付録10 令和3年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

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最優秀賞受賞

【小学生区分】◆福岡県

えがおをつなぐ手話(しゅわ)

大牟田(おおむた)市立手鎌(てがま)小学校 二年
久保(くぼ) なのは


わたしは、夏休みにずっと気になっていた手話についておべんきょうをしてみました。

おべんきょうをしていくうちに、手話を体けんしたいなという気もちがふくらんできて、おかあさんにさがしてもらいました。

コロナウイルスであつまるイベントがすくなくて、やっと見つかったのが社会ふくしそうごうセンターでひらかれる手話の会の方の会ぎの日でした。いっぱい本を読んで、本にのっていなかったことや、気になった手話のことをメモして、社会ふくしそうごうセンターに行きました。

「ちゃんとしつもんできるかな。」

と、しんぞうがドキドキしてたまりませんでした。おへやに入ると、ちょうど手話の会がはじまっていました。ホワイトボードに、

「きょうは、見学しゃの方がいます。小学校二年生です。」

と、書かれていました。しばらくして、休けいじかんになりました。おへやの中があつくてタオルであせをふいていたら、一人のおじいさんが、えがおでせんすをもってきてくれました。耳が聞こえない人と気づいたので、わたしはおぼえた手話で

「ありがとうございます。」

と言いました。すると、おじいさんが

「どうぞ、どうぞ。」

と手話をされました。なんだかこころが、ホワッとしてうれしい気もちになりました。

休けいじかんがおわると、いよいよしつもんのじかんです。

「小学二年生の久保なのはさんから、しつもんがあるそうです。どうぞ。」

と、しょうかいがあり、前にでてはっぴょうをしました。この日は、耳が聞こえない方が六名、目の見えない方が一名さんかされていました。目が見えない方は、手話を手でさわり読みとっていました。ふしぎだなと思っていると、手話の会の方から

「しょく手話というのよ。」

と教えていただきました。しつもんをしているときには、となりに立たれている方が、内ようを手話になおして下さいました。手話をわたしに通やくして下さる方もいてドキドキしたけれど、とてもたのしいじかんでした。

さいごに、おぼえた手話でじこしょうかいをしました。みなさんにたくさんはく手をしていただけて、うれしかったです。

今は、マスクをしていて口もとが見えなくて、ひょうじょうもわかりにくいです。手話で会話をする人たちにとって、とてもたいへんなことだなと思いました。

手話で耳の聞こえない方とお話しして、手話がかえってくると、とてもたのしいです。手話で通やくをしている方は、かっこいいなと思います。わたしは、目が見えて、耳が聞こえることを、しあわせだなと思います。でも、せかいには、いろいろなしょうがいをもつ方たちがたくさんいます。

わたしは、手話をおぼえて、耳が聞こえない人に、いろいろな音やこえをつたえられるような人になりたいと思いました。

【中学生区分】◆名古屋市

子(こ)ども食堂(しょくどう)は社会(しゃかい)への窓口(まどぐち)

名古屋(なごや)市立若葉(わかば)中学校 二年
薛(せつ) 知明(ちみん)


私の家は、家族全員が自閉スペクトラム症という発達障害を抱えている。タイプはそれぞれ違うが、全員に共通しているのは、好きな分野についての知識や技能が突出し、学校の成績もトップレベルの一方で、情緒や社会性が非常に幼いということだ。主治医の先生方によると、私は「情緒が幼児並み」らしいし、父は「社会性が壊れている」と言われた。

母は、いじめ、虐待、場面緘黙、引きこもりなど幼児時代から今までの体験が頭の中で自動再生されていることで、時折興奮したりうつになったりしている。私が小学四年生のとき、母が長いうつ状態に陥っていた。外国人の父は当時既に引きこもり生活になっていて、家族それぞれが自分のことで手一杯だった。以前から孤食が当たり前の家だったが、一時期食べるものが食パンしかない状態だった。夏休み中に私の体重が減ったことを担任の先生から聞いた母は驚いて学校の栄養士さんに相談したが、そもそも母は料理ができない。ただ、私の生活にあるものが加わった。

「子ども食堂」だ。

私も母も、初めての場所や人が恐ろしいが、体の健康も大切だ。障害者用の福祉乗車券を利用して地下鉄やバスを乗り継ぎ、十か所近くの子ども食堂の常連になった。どの食堂も開催日が月に一日から三日程度なので、それらを組み合わせ、週に二回ぐらいは栄養バランスの取れた食事をおなかいっぱい食べられるようになった。

母は、早い段階で私たちの障害のことを子ども食堂に伝えた。私は、スタッフの方がにこやかに話しかけてきても黙り込んでいたが、母は、スタッフ全員が親切で、暴力や暴言と無縁な場所なので安心できると言い、食堂の人と話すようになった。食事を終えて、

「この料理はどうやって作るのですか。」

と尋ねた母に、食堂の人はごみ袋から空の容器を拾い上げて見せ、

「これで味付けするだけです。」

と説明していた。また母は、子ども食堂のフードパントリーで、

「この野菜は初めて見ました。どう調理すればいいですか。」

と熱心に聞いていたが、私は母が子ども食堂の人と話すのを見ているのも怖いので、母に、

「人に話しかけたり質問したりしないで。」

と頼んだ。数日後、母の相談を受けた「先生」からメールが来た。「先生」とは、私が通っていた療育センターの先生で、センター退職後は児童館で親子向けのソーシャルスキルの先生をしている人だ。

「お母さんは幼いころに家庭で学べなかった社会性を、いま子ども食堂で学んでいます。その邪魔をしてはいけませんよ。あなた自身の社会性を育てるためにも必要なことです。」と書かれていたので、怖いけれど我慢することにした。

やがて我が家の食事は、以前子ども食堂で出されたのと同じ味のスペイン風オムレツ一色になった。その後、具が日替わりで変化するようになり、この数年間、カップ麺ばかりだった父も喜んで食べるようになった。父は調子のよい日は私に英語や歴史・地理の講義をしてくれるようになり、来日前は中学の先生だったという父の、教壇に立つ姿が浮かんでくるような気がした。

もともと食事目当てで通い始めた子ども食堂だが、母に人と会話する自信をもたらし、父をも変えた。私は今、子ども食堂に行くたびに、スタッフの人と挨拶や会話ができるように自分を奮い立たせている。食堂に早く到着したときは、フードパントリーの袋詰めのお手伝いもした。子ども食堂は、私たち家族にとって社会につながる窓口だが、他にもこのような窓口はいろいろある。「怖いけれどちょっと楽しみ」な気持ちでいろいろな窓口を覗いて様々な人たちとつながり、この社会の一員として成長していけたらと思う。

【高校生区分】◆鹿児島県

チャレンジド

鹿児島(かごしま)県立鹿児島工業(かごしまこうぎょう)高等学校 二年
久保(くぼ) 天清(てんしん)


私は生まれつき肘から先が無い、世間的に言う「障害者」だ。

人間の顔がみんな違うのは誰もが知っている当たり前のことだ。産まれたときの体重も身長も髪の毛の本数も、何もかもが違う。自分と全く同じコピーなどこの世には存在しない。

ではなぜ、産まれたときに、手がなかったら、足がなかったら、「障害者」という枠に放り込まれてしまうのだろうか。それは、大多数の人々の当たり前なこと、その人たちにとって普通なことを、社会全体の当たり前にしてしまっているからだと私は思う。私のこの体は、私にとって普通の体であり、この体と共に生きることが、私にとって当たり前のことである。もちろん自分の腕を見て、「障害だ」なんて思ったことは、生まれてから一度も無い。なのに周りの人々は「可哀想」「不自由そう」というような見方をし、「君は障害があるからこの作業は出来ないね。」などと決めつけられることもあった。私はそれがとても悔しかった。そんなことは無いからだ。考え方、工夫の仕方次第で可能性は広げられるということを知っていたからだ。だからこそ私は、示したいと思った。自らの生き方で。生まれ持った体で、自分なりに生きることが、当たり前のこと、普通のことであるということを。

小学生の時、私は足で字を書いていた。腕で字を書く方法も試したが、早く書ける分、丁寧さが損なわれたため早い段階で足を使い始めた。左足の親指と人差し指で鉛筆を挟み、紙がずれぬよう右足で押さえながらという方法だった。硬筆展で入賞したこともあったため、私の字だけが、極端に汚かったということはなかったと思う。そんな自分のことを理解してくれた先生方や友人の支えもあり(ながら)、なんとか無事に小学校を卒業することができた。

