付録12 令和4年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

目次]  [前へ]  [次へ

最優秀賞受賞

【小学生区分】◆茨城県

一緒(いっしょ)に歩(ある)いていきたい

茨城(いばらき)大学教育学部附属小学校 五年
浅沼(あさぬま) 稟佳(りんか)


「稟ちゃん、障がいって何だと思う?」

盲導犬ユーザーの森畑さんとオンラインでお話したときにたずねられた質問です。

昨年、私の家でパピーウォーカーというボランティアをしました。パピーウォーカーとは、盲導犬の訓練を受ける仔犬と一年間家族の一員として一緒に生活するボランティアです。このボランティアがきっかけで、私は、盲導犬についていろいろ調べる事にしました。盲導犬の歴史や盲導犬の一生は、本やインターネットで調べましたが、私が一番印象に残っていることは、父と母に相談して、盲導犬をパートナーにしているユーザーさんへインタビューができたことでした。

森畑さんは、四国に住んでいて地域の社会福祉協議会で働いています。私はオンラインで初めて会って話をしたので、とてもきん張してしまいました。でも森畑さんが、優しく、にこにこしていろいろなことを教えてくれました。森畑さんの目は、「網膜色素変性症」という、見えるはん囲がどんどんせまくなってしまう病気で、薬や手術でも治すことができないそうです。そんな森畑さんのとなりには、真っ黒でツヤツヤしたワンちゃんがいました。宝石みたいな犬でした。パートナーの「スーさん」です。買い物に行くときやお仕事に行くとき、パートナーのスーさんと一緒に歩くのです。スーさんが右に曲がるとか、直進するなど、道を覚えているわけではなく、森畑さん自身が音やにおい、車道の様子などで、道を覚えていて、頭の中の地図にしたがって、スーさんに「コマンド」とよばれる指示を出して連れていってもらうそうです。小さな段差や路上の自転車、看板など、スーさんは、森畑さんがぶつからないようによけて歩いてくれるので、「外に出るのが楽しくなった」と話してくれました。安全に歩ける事やスムーズに公共交通機関を使えることが当たり前に感じる事が、「楽しみ」になると初めて知りました。

森畑さんが私に「パピーウォーカーをしてくれてありがとう」と言ってくれました。盲導犬は、はんしょく犬ボランティア、パピーウォーカー、訓練士、ユーザー、引退犬ボランティアなど、多くの人の心がつながっています。その輪の中に自分が関わっていることがうれしかったです。

障がいとは何か…森畑さんからの質問に、私は最初体の不自由なところを思いうかべました。でも、森畑さんにとっては、信号のない横断歩道であったり、道の段差、放置自転車、はみだした看板などであり、障がいは、社会の中にあると教えてくれました。目の見える私達は、無意識にさけて通りますが、森畑さんとスーさんが不便な道は私達にとっても不便な道に変わりありません。

「稟ちゃんが知らなかったこと、初めて知ってびっくりしたこと、たくさんの人に伝えてほしいな」

森畑さんと約束しました。森畑さんは地元の小学校だけでなく、日本全国の小学校でもオンラインで盲導犬のこと、障がいのことを伝えています。私にできることは、私自身が調べた盲導犬のことや、森畑さんに教えてもらった事を多くの人に伝える事です。森畑さんとスーさんが歩きやすい社会を私も一緒に作り、歩きたいです。

【中学生区分】◆秋田県

ショウコさんと私(わたし)と

秋田(あきた)大学教育文化学部附属中学校 二年
榎(えのき) 奏子(かなこ)


「こんにちはぁ。」

玄関の引き戸の音と、間延びした声聞こえる。振り返ると、ショウコさん(仮名)がのっそり現れた。ショウコさんは知的障がい者だ。私の二回りくらい年上らしいが年齢不詳。同じ絵画教室にかよっている私の友達だ。ショウコさんは私のことを「カナコさん」と呼び、お正月には年賀状が届く。

私には小学校の頃から特別支援学校の生徒さんと一緒にボッチャをしたり、うどんを食べたりする機会があった。ショウコさんと初めて会った時も、ためらいを感じることなく話かけた。だが、ショウコさんは今まで会った人の中で断トツに強烈だ。マイペースで、笑いのツボも何に怒るのかもわからない。一つ言えるのは、食べていれば上機嫌ということ。そんなショウコさんをこっそり観察しながら絵を描くのが、私のひそかな楽しみなのだ。

