでも起こること。

新美南吉の『でんでん虫の哀しみ』には、「哀しみは誰でももっているのだ。~私は私の哀しみをこらえていかなきゃならない」とある。

私も、級友も、誰もが何らかの哀しみを背負って精一杯生きている。クラス会で、互いの健闘を称えるエールの交換をしたい。


※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページ(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/29sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。

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