中学は特別支援学校ではなく、近所の公立中学に入学した。しかし、中学の板書の量は小学校のものとは比べものにならないくらい多かった。その分、足への負担も多くなっていた。さらに、移動教室の機会も大幅に増えたため、十分間の休み時間で、授業中に書ききれなかった板書を書写し、靴下を履き直し、次の授業の準備をして教室移動までやり切るのは正直厳しいなと思った。そこで私は腕で字を書く練習を始めた。スピードは足よりも格段に上がるが、人に見せられるような字ではなかった。綺麗に早く書く。その練習を繰り返した。腕を痛めることもあった。タコもできた。しかし、全く苦痛では無かった。その努力は自分にとって必要なものであり、当たり前のことであったからだ。その甲斐あって、最低限綺麗に、早く字を書けるようになったし、休み時間にも余裕が生まれた。周りの同級生たちとも、なんら変わりのない学校生活を送れるようになった。

部活動も始めた。小学校の時、クラブ活動で少しだけしたこともあった、ソフトテニス部に入った。ラケットは左脇に挟んで持つことができた。ボールも右腕と顎で挟んで持った。サーブは顔より上にトスを上げることが難しかったので、膝くらいの高さで打つカットサーブにした。みんなと同じ練習もこなした。その甲斐あって公式戦で勝つこともできた。先輩方が引退し、新チームになると、キャプテンを任せて頂いた。チームの代表として貴重な経験をたくさんすることができた。最初はたくさんの人に、「本当に出来るのか」と心配された。しかし、そんな時母は、「あんたはやればできるんだよ」と、何度も何度も背中を押してくれた。結局のところ工夫の仕方でどうにでもなったのだ。自分がやりたい事があり、それができるように必死に努力する。その大切さを、中学校でのたくさんの活動を通して感じることができた。

高校は、鹿児島工業高校に入学した。将来建築系の仕事に就きたいという夢を叶えるため、そして大好きなソフトテニスの強豪校であったからだ。部活動の練習の質は格段に上がり、授業での実習も、専門系の高校ということもあり、中学校の時とは比べものにならないほど繊細な作業が増えた。正直まだまだ難しいこともたくさんある。上手くキーボードを扱えなかったり、木材を腕で押さえながら鋸を挽けなかったり。課題は山積みだ。でも、夢を叶えるために必死になって努力するのは誰にとっても当たり前。手がないからなんだ。挑戦すれば必ず結果がついてくるのだ。そんな私の背中を押してくれる人がいる。そんな私を支えてくれる人がいる。そんな私を見て、「自分も頑張ろう」と思ってくれる人もいる。

私はこれからも示していきたい。「障害者」というレッテルを貼られた人間でも、生まれ持った体で、自分なりに生きれば、努力を惜しまず挑戦し続ければ、夢を叶えることが出来るということを。

【一般区分】◆大阪市

私(わたし)の想(おも)い

榮(さかえ) ひより


これは私の幼少期の想いを今思えばこうだったのかな、と十八歳の私が障がい者との関わりについて考えたものである。

私は小さい時からマンションに住んでいる。同じマンションに同世代が多く、当時は幼稚園が終わってからみんなでマンションの下の公園で鬼ごっこやかくれんぼ、体を動かして遊ぶことが定番だった。ある日、今までは一番自分たちが年下だったその公園に一つ年下の子たちが顔を覗かせたのである。双子の女の子だった。一人は自分たちと同じ二つの足で立っているが、もう一人は歩行車がないと歩けない子だった。小さいなりに自分たちとは違うという違和感を覚えたのが今でもおもい出せる。

「一緒に遊ぼう?」

と一番にその子に声をかけたのは私だった。その時は双子の子たちよりもその子たちのお母さんがすごくよろこんでいた。幼稚園が終わった後、毎日のように遊んだ。歩行車で鬼ごっこもしたしかくれんぼだってした。

夏は蝉を一緒に捕まえたし、冬は雪だるまを作った。

そんな日常が崩れ始めたのは私たちの学年が小学校一年生になった頃だった。今までは普段から歩行車がないと歩けない女の子に心のどこかでみんなで違和感は覚えていたものの、あえてくちに出すことはなかった。その理由は出会った時から歩行車だったからそれで慣れていたのかもしれないし、小さかったのでそんなこといい意味でどうでもよかったのかもしれないし、あるいは自分の親から事情を聴いていたのかもしれない。日常が一気に壊れたきっかけはある男の子の発言だった。小学生に上がった私たちは色んな子、いろんな環境から刺激をいっぱい受け、自分たちがどれだけ小さい世界で生きていたのかを思い知ったのである。前ほどあそぶことが少なくなってきたものの、下の公園にはよく顔を出していた。その時に男の子が歩行車の子が寄ってくるのを見て、

「俺に近づいてくるな!」

と言ったのである。歩行車の子はしゃべることは出来ないが、普段からのお母さんの熱心な教育のおかげもあり、理解することはきちんとできる子だった。頭もいいし、気が利くし、優しくて要領のいい子だった。その言葉を聞いてその子は眉間につまんだ右手の二指の指先を当てて頭をさげながら顔の前に構えた右手を少し前へ出して申し訳なさそうな表情をしてその場を去った。これは

“ごめんね”

という言葉を表していた。心臓がドキドキしながら見ていたのを覚えている。わくわくのドキドキではなく、悪いことがバレてしまったようなドキドキに似てたと思う。その子がその場から居なくなるとその男の子を始め、隣にいた男の子その周りの男の子、その場の男の子たち全員が悪者を倒したかのように笑いあっていた。今思えば少なくとも私を含む女子たちは

「近づくな」

なんて思っていなかったしむしろみんな妹をお世話するように慕っていたのだから追いかければよかったのだ。だけど誰一人足が動かなかった。動かなかったというより動かそうとしなかった。誰もこの時は、この一瞬の出来事がどんなにその子をきずつけたか分かっていなかった。それからその公園にもあまり行かなくなり、気づけば私たちは一年生の春休み、小学二年生になろうとしていた。ということは春から双子の女の子たちは小学一年生になるのだ。春休みに、自分の親、その双子のお母さんの集団がえらく盛り上がっているのをみつけた。後から聞いてみると、歩行車を使っている女の子は障がい者手帳一級を持っていて、ふつうは支援学校でないと入学できないのだが、双子ということやその子の頭の良さ、周りからの声や親の熱心な頼み込みにより、同じ市立の小学校に入学することが決まったのである。ただし、いろんな条件が付いていた。例えば送り迎えは親がきちんとすること、体育はすべて見学、席は一番右の前で固定、休み時間は教室待機、など相当窮屈な条件ばかりだった。下半身麻痺、言語障がいがある子が普通の市立の小学校の普通学級に通うということはこういうことなのである。今思うのは、これは合理的配慮と捉えられるのか、不当差別に当たるのかということである。私の今の答えは不当差別に当たると言う答えである。

ここからは少し双子の親に直接聞いた話である。私が小学校三年生の時、この双子が小学校二年生に上がったとき、良いほうに事が動いた。校長先生が変わったのである。それまでは普通学級に入れたことを後悔していたそうだ。双子だからと出来るだけ同じようにすごさせてあげたい一心でこの小学校に入学させたが、あまりにも他の子との差を実感させられる毎日、窮屈すぎる条件が逆にこの子に辛い思いをさせてると毎日家で自分を責める一方だったそうだ。

春、女性の校長先生が赴任してきた。この方はその時代には珍しく障がいに対してすごく理解がある先生だったと思う。今までの条件をすべて排除してくれた。まず必ずしも親が送り迎えする必要はなくなった。晴れている日、いける!と思った日は同じマンションの子や自分の双子とくればいい。

「そんなのは慣れだからきっとそれが普通になる。」

といっていたそうだ。その他、体育はできる程度で補佐の先生をつけてする、席は目が悪いわけじゃないからみんなと同じように席替えをする、など合理的な配慮を行ってくれた。でも、いきなりこうなったわけではない。春休み明け、私が小学三年生のとき、全校集会が行われた。その時校長先生がこの双子の子の名前と学年を出し、障がいの程度や、自分の障がい者に対する考え、窮屈すぎる条件を付けられている現実、これからどうするべきか小学生の私たちに分かりやすいように説明してくれたのだ。私は事前にこのことを聞いていたのでびっくりしなかったが周りの子たちがザワザワしていたのを覚えている。そして先生の考えに賛成してくれる人は拍手をして下さいという声と共に大きな拍手が体育館に広がったのを覚えている。私がこの体育館でびっくりしたのはこのことではない。その拍手のあとに、当時一年生だった、

「俺に近づくな!」

と言い放った男の子がその全校集会でその場に立ち上がって大きな声で謝りだしたのである。ひたすらごめんなさいといっていただけだったが校長先生やその双子の子の顔がほっこりしていたのを覚えている。それから毎年学年が上がるたびに校長先生は同じ話をした。新一年生が入ってくるからである。でも今思えばこれは新一年生のためだけでなく、私たちに初心を忘れさせないためであったのかもしれない。