ショウコさんはいつもアトリエでゆっくりと過ごす。まるでショウコさんのまわりだけ時間が止まっているようだ。実をいうと、描いているのをあまり見たことがない。というのも、ショウコさんはおやつを食べているか、キャンバスの前に座ったまま寝ているのだ。その姿は猫そのもの。教室のキョウコ先生や他の生徒さんたちと繰り広げる会話もまるでコントだ。私は笑いをこらえることができず、よく一人で肩を震わせている。

そんなショウコさんは、誰にもまねできない魅力的な絵を描く。秋田市で開催される「あきたアート はだしのこころ」にもいつも出展している。穂積秋田市長さんがショウコさんの作品を気に入り、ご自分のお小遣いで求めたという話も聞いた。ショウコさんは本物の画家なのだ。母は

「一度みたら忘れられない独特の世界観ね。」

と言う。もしかしてショウコさんの見ている世界は、私に見えている世界とは違うのかもしれないと思うことがある。

ある時から、アトリエにショウコさんの姿を見なくなっていた。それまでも休むことはあったから、特に気にかけていなかった。しばらく経ったある日、先生からショウコさんのお母さんが病気で亡くなったことを聞いた。ショウコさんはどうしているのか、いろいろなことが頭をよぎった。お葬式には母が行った。ショウコさんが「お母さん、骨になっちゃった」と呟いたと聞き、居た堪れない気持ちになった。ショウコさんは

「天国から見守っていてください。」

とお別れしたという。「死」というものをどんなふうに捉えていたのだろう。

数日後、ショウコさんは何事もなかったかのように、のんびりとアトリエにやってきた。ショウコさんの表情はいつも通りぼんやりとしていて、やはりどんなことを考えているのかわからなかった。とりあえず、ショウコさんが絵を続けられてよかった、またあの面白い土曜日になる、そんなことを思った。

ショウコさんのお父さんが、脳出血で後を追うように亡くなったという知らせが届いた。ショウコさんのお母さんの四十九日の直前のことだった。これでもう本当に、ショウコさんは絵を描き続けることが出来ないかもしれない。私は勝手に、諦めのような気持ちを抱いていた。

最終的には、私の心配をよそに、ショウコさんは絵を続けられることになった。ショウコさんが暮らすことになった障がい者施設の職員の方が送迎してくれることになったそうだ。ご両親が亡くなってもショウコさんを支える福祉制度があり、支える人たちがいることに、私は心の底から安堵した。これからもショウコさんはたくさんの人に愛されていくのだろう。

今日はショウコさんに会えるかな、そんなことを考えながらアトリエの引き戸を開ける。

【高校生区分】◆東京都

彼女(かのじょ)の「すべて」

学習院女子(がくしゅういんじょし)高等科 一年
小林(こばやし) 咲葵(さき)


中学二年生の頃、ネット上で複数人と話すことができるアプリにはまった。そこは言うまでもなく多様な価値観や趣味、性格などであふれかえっており、Eちゃんとはそのアプリで知り合った。彼女はADHD且つレズビアンだった。ADHDとは注意欠陥多動性障害のことで、発達障害の一種だ。特徴的な症状としては年齢不相応の不注意さや、好きなこと以外は集中力、興味、関心がない「多動性」、思いついたことをよく考えずに即行動に移してしまう「衝動性」がみられる。また、レズビアンというのは自分を女性だと認識し、愛する人が女性のみの人を指す。このようなEちゃんに匿名で偏見をぶつける人もいたが、私は特に何も気にせずに接していた。というのも彼女は障害を隠しているわけではなくむしろプロフィールに障害を堂々と公表しており、そんな自分らしく堂々と生きているところや関西弁で明るく親しみやすい性格が好きだったからだ。私はユーザー名を好物のポテトサラダにしており、“ポテサラ” と気兼ねなく呼んでくれていた。

ある日、Eちゃんと私の会話を聞いていた友人から突然こう言われた。

「あの子と話してて違和感ないの?ま、いいけどさ。」

それから私は考えるようになってしまった。今まで気にしていなかったことが一々気になって「これはADHDの特徴なのかな。」と。例えば、たてつづけに話すところや急に違う話に変わるところ、同じ話を繰り返すところなど。「あっ、これさっきも言ってたな…。」何となく彼女の話に頷くばかりの会話に疲れてしまい、それまでは一週間に二回は話していたはずが、ほぼ話さなくなってしまった。いままで私はどう接していたのだっけ…。

そして、その一か月後くらいに久しぶりにEちゃんと、共通の友達のSちゃんの三人で通話することになった。いざ通話を始めると「彼女がさ、すっごくかわいくてな~。」いつも通りの彼女だった。そうして「でさでさ、彼女がな…」とEちゃんが話そうとして、長話に身構えた。ところがSちゃんは

「はいはい、さっきも聞いたって~!」

と話し始める前に軽く受け流した。すると

「もう一回きいてや~。かまってよ~!」

と笑っていた。そんな感じでいいのか。もやが晴れるようだった。いままでADHDのことを気にしすぎて「彼女」を忘れていたのだなと思った。包み隠さず素直でサバサバしているところが好きで仲良くなったはずなのに、変な気を遣っていた私は、Eちゃんと障害を分けて考えてしまっていた。

障害があるからと、障害を気にして、相手にすべて気遣うことが大事なのではなく、その人との関係性にあった付き合い方を見つけることがお互いのためになることを悟った。障害への理解はある程度は必要なのかもしれないが、その過程で障害と性格を分けて考えるのではなく、障害も相手の個性として受け止めることが大事なのではないのかと思う。分かりやすく具体例を挙げると、“こういう障害だから、〇〇さんはこのようなことを言う“のではなく、” 〇〇さんならではの言い方“のように相手のすべてをひとまとまりに受け入れるということだ。

現在、Eちゃんとは二年の付き合いになり、丁度良い距離感と関係を築けたことで、何でも相談をしあえる程仲良くなった。先日、いつも通りに「バイバイ、またね。」と通話を切ろうとしたらEちゃんは電話越しに笑いかけた。

「ポテサラのことだーいすきやで~。また、話そうな!」

さりげない言葉が私の心を出来立てのポテトサラダのようにほくほくにした。

【一般区分】◆沖縄県

苦(くる)しくても、苦(くる)しくても

銘苅(めかる) 幸也(ゆきや)


私の身に起きた、数年間の出来事を精一杯あなたに伝えたい。

学生の頃、私は医師から強迫性障害と診断された。強迫性障害とは、ネガティブな言葉や感情を抑えきれず、強く頭に流れ込んでしまう症状だ。放っておくと徐々に嫌悪感は広がる。そしてそれは行動を強制される症状のため日常に支障をきたす。

医師の話では、今まで気にさえ留めなかった「それ」に耐えられなくなっているということだった。私は大学を中退して、ひたすら元の自分に戻ることだけを願った。

当初は症状が酷く、リビングの灯りやちょっとした音に、全身を針で刺されたような鋭い痛みを感じた。

初めての体験に苛立ちと驚きで混乱する私に、母も同様の気持ちだっただろう。母と会話する時は顔を避け、一方的に「ごめんなさいと助けてください」の気持ちをぶつけた。母が涙を堪えてアイマスクを買いに出る姿は今でも鮮明に覚えている。

しばらくの間、食事は目を覆って食べた。パン一枚でも絶対に見ることはできない。ぼんやりした視界の中でおそるおそる食べた。それが一番食べやすかったのだ。また、箸でもフォークでもなく、スプーンを使ったほうが物を口に運びやすいことも学んだ。

部屋から出ることをやめ、そこに在るすべてに怯える生活が始まった。唾は飲み込めず、いつも栗を頬張ったリスみたいな顔。部屋のカーテンを常に閉めきり、暗闇の中に自分を溶け込ませた。曖昧な空間がなぜか居心地が良かった。

頻繁に蛇口へ急ぎ、口いっぱいの唾を吐き出しながら気の済むまで手を洗う。手を洗うことで、一時的に落ち着いたが、やっと立っていられる程に疲労が襲う。それを一日に何度も行うのだから、腰を痛め、左人差し指の爪がもろくなって切れた。それでも手洗い行動を続けなくては心がもたない。

心身ともにクタクタでも無関係に、日々振り回されるストレス、不安、焦りが絶えず押し寄せるので、とてもじゃないが抱えきれないでいた。唯一、眠ることで「それ」から解放された。

悲しかったこともある。自分の気持ちを伝えられなかったことだ。たとえば「不必要に手を洗いたくなってしまう」と相談しても「それなら手を洗わなければ良い」と返される。至極真っ当な返事に、話した自分がバカバカしくなって、それ以上は続けなかった。心療内科の先生も同様でモヤモヤは晴れなかった。