こんな幼少期からの出来事を踏まえて私が一番心がけていることは身体障がい、精神障がい、障がいの有無に関係なくまず初めは顔を見て笑顔で挨拶をすることである。これはこの校長先生の教えだった。この作文を書いて今の自分を見つめ返してみる。この、笑顔で挨拶だけは忘れたことがない。ときどきマンションでみる歩行車の女の子は変わらず今も歩行車で歩いている。私も変わらず笑顔で話しかけている。障がいを持っているからと言ってなにも変わることはない。一人の人間一つの心をもっていることに変わりはない。私はこの考えを心の根っこの部分に植え付けてくれた校長先生に感謝し続ける。

優秀賞受賞

【小学生区分】◆名古屋市

交流(こうりゅう)日記(にっき)―友達(ともだち)とつないだバトン

名古屋(なごや)市立笹島(ささしま)小学校 六年
柴田(しばた) 智莉(ともり)


私には、生まれつき体幹障害があります。早産でとても小さく生まれたので、呼吸状態が悪く、主に足にマヒが残ってしまいました。そのため、小さい時から病院などでリハビリの訓練を受けたり、いろいろなそう具を使って、日常生活をなるべく自分の力で送れるように毎日がんばっています。

障害があることで、最初に一番困ったことは、幼ち園や保育園選びです。前例がないからと断られる園が多いなか、ある一つの保育園に出会い、入園することができました。そこでは、スイミングやアート、体操教室やクッキング、英語教室なども、周りのお友達と変わらず参加させてもらうことができました。私にとって初めての社会との関わりとなったので、障害があっても仲良くしてくれたお友達、サポートしてくださった先生方には心から感謝しています。

小学校には、車いすで通っています。毎朝学校に着くまで、母と楽しくおしゃべりして、教室までは教頭先生が案内してくださいます。いつも私が心がけているのは、教室に入る時、元気な声で「おはようございます。」と自分からあいさつすることです。担任の先生やクラスの友達も気持ちよくむかえてくれます。

二年生の冬、足の手術をするために、特別支えん学校に転校して、医りょうセンターに入所しました。手術は無事成功したけれど、長いリハビリ期間があって、元の学校の友達とは会えなくなってしまいました。支えん学校から医りょうセンターに戻ると、毎日リハビリの集中訓練があり、週末にしか家に帰れませんでした。日曜日の夜、センターに戻る時、悲しくて涙があふれました。病とうのガラスのとびらが閉まった後も、しばらく帰っていく家族のかげがなくなるまで見つめていました。

この約半年間のつらい日々を支えてくれたのは、私の帰りを待ってくれている、元の学校の友達との交流日記です。おたがいの学校で今どのような勉強をしているか、クラスの楽しいできごと、はげましのメッセージなど、たくさんやりとりをしました。絵を書いたり、折り紙を折ってくれた友達もいました。うれしくて、私も訓練で習った編みこみをモールで作ってノートにはりました。退所するまでの間、この日記は途絶えることなく、担任の先生がお見舞いの時に持ってきてくださったり、母が学校に届けてくれたりしました。今思い出しても苦しい毎日だったけれど、友達との心のつながりが、私を強くしてくれました。いつかきっと元の学校に戻るんだ!!という決心が生まれて、訓練や学校生活を精一ぱいがんばることができました。

もうすぐ手術から四年がたちます。あの時の自分よりできるようになったこと、まだ苦手なこと、悔しいけれどできないこと、いろいろあるけれど、障害があっても周りの皆との関わりの中で、自分らしく生きることが大事だと気づきました。私にとって、交流日記はすばらしい宝物で、ずっとこれからも大切にしていきたい友達との絆です。

コロナの時代になって、人とのつながりがしゃ断されてしまうけれど、こんな時こそ皆が皆のことを思いやって、一人一人ができることを続けていけたら幸せだな、と思います。私もいつか大人になったら、助けが必要な人や困っている人の役に立てるように、いろいろなことに挑戦していこうと思います。

【小学生区分】◆神戸市

「大好(だいす)き」時々(ときどき)「うっとおしい」後(のち)、「ごめん」

神戸(こうべ)市立御影(みかげ)小学校 六年
瀨﨑(せざき) 優心(ゆうみ)


私は、妹の事が大好きです。大好きすぎて自然学校で少しの間、妹と離れてしまっただけで、寝言で、

「ここちゃん、一緒に寝よう。」

と言ってしまうくらい「大好き」なのです。

妹は、とてもかわいくて、面白くて、いつも笑顔で、私が泣いていたら抱きしめてくれる優しさを持っています。そんな妹なので、私は妹のことが本当に「大好き」なのです。

でも、最近ふいに、妹のことを「うっとおしい」と思ってしまう時があるのです。

例えば、自分の思い通りにならない事があると、すぐキャーキャー言って周囲を困らせたりする時。私が急いでいるのに、用意がおそくて、言うことをきいてくれない時。私が友達といる時には、その友達の妹や弟達と比べておしゃべりが下手な私の妹を「はずかしい」と思う時。そして、私は、そんな妹をついつい無視してしまうのです。

そして、その後私は、いつも妹に対して、「ごめん」と思い、胸が少し苦しくなります。

私のそんな姿を見た母が、大学生の人達が書いたというレポートを見せてくれました。そこには、障害のある兄弟姉妹を持つ、私のような「きょうだい」達が抱く思いが年齢と共に変わっていく事と、周りの人々との関係について書かれていました。

今、私もいる青年期の「きょうだい」達は、障害のある兄弟姉妹を否定してしまったり、友人に対する気まずさをみんな、持っていました。そしてそれは、今の私が持つ気持ちと同じだと気づきました。母は、私の今の気持ちは、特別な悪いものではなく、「きょうだい」がみんな持つ当然の気持ちなのだと言ってくれました。

また、レポートには、学校の先生や地域の人々からの気遣いや理解が、「きょうだい」達の不安やこ独感を軽減させ、うれしく思ったと書いていました。私の場合も、小学校の先生方は、妹に対して優しく、私に対しても、妹のことを「かわいい」と言ってくださったり、優しく話し相手になってくださいます。地域の人々も、道ばたで泣いたりさけんだりする妹に庭の花をつんでくださり、妹の気分を変えてくださったり、日ごろから妹に何かと話しかけてくださります。そんな時、私もとてもうれしく思います。

これまで何年かこの「心の輪を広げる体験作文」を書いてきて、障害を持つ妹をありのまま受けとめ、応援することや、妹とは違う障害を持つ人達について考え、学んできました。そして今回は、自分自身の気持ちと向きあってみました。私が妹の事や私自身の気持ちを認められたのは、周囲の人達の気遣いや優しさがあったからだと改めて感じました。私の他にも、世界中にはたくさんの障害のある兄弟姉妹を持つ「きょうだい」は居るはずです。その子達もいつか私が持っていたような気持ちを感じ、苦しい時があるかもしれません。でもそれは、私達の心が成長している証拠であって、悪い事でも特別な事でもないこと、兄弟姉妹を「大好き」だと言う気持ちがあれば良いのだと、母が私に伝えてくれたように、私もみんなに伝えたいです。

 

参考文献
越智彩帆他4名
「重症心身障害児のきょうだいが抱く思いの変容と周囲の人々との関係性について―青年期のきょうだいに対する聞き取り調査から―」
『Journal of Inclusive Education』 VOL. 3 2017

【小学生区分】◆東京都

ゆうき

世田谷(せたがや)区立旭(あさひ)小学校 一年
外角(そとずみ) 秀仁(しゅうと)


たくさんのあめがふったひのことです。

ぼくは、はじめて、ていでんというのを、たいけんしました。まっくらでなにもみえません。テレビもきえました。めを、いつもとおなじようにあけているのに、いっしょにあそんでいたおとうとのゆうとのかおがみえません。

「ままー まっくらでこわいよー」

2かいにいるままにさけびました。

「だいじょうぶ? ゆうとはいる?」ままのこえがきこえます。ゆうとをさがさなきゃ。

「ゆうとーゆうとー」

「ここらよ」

こわいからハイハイをしてこえのするほうへうごきます。おとうとのゆうとは、ちょっとだけしゃべることがにがてです。

5さいですが、さいきんやっと、すこししゃべれるようになりました。

でも、うまくことばがいえなくて、あいてにつたわらないで、くやしそうです。

6さいのぼくより、しっかりしていて、がんばりやさんなのですが、うまくにほんごがしゃべれません。

まっくらで、こわいぼくだけど、ゆうとはへいきです。

「しゅうと、こっちらよ。まっくららね」

「だいじょうぶ? こわいね」

「こわくないよ。てをつなごう」ゆうとはたくましいです。

「てをつなごう」

ふたりでしばらくてをつないでじっとしていました。

「いっしょらから、だいじょうぶらね。まっくら、いやらね」

「めがみえないとこわいね」

「あ、あかるくなったよ」「よかったね」

「ままー」

「こわくなかった?」ままがききました。

ままが、どうろにあるきいろのラインを、みたことがあるかと、ぼくたちふたりにきいてきました。

あ、おもいだしました。あります。どうろにきいろいラインがあります。

じてんしゃでとおるとき、ゴンゴンするラインはおうだんほどうや、でんしゃにのるときにもあります。

「あれは、めのみえないひとがあんぜんにあるけるようにあるんだよ」ままがいいました。

「え、みえなくてあるけるの?」

ぼくは、さっきまっくらでこわくて、あるけなかった。ままは、しろいつえのはなしもしてくれました。ぼくは、そんなだいじなラインだとしらなくて、きいろのラインのうえをあるいてしまっていました。みえないってとてもこわいのにあるくなんてすごいです。