苦しい……けど誰もわかってくれない……。自分の弱さに絶望しながら夜中、枕に顔をうずめて泣いた。「なんで……生きてるんだろう」そう思ったことも一度きりではない。それでも家族とともに、懸命に毎日を過ごした。過ごせたと言ったほうが良いかもしれない。

私の家族は、強迫性障害の小難しい内容を聞く事より、私を第一に受けとめたのだ。最初こそ何度も激しく手を洗う様子に心配していたが、段々何も言わなくなった。怖くて私から謝ろうとしたが「心配するな。できることはするから、とにかく頑張れ」と父に言われた。その父の言葉は私に、大きな温もりと元気を与えてくれた。今でも父と母には感謝しても、し尽せない。

少しずつ「自分」を取り戻すと、一人の淋しさを意識し始めた。父と母に相談しながら、近くのボランティア団体から「私のため」の子犬を引き取った。名前はジャック。人懐っこい性格で、いつも励まされた。次第にジャックに話しかけることも多くなった。なんとなく向き合えたのが、楽だったかも知れない。

訪問看護に頼った頃から「少し頑張ってみてもいいのかな」と希望を持つようになった。テレビの代わりにラジオを聞いたり、おしぼりを携帯したりと日常に工夫を重ね、息苦しい生活を一歩ずつ良い方向へ変える努力をしてみた。特に、友人の理解を得られたことが何より嬉しく、ずっと一人で背負っていた葛藤を断ち切れたのだ。

就労支援では、一人の男性職員に大変お世話になった。私は毎日その方と、雑談を混ぜた相談をしていたが、その度に必ず「大丈夫。絶対に大丈夫だよ」と何度も沢山の勇気を頂いた。

あれから私は、ヘタなりにも「それ」と向き合い続けている。就職もでき、以前の怯える私はもういない。勿論、今でも気を抜けば「それ」に呑まれることもある。それでも「絶対に大丈夫だ」と私は言い聞かせ続けている。

今後は支えてくれた方々に恩返しできるよう胸を張って人生を歩みたい。

私の体験があなたの為になれば幸いに思う。

優秀賞受賞

【小学生区分】◆富山県

今(いま)、ぼくががんばっていること

富山(とやま)市立草島(くさじま)小学校 五年
濱﨑(はまざき) 釉色(ゆいろ)


今、ぼくは支援級にいます。なぜなら、人との関わりが苦手だからです。

家では、すらすらと話すことができるのに一歩外に出ると、のどに何かがつまったように声が出なくなり、話すことができません。また、なぜだか分からないけれど、いつも不安な気持ちでいっぱいになります。そんなとき、

「場面かんもく症」

と言われました。家族や先生の手を借りて、年長のときにやっと幼稚園に慣れ、登園できるようになりました。もうこれで小学校生活も大丈夫と思っていました。しかし、小学校に入学すると、学校や周りの人の空気が、がらりと変わりました。慣れようと努力してもついていけなくなり、学校へ行けなくなってしまいました。やっぱり人が大きらい。でも、勉強もしたいし、友だちもほしいという気持ちは今ももっています。このままではいけないと思っていたところ、発達障害の診断を受けました。それから、ぼくは、自分の特徴がちょっとずつ分かるようになり、今までよりも先生方に気にかけてもらえるようになりました。先生にもっていた、もやもやとした気持ちが徐々になくなっていきました。

そして、二年生のとき、保健室登校と通級指導教室に行けるようになり、通級の先生や保健室の先生など、話せる先生が増えていきました。

そんなある日、担任の先生から、

「釉色さん、学校で安心できる場所を増やしませんか。一度、支援級の教室をのぞいて見ませんか。」

と誘ってもらいました。行ってみたら、とても楽しくて、クラスの友達と関わることがこんなにわくわくすることとは、思いませんでした。だから、学校へ行ける日が少しずつ増えました。さらに行事にも興味をもち、思い切って参加することができました。けれども心の疲れがたまり、また学校へ行けなくなる日が増えていきました。せっかく支援級に移ったのにどうしよう、と不安な日々が始まりました。しばらくして、母に、

「今度、放課後等デイサービスに行ってみんけ。」

と言われ、不安だったけれど、何か変われるのではないかと思い、行ってみることにしました。そこは、ぼくにとって、とても安心できるところでした。指導員の方がとても寄り添ってくれて、いろいろなことを教わるうちに、自分に自信がもてるようになってきました。

五年生になって、担任の先生と、

「交流級で十五分間授業を受けてみよう。」

と約束しました。交流級で十五分間授業を受けていると、交流級の友達に声をかけてもらえるようになり、だんだんとこの中に入りたいと思えるようになりました。そして、一学期の終わりには、交流級の授業に最初から最後まで出られるようになりました。

ぼくはこの経験を通して、前より心が少し軽くなりました。それは、自分にちょっぴり自信がもてるようになってきたことと、支援級や交流級の友だちと関わることで、人は怖くないということが分かってきたからです。

これからは、支援級とか交流級とか関係なく、いろいろな人とふれあうことで、ぼくがどんなふうに変わっていくのか不安だけど楽しみです。また、ぼくと同じようなことで困っている人がいたら、家族や先生、友だちがぼくのそばで力づけてくれたように、ぼくもそういうことができる人になりたいです。

【小学生区分】◆名古屋市

かかのしょうがい体(たい)けんをしてわかったこと

名古屋(なごや)市立八事東(やごとひがし)小学校 一年
藤本(ふじもと) 千尋(ちひろ)


「かかのしょうがいは体けんできないの?」

車いす体けんをしたかえりみち、わたしはかかにききました。かかがてちょうをもっているのはしってるけど、どんな体けんをしているかはよくしらないときづいたからです。かかのことも、しょうがいのことももっとしりたい。わたしはかかに、「かかのしょうがい体けん」をおねがいしました。

さいしょのチャンスはとつぜんやってきました。目のびょういんにいったとき、かかが

「このけんさ、にがてな光ににてるかも。」

といったのです。ちょっとわくわくしながら、目をあけてまっていると、「ピカッ」と目に光がささりました。まぶしい!わたしはとてもびっくりして、目をなん回もぎゅっととじました。ライトがきえてからも、目の中に光がのこっていてチカチカします。じゃまだなあ、いやだなあ。だからかか、よく目をこすってたんだ。わたしはまえに、まぶしがるかかに「キラキラでいいじゃん。」といったことをおもいだしてあやまりました。

つぎは、おうちの中で。テレビにやきゅうのおにいさんたちがうつったときです。

「おにいさんたちなんていってるかわかる?」

よくきいてみたけど、「しゃっしゃー」とか「あーした」とかしかきこえません。テレビの人やほかの音が大きくてとってもじゃまです。音を大きくしてみたけど、うるさくなっただけでいみはわからないまま。でもテレビの人たちも、かかもわかっているみたいだったので、わたしだけおいてきぼりにされたみたいなきもちになりました。でも、

「なんていってたの?」

とこたえをきいたら、かかは「さあ?」とわらいました。なんと、テキトーにわらっていただけだったのです。

「きこえないけど、たのしそうだなとか、がんばってるなっていうのはわかるから。」

え、そうだっけ?みんなのことなんてぜんぜんみてなかった。きこえなくてもかかがおしゃべりできるのは、このおかげだったんだときづいて、すごいなとおもいました。

それから、かかはじぶんのことをおしえてくれました。キャンプでスープをのむとき、「ひにかけて」とわたされたおなべのみずを、ひにジャーとかけてけして、おこられたこと。「ちょっと」とか「ちゃんと」といわれても、どうしたらいいのかわからないこと。むちゅうになると、ごはんもねるのもトイレもわすれちゃうこと。でもきづいたら、どんどんべつのことをはじめてること。

「わたしもそういうときあるよ。」

はげましたくていったけど、かかはこまったかおでわらいました。

「そうだよね。でもかかはまい日、ずっとなんだ。まい日だと、どうかな?」

そういわれて、かかがよく「どうしてわからないの?なん回もいってるのに!」とおこられることをおもいだしました。わたしもそうおもったことがあります。かかはまい日いやなきもちがいっぱいになるからげんきがでないんだ。たまにこまるのと、しょうがいでこまるのはちがうんだとわかりました。

かかのしょうがい体けんをして、わたしはかかのきもちまでしることができました。車いすの体けんのときは、たいへんそうとおもったけど、ちょっとたのしいとおもっていました。ほんとうに車いすですごしている人はどんなきもちなんだろう?きいたり、ふれあってみないとわからないことだらけだとおもいました。それに、いっしょにすごす人のきもちもです。かかと体けんするうちに、わたしもじぶんのきもちや大へんなことがあるのにきづきました。体けん中かかに「たまにたすけるのがめんどくさい」と正じきにいったら、かかはなぜかうれしそうにわらってくれました。じっさいのふれあいの中であいてをしって、おもいやりをもって、でもしょうじきに、これからもそうやって、しょうがいのある人ともたくさんふれあっていきたいです。

【小学生区分】◆愛媛県

ヘルプマークを知(し)ってほしい!