ゆうきがあるとおもいます。

ぼくのおとうとも、ちゃんとしゃべれなくてもがんばって、げんきよくあいさつします。

めのみえないひとも、じょうずにしゃべれないひともみんなてをつないでなかよくできたら、こわいものもなくなって、えがおがたくさんになるんじゃないかな。

ぼくも、ゆうきをだして、こまっているひとがいたら、こえをかけれるようになりたいです。

【中学生区分】◆宮城県

杏実(あんみ)から学(まな)んだこと

塩竈(しおがま)市立玉川(たまがわ)中学校 二年
浅野(あさの) 友希(ゆき)


私には、大好きないとこがいます。いとこの名前は本堂杏実。生まれつき左手の五本の指が無い杏実は、子供の頃からラグビーやボクシングなどの様々なスポーツに挑戦し運動神経も抜群のスポーツウーマンです。

初めて杏実と会った時、指のない左手を見た私は、

「杏実はどうして指がないの?」

と聞きました。すると杏実は、

「私ね、お母さんのお腹の中で、左手をケガしちゃったんだ。」

と、笑って話したのです。私達のすぐそばでやりとりを見ていた母達は、一瞬驚いた顔をしましたが、杏実の言葉にすぐに笑顔になりました。

ある年の夏、杏実を含む親戚数人で、ショッピングモールに買物に出かけることになりました。太陽の強い日差しが照りつけ、身体中に汗がにじみ出るような暑さに、私は外出する前から気が滅入ってました。ところが、杏実は、暑い日にもかかわらず、腕全体を覆い隠すような袖の長い上着を着ていたのです。

私が驚いていると、一緒にいた私の母が、杏実に話しかけました。

「指が気になるの?」

杏実は、一瞬、間をおいてから

「私は、もう慣れたから気にしないんだけど私の左手を見た周りの人が気にするみたい。聞きとれる声で、“気もち悪い”って言ったりする人もいるし、見ちゃいけないものを見たって困った顔をする人もいる。だから、できる限り左手を隠すようにしてる。」

と答えたのです。

私は驚くと同時にとまどいました。それは、自分自身ではどうしようもないことで、障害を馬鹿にし、忌み嫌う世の中に。何よりも、そう話した杏実に何も言えなかった自分自身に腹が立ったからです。

結局、買物の間中、杏実の左手は、長袖の中から出されることはありませんでした。

この日のことは、私自身に、勝手に障害者の気持ちをわかったような気でいたのではないか。無知なことで知らないうちに誰かを傷つけていたかもしれない、と考えさせられるキッカケになったのです。

それからしばらくして、杏実は通学先の大学の先生の薦めで、パラアルペンスキーに挑戦することになりました。片手一本でストックをにぎり、雪の斜面を滑走する、スピード、技術が求められる競技です。

当初、障害者としてスポーツをすることに抵抗を感じていた杏実でしたが、与えられたチャンスを大切にし、新しい分野にチャレンジすることを決めました。

常に悩み、時には傷つきながらも、自分自身を受け入れ乗り越えていく。努力を続けた杏実は、平昌パラリンピックの代表選手に選ばれ、入賞したのです。

今年の始め、杏実は足を負傷し、手術をしました。結果、筋力と体力が低下し、現在リハビリに励んでいます。来年開催される北京パラリンピックの出場枠を獲得するため、

「目の前にあることに全力で取り組むだけ。」

そう言って笑う杏実は、今日も困難から目をそらさず、努力を続けています。

杏実の努力が実を結び、たくさんの人の想いをのせて、シュプールを描くことができたなら。白銀の上で、誰よりも輝く笑顔を見る日が来るかもしれません。

今、杏実は、左手を袖で隠しません。

障害や障害者について知り、理解すること。

私が杏実から学んだことです。

私は、優しさと思いやりを忘れず、行動できる人間になりたい。

健常者も、障害者も全ての人が、前向きな気持ちになれる社会を担う一人として。

【中学生区分】◆徳島県

周(まわ)りの人(ひと)と違(ちが)う気持(きも)ち

美馬(みま)市立岩倉(いわくら)中学校 二年
笠井(かさい) 友斗(ゆうと)


僕は、生まれつき手に障がいがあって、周りの人と少し違った生活をしています。今、僕の周りのクラスメイトや先輩たちは、ありのままの僕を受け入れてくれています。だから、これまで手のことでいじられたり、不快な言葉を投げかけられたり、いじめを受けたりすることは一回もありませんでした。しかし、学校以外の場所でこんなことがありました。

僕は前からスイミングスクールに通っています。ある日曜日の練習の日、いつも通り水着に着替えて練習が始まるのを待っていた時のことです。一人の友達が、

「この子、手の指が3本と4本なんでよ。」

と、僕の手のことを周りの子たちに広めていました。案の定、それに驚き、珍しがって、僕の周りに4、5人の子が寄ってきました。

突然、その中の一人が、

「なんで指が3本と4本なん?」

と、僕に質問を投げかけてきました。こんな質問は何度も聞いてきたのですが、そのたびに心の中が悲しくなります。その時は相手の子に丁寧に説明したけれど、心の中では、「別に自分でなりたくてなったわけちがうのに」と思っていました。

「なんで僕だけこんな思いせないかんの」「僕も指が5本の方がよかった」そう思って複雑な気持ちになることは度々あります。でも、最近、もし5本の指に戻れても、今のままがいいと思うようになりました。その理由の一つは、もし指を5本にかえたとしたら、周りの友達から

「なんで指を5本にかえたん」

と聞かれるのが嫌だからです。体のことを僕だけなぜ説明しなければいけないのかと思うと嫌な気持ちになるからです。

二つ目の理由は、今戻れても、これからの生活に苦労することになるからです。僕には、今まで親や周りの人に支えられながら、工夫して身につけてきた自分なりの生活や、勉強のやり方があります。例えば、リコーダーは、押さえる指が違うので、周りの人に聞いても教えてもらえないというデメリットはありますが、今から新しい指づかいを覚えるのはとても大変だと思います。スポーツをしている時も、今まで自分に一番やりやすい方法でやってきたので、これから違う動きをしなければいけなくなると、苦労すると思います。

三つ目の理由は、「今までの苦労や体験が今の僕を作っている」ということに気付いたからです。先日の人権講演会で、僕はAさんに出会いました。Aさんは、「部落差別のことをたくさんの人に正しく知ってもらい、差別をなくす」ために活動しています。講演の中では、自分自身の苦しい体験や、お兄さんが受けた結婚差別について語ってくれました。その中で、Aさんの「違いがあっていいじゃないか」という言葉が、「誰にも差別されることなく、ありのままの自分を受け入れてくれているみんなと一緒に毎日生活している今、僕は十分幸せなんだ」ということに気付かされました。講演が終わった時、「自分もAさんのように差別をしない人間になろう」「差別をなくすために、自分にできることをしていこう」そんな気持ちになっていました。そして、「今の僕にできることはないだろうか」と考えました。僕は、自分にできることの一つとして、過去の自分が体験したことを話すことに決めました。僕が手のことで感じた心の痛みは、差別やいじめを受けた人の心の痛みと同じだと思うからです。この手があるからこそ、いろいろなことを深く考えることができたと思います。

僕は手のことで何度も大阪の病院に通いました。そこでいろいろな人に出会い、僕と似たような人がたくさんいることを知りました。また、世界中に、様々な差別を受けて苦しい思いをしている人もたくさんいると思います。一人でも多くの人に差別について考えてもらい、差別をしたり偏見をもってしまったりする気持ちがなくなることが僕の願いです。

これからも僕の指の本数は変わらないし、いつも通りの暮らしをすることになります。今、ありのままの僕を受け入れてくれている周りの仲間たちに僕はとても恵まれていることを改めて思いました。こんな周りの人たちとの関係を、これから先の僕の長い人生の中で、どこに行っても作っていきたいと思います。そして、僕を支えてくれている周りの人たちの想いに応えていくことが、今の僕がやるべきことだと分かりました。そのために、自分にとって困難なことがあっても、やらずにあきらめるのではなく、まず努力していきます。そして、友達や先輩、先生、家族という、自分の周りの人たちを大切にしていきたいと思います。

【中学生区分】◆長崎県

ありのままを受(う)け入(い)れる社会(しゃかい)

長崎(ながさき)県立長崎東(ながさきひがし)中学校 三年
松尾(まつお) 果凜(かりん)


「果凜ちゃんは、そのままが素敵だよ。」

これは小学生の頃、私の友達が私にかけてくれた言葉です。私は小さい頃に発達の凸凹があると診断され、小学校で週一~二回通級指導教室に通っていました。

特に感情のコントロールが苦手で、「負ける」「出来ない」という状況下では、心が悲しみでいっぱいになり、かんしゃくを起こしたり涙が止まらなくなったりしていました。一度その状態になると気持ちを切り替えることが難しく、一日中暗い気持ちで過ごすことも多かったです。

私は自分のそんなところが大嫌いでした。かんしゃくを起こしている自分はまるで自分ではないような感覚もありました。生まれつきの特性とはいえ、友達にはただのわがままにしか映っていなかったと思います。周りから「わがまま」と言われるたびに、なぜ自分はこれほどに負けることを受け入れられないのか、気持ちの切り替えができないのか、嫌でたまらず、変えたいと思っていました。

あるとき私は失敗したことを同級生にからかわれ、泣きながら教室を飛び出してしまいました。そんなとき、私を追いかけてきてくれた友達がいました。彼女は泣いている私を見て、こんな言葉をかけてくれました。「果凜ちゃんは、悔しくて泣いちゃったんだよね。からかう人もいるけれど、果凜ちゃんはありのままでいいんだよ。そのままが素敵だよ。」

私にとって目から鱗の言葉でした。私がずっと嫌だと思っていた特性を、彼女はありのままに受け入れてくれたのです。このときから私は少しずつ自分のことを受け入れられるようになり、徐々にかんしゃくを起こすことも減っていったように思います。

最近、学級崩壊に関する記事のなかで、発達障害の子どもが増えていることが原因として挙げられているのをよく見かけるようになりました。また、大人の発達障害についての記事もインターネットでよく目にします。記事に対する一般の人のコメントを読むと、発達障害の人に対して「迷惑」といった厳しいコメントが多く、とても胸が苦しくなります。多くの人は、発達障害は脳の障害であることを理解していても、共感したり受け入れたりすることは難しいようです。「わがまま」「振り回される」という言葉を見るたびに、見た目でわからない分、誤解されているように思います。

白い杖をついた視力に障害のある人や車椅子の人に対して、多くの人は親切に接することができます。その人たちが道端で困っていたら「助けたい」と思う人が多数派で、「振り回される」と感じる人は少数派ではないでしょうか。でも発達障害の人には、「助けよう」「理解しよう」と思う人が少ないように思うのです。

見た目でわかりにくいということは、どう接すればよいか、どのように助けたらよいかが伝わりにくいのだと思います。私は発達障害の人は、まず自分の得意なことや苦手なことを周りの人に知ってもらう工夫が必要だと思います。また、周りの人も自分の価値基準でその人を決めつけるのではなく、その人の生まれつきの特性によるものではないかと想像することが大切です。発達障害の人は周りに理解者がいれば、良いところを伸ばしていく力を持っているように感じるからです。

今でも私は負けず嫌いです。「人に負けたくない」という気持ちが目の前の課題に立ち向かう力になっています。私は他者のことを自分の価値基準で決めつけるのではなく、「この人は生まれつきこういう特性を持っているのかもしれない」と想像して接することのできる人になりたいと思います。あのとき、私を助けてくれたあの友達のように。

【高校生区分】◆福岡市

境界線(きょうかいせん)なき世界(せかい)へ ~その内(うち)と外(そと)を行(い)き来(き)して

福岡(ふくおか)県立修猷館(しゅうゆうかん)高等学校 二年
宇野(うの) 由里子(ゆりこ)


「心の輪を広げる」

私はこの表現の意味を考えた。「輪」と表現する以上、そこには「境界線」が存在するのだろう。私たちは無意識のうちに「普通の人」と「障がい者」の間に線を引いてはいないだろうか。つい口にしてしまう「普通」という言葉。そもそも「普通」という画一的な線引きなどできないはずだ。しかし、私自身がいつの間にかこの境界線を行き来することに苦しんでいたと気づくことになる。

「おーぅい、ゆぅーりぃたん!」

誰かに声をかけられた。どこか懐かしくて、しかしたどたどしい。顔を上げると、その笑みは私の視野いっぱいに至近距離で広がった。彼女の名前はめぐちゃん(仮名)。小学校の頃と変わらず私に元気に手を振ってくれた。びっくりして目を見開く私をおいて、彼女は小柄なお母さんに手を引かれ通り過ぎていった。診察室に向かう後ろ姿は、以前と変わらず痩せている。久々の再会だというのに笑顔を返す間もなかった。あっという間の出来事だった。

高二になった私だが、「こども病院」で年に一度の検診の日に、まさかめぐちゃんに会えるとは思いもしなかった。

同じ小学校の同級生だっためぐちゃんには知的障害がある。クラスから日替わりで三人ずつ特別支援学級に足を運ぶ「昼食交流」の場で、初めて彼女に出会った。その後運動会や合唱コンクールでは、私がめぐちゃんの介助担当になった。その後も偶然掃除場が同じになることが多く、彼女は私の名前を他の友達よりも早くに覚えてくれたようだった。

私が友達関係で落ち込むようなときも、テストであまり良くない点数を取ったときも、めぐちゃんはいつも変わらない満面の笑顔で、しかし何度か聞き直さないと聞こえないようなやさしい声で、私に話しかけてくれた。

「やっほぉー、ゆぅーりぃたん!」

「めぐちゃん! やっほー! げんき?」

短い会話だが、心を開いて包み込んでくれるようで、とても嬉しかった。

そんな低学年のころ、実は私は紫斑病という病を患い、福岡こども病院に入退院を繰り返していた。突然の腹痛と同時に下肢に現れる紫斑。診断が下れば即入院で、まずは数日の絶食から始まる治療。まだ幼くか細い腕に、ミシン針のように太い点滴針を刺し、ぐるぐる巻きにテーピングされた。ベッドから動けず、一週間後にやっと車いすの時もあった。目の前に伸びる病棟の廊下が、どこまでも長く続いているように見えた。

とはいえ、私の入院期間は一~二週間程度で短い方だった。周囲には、まさに難病と闘う子どもたちがいた。たくさんの管で機械に繋がれた子、補助車を使ってゆっくりと歩く子、ベッドから一歩も出られない子…。出身地が遠い人も多かった。長期入院の子とも知り合いになり、励まし合ったものだ。

たくさん我慢してやっと迎える退院の日、まだ入院が続く子たちに申し訳ない気持ちと、学校にやっと行けるという期待、でも学校には何となく行きたくないという気持ちが複雑に混じり合っていた。退院直後の私はいつも痩せ細り、体力は落ち、運動が得意な友達が輝いてみえた。久しぶりの再会に笑顔で囲んでくれる元気な友達たちとの間に、「壁」のようなものを感じていた。不安で薄暗い毎日の中に一筋の光を見出し、ひたむきに努力して一日を生きる仲間たちと励まし合い、つい昨日まで一緒に闘っていたつもりの私にとって、無理もないことだった。そんな私に、めぐちゃんのあの大らかな笑顔が安らぎを運んでくれたのだった。

翻って、現在の私はどうだろうか。水泳を続け、病気を克服し、スポーツでも活躍できる体を手に入れたはいいが、当時の切実な思いを忘れてはいないだろうか。置かれた状況に感謝しきれず、家族には文句ばかりで、弟には厳しく指摘する毎日。担当医の先生がいまだに勧める年に一度の定期検診も、またどうせ正常値の範囲に収まるだろうという希望的観測で臨んでいる。あのころの私はどこへ行ったのか…。辛い思い出に包まれた病院でめぐちゃんに再会した瞬間、私はあの原点にタイムスリップしていた。それも、時間軸だけではなく、空間軸も移動したような感覚。そう、幼い私が感じていた「壁」は、健常者との境界線だったのだ。確かにあの頃の私は、自らの手で線を引いた「輪」の外側にいた。「輪」の内側にいる元気な友達たちが眩しかった。しかし、健康な体を手に入れた今、私は無神経にその境界線をまたいで「輪」の中に入り込み、鈍感にあぐらをかいて日常を送っているのではないだろうか。自分を中心に考えてはいないか。めぐちゃんに笑顔を返せなかったあの瞬間の私を切り取って、自分を責め、その対応を悔いた。自分で引いた線がいつしか「障害」物になってはいまいか。いつの日かこの世の中にあるすべての境界線が限りなく広がり、その内側と外側を区別する「輪」という概念自体がなくなればいいと思う。その実現のために、私は障がい者など社会的な弱者こそ輪の中心において考えたいと思う。障がいもまた人それぞれがもつ個性であり、多様性として認め合うことが大切だ。皆かけがえのない命を燃やして生きている。今置かれた状況に感謝をし、困っている人が目の前に現れた時に躊躇なく手をさしのべる勇気を持ちたい。それがひいては