今治(いまばり)市立立花(たちばな)小学校 五年
村上(むらかみ) 立騎(りつき)


みなさんは、ヘルプマークを知ってますか。ヘルプマークは、しょう害やしっかんなどがあることが外見からは分からない人が、支えんや配りょを必要としていることを周囲に知らせることができるマークです。ぼくがどうして知っているかというと、ぼくの兄が自閉しょう害を持っていて、その兄がいつもこのマークをリュックに付けているからです。

三年前、ぼくと兄と母で、テーマパークAとテーマパークBに行きました。ぼくは、小学二年、兄は高校一年生でした。松山空港の東京行きの飛行機に乗るゲートの人数は、連休で人がかなりならんでいました。ぼくと兄は、手遊びしながら立っていると、近くにすわっていた人が、

「ここ、よかったらどうぞ。」

と、言って席をゆずってくれました。ぼく達は、お礼を言って二人ですわりました。後で母に理由を聞くと、たぶん兄のヘルプマークを見たんじゃないかということでした。ぼくは、とても感動したのを覚えています。なぜなら、何も言わなくても周りの人が配りょしてくれたのを初めて実感したからです。

羽田空港に着いて、テーマパークAに向かうリムジンバスの中でもありました。車内は満員で、兄は真ん中のほじょ席にすわっていました。通路をはさんで母が、兄の後ろにぼくがすわっていました。車内は静かでしたが、兄はしばらくすると、声を出してしまいました。母は、静かにというシーというポーズを兄に合図をしていて、何度かそれをくり返していましたが、急に大きな笑い声と前の人のかみをさわってしまいました。前の人はおどろいてふり返りましたが、兄と母のやりとりや、ひざにのせていたリュックについていたヘルプマークのおかげか、何もなかったようにしてくれて、おおごとにならずにすみました。後ろにいたぼくも、ホッとしたのを今でも覚えています。

兄は高校生だったので、見た目だけではしょう害があるか、わからないです。しかし、ヘルプマークのおかげなのか、テーマパークAやBの乗り物待ちでならんでいる時も、モノレールやバスの中でも、食事している時も、周りの人が配りょしてくれたと思い、ぼく達はとても楽しい旅行になりました。

それからぼくは、時々ヘルプマークをつけている人を見かけるようになりました。いやこれまでもヘルプマークを持っている人はいたと思いますが、ぼくが気づいていなかったんだと思います。スーパーで買い物している時や駅やバスていなどでも、付けている人を見かけたことがあります。ヘルプマークが、支えんや配りょが必要ですと教えてくれるので、ぼくは少し待とうかと思うようになり、気持ちがゆったりします。まだ、何か自分から声をかけたり、支えんをしたことはありませんが、何か困った様子を見つけたらすぐ声をかけれるように心がけていこうと思います。

今、兄は高校を卒業し、しょう害者しせつで働いています。少しずつ自立に向けて、一人で近くのスーパーへ買い物へ行く練習しています。いつものリュックにヘルプマークをつけて。もっともっとたくさんの人が、ヘルプマークを知って、しょう害やしっかんのある人達が、くらしやすい温かい地いきを作っていけたらいいなと思います。

【中学生区分】◆徳島県

一人一人(ひとりひとり)が笑顔(えがお)になれる社会(しゃかい)を目指(めざ)して

阿波(あわ)市立阿波(あわ)中学校 二年
大野(おおの) 里桜(りお)


「これじゃあ、あそこまでいけないね…」

「仕方ないね。それならここで、待っておくよ。」なんていう会話をよく妹と交わすことがあります。私と妹は双子で、現在阿波中学校の二年生です。妹は、生まれつき足が不自由で、普段は車イスに乗って生活をしています。そのため、行動範囲が制限されてしまうことがあるのです。