“No one left behind“

すべての人が認め合って、一人残らず幸せを感じられる世界を作り上げられるのだと信じている。

今回の検査も無事正常値に収まった。もう帰っていいのに、私は夕陽に赤く染まる廊下の椅子に、まだ座っていた。ふと、向こうからめぐちゃんらしき人影が現れた。その瞬間、私は立ち上がった。そして笑顔で駆け出した。

【高校生区分】◆三重県

知(し)る。そしてつながる

鈴鹿(すずか)高等学校 二年
須藤(すどう) 希望(のぞみ)


私の母は、障がい福祉事業所の職員として働いています。そういう背景があり、私も小学生の頃から、母の職場の就労継続支援事業所に何度かお手伝いに行かせていただいたことがあります。

そこでは、併設されている農産物直売所や地元の道の駅などでの対面販売用の野菜や果物の袋詰めを行っていました。私も利用者さんの中に混じって、一緒に作業をさせていただきました。

とても恥ずかしいことだったのですが、それまでは障がいを持った方は「手伝ってもらわなければ何かをするのは難しい人」というイメージを持っていました。

しかし、利用者さんは慣れた手つきで黙々と作業をされていました。途中で次の作業に取り掛かる際に、勝手に自分の方法でやってしまった方がいて、職員さんに「終わったら報告してください。」と注意されていました。その方は「最初にそんなこと言われてなかった。」と言いながら、少し怒ったような態度で荒っぽく作業をしていましたが、次の作業が終わると「できました。」とちゃんと報告をしていました。

また、別の利用者さんは、手と足にハンデキャップがあり両杖をつかっている方でしたが、袋詰めした商品をその方専用の肩から掛ける袋に入れて、売り場に運んでいました。その時私は、あんなに重い荷物を運ぶ作業をなぜ体の不自由な方にさせるのか、手で持てそうな方が手伝ってあげないのか、と思い「手伝いましょうか?」と声を掛けました。するとその利用者さんは「そんなことを言ってくれて嬉しいなあ。でもこれは僕の仕事だしこの袋があるから大丈夫。」と言って自分で運んでいきました。

自分では「良い事」をしようとしたつもりだったのですが、なんだか受け入れてもらえなかったような残念さがあり、後ほどこのやり取りを母に話しました。すると母からはこんな話がありました。

「お手伝いしようとした気持ちと声を掛けたことは確かに良い事だったと思うけど、その時、その利用者さんは困っていそうだったかな?」と。

就労継続支援事業所という場所は、様々なハンデキャップを持った方が、少しでもできる事の幅を広げて仕事につなげていくための訓練の場所だそうです。そのための困りごとや障壁を取り除くことを『合理的配慮』と言い、その合理的配慮を行って作業や訓練をし易くするためのお手伝いを『支援』と言うそうです。

先の話の利用者さんも、前もって「報告してください」と伝えてあったら、報告をしていました。そして、私が手伝おうと声をかけた利用者さんは、その方が持って運びやすくする為の袋を使っていた事、それを用意したということなどが『合理的配慮』となる事を学びました。また、それぞれに困っている事やわからない事がある方が、自分から声を上げる練習をしてもらう事も、自立につながっていく支援だという事も学びました。

合理的配慮とその意味を学んで、私は最初に思っていた様な「手伝ってもらわなければ何かをするのは難しい」という考えが「配慮や手助けがあればたくさんの事が出来る」という事に変わっていきました。

ある利用者さんはとても気さくで優しい方で、緊張している私にたくさん話かけてくれました。日常生活を送っている中で、確かに不便で不自由な事が多い事、そんな中でも、私のように声をかけてもらう事は本当に嬉しく、どうしても難しいことはやはり手助けをしてもらう事によってやり易くなると話していました。

しかし反対に、困っていても明らかに避けられたり、見て見ぬふりをされる事は、それぞれの人の考え方があるのはわかっていながらも、無関心はやはり寂しくて残念な気持になるとも話していました。

私は、声をかけたことはお節介を焼いてしまったのかもと少し自信を無くしかけていましたが、その方がたくさん話を聞かせてくれたお陰で、もしも、どこかで困っている方を見かけたら、ハンデキャップがある方にも無さそうな方にも「お手伝いしましょうか?」の一声をいつでもかけられる心構えを持って準備をしていようと思いました。

新型コロナ禍のせいで、いろいろな場面での距離をとる事が求められており、人と人との触れ合う機会もうんと少なくなりました。マスクや画面を通しての交流は一見味気なくも感じますが、それも今の時代に生きている自分たちの強みとして、情報を得る事、知識を持つ事、関心を持つ事など、離れていてもできる方法で、心がつながる場面を探していこうと思いました。

【高校生区分】◆広島県

仲間(なかま)のために、未来(みらい)のために ~私(わたし)のスーパーヒーロー~

盈進(えいしん)中学高等学校 五年
長谷川(はせがわ) てまり


「部屋に飾っておくね。」私たちが作った似顔絵入りの誕生日プレゼントをすごく喜んでくださった。しあわせな時間だった。

ずっと直接会えなかった。新型コロナウイルス対策で、会うのはいつもパソコンの画面越し。だからずっと、少し悲しかった。

七月上旬、感染状況が改善。「よし、行くぞ!。」やっと直接対面がかなった。笑顔がとてもチャーミングなおじいちゃん。私の大好きな人。その人は、岡山県にある国立(ハンセン病)療養所長島愛生園の自治会長を務めておられる中尾伸治さん(87)。冒頭は、その時のシーン。彼は、「飾らずにありのままに生きる」こと、「ひとはどんなときでもやさしさを大切に生きる」ことを教えてくれる、私にとっての「正義のヒーロー」なのだ。

中尾さんに初めてお会いしたのは今から半年以上前のこと。「らい予防法」(1996年廃止)に基づく終生絶対隔離政策によって、故郷を追われ、家族を奪われた中尾さんたち、ハンセン病回復者。二度と同じ過ちが繰り返されないように、彼らの生きざまを記録し、後世に残していく取り組みを部活の仲間と企画し、オンラインで聞き取りを開始した。

中尾さんらは、療養所に収容されてからも、過酷な労働を強いられ、子どもをつくることも許されなかった。家族に差別が及ぶことを恐れ、家族と縁を切るという意味で偽名が強要されることもあった。そんな生活の中での生きざまを、中尾さんから3回、時間にして約6時間も対話しながら、記録した。

「こんにちは! 今日もよろしくね!」と、明るいいつもの中尾さん。そんな元気いっぱいな姿とは裏腹に、ゆっくりと、そして少し悲しそうな表情で自身の過去を語り始めた。

 17歳の時、ふるさとの奈良に帰省し、兄に「名前を変えた方がいいかな」と聞きました。すると兄は、「兄弟2人しかいないのに、そんなさびしいことを言うなよ」って言ってくれたんです。うれしかったですね。療養所では、偽名の人がたくさんいましたから。

でも数年後、再び帰省した時に、その兄がこんなことを言うんですよ。「悪いけど今後は、家に帰って来んといてくれ。」って。そのときはもう、兄は結婚して子どもができていました。兄にも守らなければならない家族ができたとき、差別を恐れたんですね。僕は兄の言葉をすぐに受け入れました。

「誰も悪くないのに…」と思った。それがいちばん悲しかった。だから泣けた。同時に、怒りが全身を襲った。それは中尾さんのお兄さんやそのご家族に対するものではない。彼らが恐れる「差別する社会」に対する怒りだ。大切な家族を守るために、大切な家族を失わなければならない状況に追いやった社会に対して、どうしても怒りが収まらなかった。

だが、もし私だったら、と考え込んだ。いや、そうやって、自分事として考えなければ、中尾さんとご家族に申し訳ないと思った。だって、私もその「社会」の一員なのだ。だから、二度と同じ惨劇を繰り返さないために、差別の事実を知った私が、差別をなくすための行動をしなければならないと思った。

でも私は正直、自信がなかった。回復者やご家族の心に深く刻み込まれた重い苦しみは到底、私には理解できない。それにハンセン病がどんな病気なのかさえ、つい最近まで知らなかった。そんな自分が後世に回復者やご家族の思いを継承できるのだろうか…。

そんなふうに、自分を見つめて迷っているときにふと、中尾さんを思い出した。彼はいま、長島愛生園の世界遺産登録に向けて精力的に活動している。そのようすを私に語ってくれたときの彼の生き生きとした表情を思い出したのだ。

長島愛生園にあった患者専用の収容桟橋。ここは入所者が家族や社会との繋がりを引き裂かれる場所。同時に、彼らが「汚い者」として扱われる生活が始まる場所だ。だが、桟橋は今、潮の流れに耐え切れずに朽ちている。中尾さんはこの現状に対してこう私に言った。