例えば、外出の際に階段しか設置されていなかったり、バリアフリー化されていなかったりする施設や交通機関は、妹にとってとても使いにくいのです。

学校生活でも、校舎の上下階への移動はエレベーターを使っていますが、特別教室へ入るときは、段差や階段があり、車イスを降りて自分の足で歩かなければいけません。体育館への移動は、先生に付き添ってもらって昇降機を使わなければなりません。みんなが楽しみにしている学校行事でも、同じように活動できるわけではありません。しかしながら、妹は楽しそうに生活しています。

私は小学生のころに、腕を骨折したことがありました。利き手を骨折してしまった私は、板書をノートに書き写すことや、給食の時間にお箸でご飯を食べることや、ランドセルに荷物を入れることなど、今まで当たり前に楽々とできていたことが、スムーズにできなくなりました。私はとてももどかしい気持ちになりました。そのとき、少しだけ妹の気持ちがわかったような気がしました。悪戦苦闘していた私を、周りの友達や先生が「大丈夫?手伝うよ。」と言ってサポートしてくれました。すると、私の心にあったもどかしい気持ちは、いつの間にか消え、私の心は嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

このような体験を通して、私が考えたことは、誰でもが暮らしやすい世の中にしなければいけないということです。そこで、私はどのようなことに不便を感じるのかを妹に尋ねてみました。すると、改めて気づかされる点がたくさんありました。

まずは、買い物の際に、高い位置に置いている商品に手が届かなかったり、見えにくかったりすることがあるそうです。欲しい物があっても、自分では取れないので、人に取ってもらわなければなりません。また、欲しい商品を探すのにも、人一倍時間がかかります。そのとき、学校で車イス体験をしたことを思い出しました。普段、生活しているときより目線が低くなり、同じ景色でも少し違って見えました。そして、それが車イスで生活する上での不便につながっていることに気づきました。相手の立場や視点に立って物事を考えることが、他者への理解の一歩に繋がると思います。

他にも、通路が狭かったり、少しの段差があったりすることで、行きたい店への入店をあきらめてしまうことがあるそうです。そのことで選択することもできないのです。私たちが当たり前にしている『選択』という行為。それはとても素晴らしい権利です。しかし妹にとっては、その権利にも制限がかかります。物理的な条件をクリアーしないと、だれもが持っていて当然の『選択』ができないところに、私は『不平等さ』を感じました。『不自由』はあっても、『不平等』はなくさないといけないと思いました。

しかし、辛いことばかりではないと妹は言っていました。通路に物が置かれていて、通りにくそうにしていたときに、そこに居た女の人が「大丈夫?」と声をかけて、困っていた妹に手を差しのべてくれたそうです。学校でも、当たり前のようにノートやプリントを持って行ってくれる友達や、落とした荷物を拾ってくれる友達や、そっと車いすを押してくれる友達がいるそうです。人に親切にしてもらったとき、妹は「嬉しく、温かい気持ちになった。」と笑顔で話してくれました。そのとき、小学生の時に感じた私の思いと一緒だなあと知りました。そんな妹を見て、私も嬉しくなりました。嬉しい気持ちや優しい気持ちは、周りの人にも広がっていくのだなと思いました。

今、私に出来ることは、困っている人に声をかけて手伝うことです。物理的な不便をできるだけ取り除く手伝いをすることです。「こんな世の中になって欲しい。」「このように変わって欲しい。」と願うだけでなく、自分から行動を起こしていきます。そして、助けてもらった時の笑顔が関わった人への笑顔に広がっていければ、誰もが笑顔で居られるよりよい社会になっていくと思います。私は、私や妹を笑顔にしてくれる、阿波中の仲間が大好きです。今ある大切な仲間と、さらに深く繋がって、共に成長していきたいです。今ある私の周りの一人一人が笑顔になれる社会を目指して…。

【中学生区分】◆富山県

「普通(ふつう)」とは何(なに)か

高岡(たかおか)市立芳野(よしの)中学校 一年
東(ひがし) 朔太郎(さくたろう)


僕の弟は、ダウン症という障がいをもって産まれました。ダウン症の人は、細胞の中にある染色体というものの数が普通の人より一本多いそうです。普通の人の染色体は四十六本です。だから、ダウン症の人の染色体は四十七本あることになります。