「(桟橋を)残さないと、過酷な隔離政策の歴史も失われ、忘れられることになってしまうんよね。忘れると、人間は、同じ過ちを繰り返すんよ。だから、自治会長としても何とか、残さなきゃいけないと頑張っています。」

中尾さんは、未来に生きる人々の幸せのために桟橋を復旧しようと懸命に活動している。「未来に生きる人々」とは、私のことだ。

それだけではない。中尾さんは県内外の小、中、高等学校で語り部活動もされている。療養所に暮らす回復者の平均年齢は中尾さんの年齢と同じ約87才。自治会活動も語り部活動もできる人が年々、少なくなっていく中で、中尾さんは、仲間のために自治会長を引き受け、仲間の思いも自ら背負い、語り部活動を務めているのだ。

中尾さんは、病気の後遺症で、顔や手が変形している箇所がある。その彼が語り部活動でこだわっていることを教えてくれた。

「子どもたちを前にしたとき、顔や手が見えるように工夫しています。病気そのものを知ってもらうことで、差別や偏見が少しでもなくなっていくと僕は信じているんですよ。」

どうすれば若い世代にも理解が広がるか。中尾さんは、差別する社会を、人にやさしい社会に変えるために、自分を飾らず、ありのままの自分で、自分を語り、行動している。

未来に向かって真っ直ぐな眼差しで進む中尾さんの姿は誰よりも輝き、誰よりもかっこいい。そんな中尾さんを見て、自分に自信がなく、何に対しても全力で打ち込むことをためらう自分がちっぽけに見えた。そして、私も中尾さんのように強くなろうと決心した。

私は将来、保育士になりたい。子どもたちが人を大切にして、平和な世界をつくる人に育ってほしい。そのためにも、私は子どもたちに伝えたい。仲間のために、未来のために、恐れることなく、自ら立ち上がり、私に勇気を与えてくれた私にとっての正義のヒーロー中尾伸治さんが生きた証を。「ねえ、ねえ、私の大好きなヒーローを教えてあげようか。あのね…」って。

【一般区分】◆秋田県

二人(ふたり)で一人(ひとり) ―伴走(ばんそう)の輪(わ)より―

阿部(あべ) 剛紀(つよき)


私はとてもドキドキしていました。今から人生で初めて、視覚障害者の方とお会いするからです。どのような方だろうかという楽しみもありましたが、それ以上にどのように接すればよいのか分からない不安がありました。

きっかけは、視覚障害者の伴走者募集のチラシを偶然見つけたことです。全盲のマラソンランナーであるAさんの新しい伴走者を募集しているとのことでした。障害者支援ボランティアを行っている父の姿を見て、勝手ながら障害者理解を深めたいと思っていた私は、次の練習に参加することにしていました。

介護タクシーと書かれた車が目の前に停まったので、すぐにAさんが乗っているのだろうと気が付きました。運転手に手を引かれてAさんが降りてくると、少し照れくさそうに笑いながら、私の名前を呼びました。その瞬間に私の緊張は一気に和らぎました。簡単な自己紹介を行うと、とても気さくな方だと感じました。そして何より、健常者と変わらないのだと思いました。

いつものマラソン練習を始めることになりました。私にとっては初めての伴走です。うまくできるだろうかと案じる私に対して、Aさんは手慣れたようにランニングシューズに履き替え、計測用に時計を合わせました。直径10cm程度の輪になったロープを視覚障害者と伴走者で持ちながら走ることを知りました。伴走者は左右に曲がることの指示はもちろんのこと、路面の凹凸具合や坂道の有無なども伝えます。自分でもぎこちなさを感じつつもとにかく必死に伴走しました。無事に走り終えたときはとても安心しました。「いやー良かった。完璧。」とAさんの言葉には、お世辞だとは思いつつも嬉しかったのを覚えています。

それから、時間があれば練習に参加するようになりました。個性豊かな仲間との交流も楽しみの一つでした。楽しく走れるようにと、道案内だけではなく周りの風景もできるだけお話ししました。田植えが始まったことやムクドリがたくさん集まっていることなどを伝えるとAさんは喜んでくれているように感じて嬉しかったです。

一緒にハーフマラソンに参加したことはとても良い思い出です。残念ながらAさんの自己新記録更新とはなりませんでしたが、コース沿いからの声援や小中学生による吹奏楽を聞きながら走ることが出来ました。中には、視覚障害者が走っていることに驚く方もいました。私は少し嬉しかったです。障害を持ちながらも頑張っているAさんの姿を多くの方に見てもらえているのだと感じられたからです。

参加前は自分が21kmもの距離を走るとは考えたことも無く、未知の世界でしっかりと伴走を務められるだろうかと心配でたまりませんでした。実際、途中何度も歩きたいと思いました。それでも走り続けることが出来たのは、隣に懸命に走るAさんがいたからです。負けずに頑張ろうと思いました。私は伴走者でありながらも、Aさんに支えられたことで完走することが出来ました。

大会後は、参加した仲間と共に温泉で汗を流し、食事をしました。完走を称え合い、お礼を伝えました。申し訳なさを感じるくらいにAさんから感謝を受けたときは、最後まで諦めずに良かったとしみじみ思いました。大会の時だけ会える遠方のマラソン仲間とは、来年もまた会うことを約束して別れました。翌日には筋肉痛になりましたが、それよりも心地良い幸福感に包まれていました。

私はAさんを東京オリンピック2020の聖火ランナーに推薦しました。障害をもっていてもなお前向きに挑戦する姿を世界中の人々に知ってもらいたいと考えたのです。Aさんがランナーと発表されてからは、初めて会う方からも、「聖火リレー頑張ってね」「全盲の中でマラソンに挑戦する姿に感動した」といった声が届きました。「いや~参ったな」と少し戸惑いながらもAさんは「少しでも多くの人に自分の走る姿から希望や勇気を持ってもらいたい。障害を持っていても支援者がいることで何でも挑戦できることを分かってもらいたい」と意気込んでいました。

聖火リレーでは、多くの人々が沿道で手を振ってくださいました。その様子を私はできるだけ詳しく伝えました。たとえ見えなくても、多くの方が笑顔で迎えてくれることを感じて欲しいと強く思いました。走行後、Aさんの表情は爽やかで、達成感や充実感があふれていました。あっという間だったと物足りなさを漏らしつつも、私のおかげでいい経験になったと、晴れやかに言ってもらえた時はとても嬉しく、推薦して本当に良かったと思いました。

Aさんは、「視覚障害者は伴走者と二人で一人」といいます。その言葉に私は心の底から喜びを感じます。伴走者として受け入れられているように感じるからです。そして同時に共感も覚えます。障害者と健常者は単に一方が支えられる関係の「二人」ではないと気付いたからです。確かに障害者は支援者が必要な場合があります。一方で私もAさんが一緒だったからこそ到達できたことがあり、出会えた仲間がいます。決して一方通行ではありません。それは、視覚障害者と伴走者を繋ぐものが紐ではなく、切れ目のない輪になっていることが象徴しているように感じます。

Aさんに出会う前の私がそうであったように、障害者が身近な存在ではないからこそ、人々は間違った理解や偏見を持っています。障害者は出来ないことが多いと勝手に考えています。でもそれは違います。少しの支援で何でも出来るようになります。どんなことにも挑戦できます。障害者の可能性を理解して欲しいと思います。健常者と何一つ変わりません。同じようなことを考え、同じように生活しています。だから是非とも障害を持つ方と交流する機会を得て欲しいと思います。

私はAさんを一度も障害者だと感じたことはありません。Aさんに出会い、障害は健常者の意識の中に生まれるのだと気付きました。そして障害者や健常者といった区分を持ってではなく、一人の人間として接することが大切だと学びました。

【一般区分】◆相模原市

自然(しぜん)な眼(まなこ)で

原子(はらこ) 博子(ひろこ)


介護保険法の施行から二一年が過ぎ、『介護』『福祉』という言葉は、より私たちの身近になりました。街のバリアフリー化も進み、外出先で車椅子の方を見かける機会も増えました。

私の父は、今から三一年前に脳幹梗塞で倒れ、以来亡くなるまでの一七年間をベッドと車椅子で過ごしました。はじめの3か月は生死を彷徨い、ようやく容態が安定してからも、重度の麻痺が残りました。車椅子へは少しの時間座っているのがやっとです。食事もむせたり、こぼしたりしながら、何とか食べているといった状態でした。

当時、高校生になったばかりだった私が、社会人になる頃、ようやく父にも、出掛けられるだけの体力が付きました。そこで私は、母と一緒に父をあちこちへ連れて行きました。父は元々、外に出かけることが大好きで、私は幼い頃から、色々な所へ、ドライブや旅行に連れて行ってもらいました。そんな父の事ですから、外へ出かけられることをとても喜び、楽しんでいました。また母も私も、再び生きがいを見つけた父の姿を、嬉しく思っていました。

ところが当時、車椅子での外出は、随分不自由な思いをしました。また、障害者を見る機会が少なかったのでしょう。私たちは行く先々で、ジロジロと珍しいものを見るような人の視線を感じました。お店で食事をする時、父はエプロン代わりに、黒いビニールゴミ袋を首にかけます。母が食べさせては、食べこぼすし、むせるし、ヨダレも出ます。水を飲めば鼻から出ます。お店の人も、お客さんも、迷惑そうに怪訝な顔でジロジロ見ます。私はいつも申し訳なく、肩身の狭い思いをしていました。

法の整備に伴って、スロープの設置など物理的なバリアフリーは、少しずつ進んでいましたが、人々の心のバリアは、まだしっかりと存在していました。

それでも飛行機や車に乗って、日本国内を旅し、父にも自信が付いた頃のことです。父から、元気な時に叶わなかったハワイ旅行に連れて行って欲しい、と懇願されました。アメリカはバリアフリーの進んだ国だと知っていた私は、「車椅子でもなんとかなるだろう。」と、姉家族の協力を得て、父をハワイに連れて行きました。

意外なことに、ハワイでも段差や狭い通路など、不便な所は沢山ありました。それでも空港から、バスから、お店から、全てが私達には快適でした。スロープやエレベーターのない所は、通りがかりの人やお店の人が、当たり前のように快く手伝ってくれます。海にはビーチ専用の車椅子があり、父は何十年ぶりかで、波の中に入る事ができました。

でも、何よりうれしかったのは、夕食のために入ったレストランでのことでした。

いつものように父がゴミ袋エプロンを着けて料理を待っていると、店員の女性がこちらを見ています。「ああ、こっち見てるな。何か言われるかもな。」と、私は身構えました。その店員さんは、ツカツカと父に近づくと、にっこり笑い、とても明るい声で、

「オー! パパー、ソーキュート!」

と言いました。そして料理が運ばれると、

「エンジョイ ディナー」

と言ってウインクしました。食事中は、むせようがこぼそうが、誰も気に留めません。

普段、肩身の狭い思いをしていた父や私にとって、お店に、人に、受け入れられた気のする特別な経験となりました。

アメリカのバリアフリーは進んでいる。それは、単に物理的なものではなく、まさしく心のバリアフリーでした。

あれから一五年以上が過ぎ、日本人の心のバリアフリーも随分進んだと感じます。障害者に不親切だったり、ジロジロ見たりする人はあまりいない様に思います。

しかし、人々には『見ては失礼だ』『下手に関わると気を悪くされるのでは』といった心理が働き、かえって不自然なほど無関心を装っているようにも見えます。

今、私には掛けたい言葉があります。それはデザインのかっこいい車椅子や、その方の体に合わせて工夫された車椅子を見た時に言いたくなる、『かっこいい車椅子ですね』『いい車椅子に乗っていますね』という言葉です。あの時の父と私のように、その言葉で胸を張ってくれる人がいるのではないか、そう思うからです。

眼鏡をかけている人を見ても、何も特別と感じないのと同じように、車椅子や杖を使っている人の事も見てほしい。

ハワイの人々が教えてくれた、排除でも拒絶でも無視でも無関心でも特別視でもなく、ただ当たり前に、自然な眼(まなこ)で受け入れてくれる。それこそが、本当のバリアフリーなのだと思います。

【一般区分】◆大阪府

モクレンの花(はな)

宮地(みやち) 伸治(しんじ)


白い花が咲く。花びらが大きい。りんとしている。あっという間に散ってしまう。モクレンの花。私がうつ病になり障がい者作業所に行っていた頃、ある女性の学生さんが実習に来ていた。パソコンを教えてくれながらいろいろな話をした。「私モクレンの花が好きなんですよ」と学生さんが言った。私はどんな花か調べた。ちょうど咲いている時期だった。その学生さんは首に大きな黒いあざがあったが、「私大きなあざがあるんですよ。ははは」と無邪気に笑った。女性なのに全然気にしていないことが意外だった。実習が終わり学生さんは去っていった。モクレンの花はぱっと散る。美しさをみせびらかすことなく短命で潔い。あざを気にせず、夢に向かう、あの学生さんのようだ。人との出会いは、時に人を救う。そして、時に人を踏みにじる。人は、人生を山登りに例えることがある。平らな道もあれば、上り坂も。たまには谷もあるのかもしれない。みんな人生という山を登っている。親から言わせると、私は手のかからない子だったらしい。親は、子供が受験という山、就職という山、それに立ち向かうためにいろいろな装備を子に与える。しかし、私にその装備は与えられなかった。衣食住は与えられたが、中学生の時から自分の人生の山を自分で登っていた。金銭的に大学はあきらめ、工業高校に進学した。高校の授業料を親が支払ってくれたことにはもちろん感謝している。高校を卒業し、親元を離れ、大阪の会社に就職し、会社の寮に入った。会社で待っていたのはパワハラだった。仕事を教えてもらえず、毎日「役立たず、辞めてしまえ、おまえもバカなら親もバカだな」と怒られ続けた。その頃から、うつの症状は出始めていたと思う。会社という山は厳しかった。会社を辞めたいと父に打ち明けた。父は、3年間辛抱しろと私を叱った。私に逃げ道は無かった。私は自分の判断で会社を辞めた。そして新聞配達でお金を稼いだ。新聞配達で数年たつと昼夜逆転で体調をひどく壊した。うつ病である。そして仕事を辞めた。こうして普通の人の山登りルートから外れ、立ち止まった。病院の精神科に行き、障害者手帳をもらった。障害者の仲間入りである。人生中途で障害者になると、正直大変である。何も分からなかった。この先の山は登れるだろうか、不安しかなかった。親が優しかったなら実家に引きこもることも出来ただろう。親に理解が無かったことが私にとっては良かった。実家ではなく、社会資源へと道を歩み始め、障がい者としての山を登り始めることになる。精神科の主治医は言った。「宮地さんから働く気持ちを無くしたくはない。動くことで気持ちもつられて上がってきます。いくらでも協力します。」それでまず精神障害者生活支援センターに相談に行った。精神保健福祉士さんがよく話を聴いてくれた。その人とは今でも交流が続いている。ああ、こういう人がお母さんという人柄なのかなぁと心を動かされ、大阪のお母さんだと感じている。とても苦しかった時、遺書のような手紙を渡したことがある。落ち着いた口調でこう言った。「死ぬことは許しません。私が許しませんからね」。私の心が泣いた。うれしかった。そして、作業所を利用し、生活リズムを身に着けることから始めた。その時に最初にふれた実習の学生さんにも会えた。作業所に慣れると、次に就業支援センターに行き、企業実習をさせてもらった。それから大阪市職業リハビリセンターで訓練を受けて、鉄道会社の特例子会社に就職した。就職のゴールに思えたが、3年働いて、うつ病が悪化。退職する。再び、作業所に通所した。そこから次に、A型事業所で2年働いた。ハローワークにも定期的に足を運び、同時進行で一般就労への就職活動もした。そうして、現在の会社で採用となり、自社ビルの清掃業務に励んでいる。3年くらい続いている。就職という山があるのならば、山のふもとから頂上のゴールまでよく登ったものだ。自分をほめてあげたい。しかし、この山は、自分だけの力で登りついたわけではない。主治医、支援者の方々、私をサポートしてくれた人がいたからこそたどり着くことができた。人は人に傷つき、そしてまた人に救われる。私を励まし背中を押し引っ張りあげてくれた人たちに感謝している。うつ病になり、数十年普通の人とは違うルートで人生という山を登ってきたけれど、一生懸命頑張ってきた。気がつけば、もう50歳。半世紀生きた。もう普通の人の2倍は生きているような気がする。もう十分生きたかな。明日死んでも悔いは無い。そう思っていると、「死ぬのは私が許しませんからね」と大阪のお母さんに怒られそうだ。じゃあ今度は趣味で本物の山に登ってみましょうか。50歳の記念、どうせ目指すなら、日本一高い山、富士山は。でも現実大変そうだ。ならば予定変更、身近なところで、水族館でも行ってのんびりしよう。このくらいが今の自分のエネルギーに見合った自分へのごほうびだろう。

今年もモクレンの花が咲いていた。りんとして。そして潔く散った。数日後、薄い緑の若葉が品よく日光に手を伸ばしていた。花は散っても、葉は命をつないでいる。私も、もう少し頑張ってみようかな。明日は今日となり、日々がつながっていくのだろう。

※このほかの入賞作品(佳作)は、令和3年度「心の輪を広げる体験作文」 「障害者週間のポスター」入賞作品集(内閣府)(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r03sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。

※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。

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