弟は世間では、「障がい児」と言います。また、僕のような障がい児の兄弟は、「きょうだい児」と言うそうです。僕は、そんな言葉があると知ったとき、悲しいような悔しいような、何とも言えない嫌な気持ちになりました。弟も、そしてその家族である僕たちも「普通じゃない」と、差別されているように感じたからです。

弟は八歳ですが、上手に話すことができません。代わりにジェスチャーを使って自分の気持ちを表現しています。でも、それ以外は「普通」の八歳と同じです。毎日ご飯を食べお風呂に入ります。学校に行き、家では宿題をしています。怒ったり泣いたりもします。そして、弟はよく笑います。また、他の人がしないような勘違いをしたり、ユニークな動作をしたりして僕たちを笑わせてくれます。弟がいると、家の中が明るくなります。弟は我が家のムードメーカーです。

弟の「普通じゃない」ところを探そうとするうちに、何が「普通」なのかがわからなくなってきました。僕は、「普通」の人なんていないのではないかと思います。同じ人間なんて一人もいないからです。

世の中には、さまざまな差別があります。障がい者差別はもちろんですが、人種差別や性差別など、何年も前から問題になっています。僕は、差別は、自分とは異なる人を「普通じゃない」と決めつけるところから始まるのではないかと思います。相手のことを知ろうとする前に決めつけ、関わろうとしないことが差別がなくならない原因なのではないでしょうか。

僕は、差別をなくすためには、人は、一人一人違っているという当たり前のことをみんなが理解すること、自分とは違う人のことをもっと知ろうとする思いやりの気持ちが大切だと思います。そして、相手と自分との間に大きな違いがあったとしても、関わっていくことが必要だと思います。

僕には、これから弟と関わるときに心がけたいことが二つあります。一つ目は、手伝いすぎないことです。僕の弟は、さまざまなことをするのに時間がかかり、手助けが必要です。気持ちを伝えるときにも、ジェスチャーだけでは相手にうまく伝わらず、見ていてもどかしくなります。そんなとき、僕はすぐに手助けをしてしまいます。でも、それは弟のためにはなりません。一人でできないことがたくさんあるまま大人になって、困るのは弟だからです。弟は、宿題をしていてわからなくなるとやめてしまいます。それを知っている僕は、答えを教えてしまいます。本当は自分で考えた方がいいと思っているのに、つい教えてしまうのです。これからは、弟のために、見守ったり、やり方を教えたりしていきたいです。

そして二つ目は、人の気持ちを考えられるようにしてあげることです。今、弟は、自分のことに精一杯で、人のことを思いやることはできません。これから、いろいろな人と関わっていくために、弟には、人の気持ちを考えられるようになってほしいと思っています。少しずつだと思いますが、されてうれしいことや嫌なことを教え、分かってもらおうと思います。

「普通」の人よりできることが少ない弟ですが、それでも、できることはどんどん増えています。周りの人も、障がいをもつ人自身も「普通じゃない」と決めつけることなく、思いやりの気持ちをもって関わっていける社会をつくっていきたいです。

【中学生区分】◆三重県

「人(ひと)の役(やく)に立(た)てたこと」

三重(みえ)県立かがやき特別支援学校

あすなろ分校 一年
前田(まえだ) 咲幸(さゆき)


学校に行きたくない。

それが三年生の頃の私でした。そして、四年生、五年生も学校へはほとんど登校することがなく六年生になりました。

その春に、新一年生と六年生で遠足に行くことになりました。歩く時のペアになったのは、車イスに乗っている一年生の男の子でした。買い物をしていた時に車イスの男の子がいるなあと思っていたその子が、なんと同じ学校に入学してきたのです。

男の子は長い距離の場合には、車イスで移動します。そのため、お母さんが車イスを後ろから押していました。車イスの親子の後ろを歩いていると、なぜか男の子のことが気になり始めました。名前は何だろう、話してみたいなという気持ちになりました。近くに行って、驚かさないようにそっと名前をたずねると

「こうせい。」

と名前を教えてくれました。

「公園に着いたら私も一緒に遊んでいいですか。」

「いいよ。」

と言ってくれたことが嬉しくて、その時のことをよく覚えています。

でも、車イスに乗っている子と遊ぶのは初めてで、どうやって遊んだら良いのか、上手に遊べるのか心配でした。

こうせいくんは、一人で歩けないので、一緒に手をつないで歩きました。滑り台に挑戦したり、ブランコに乗ったりしました。からだを動かしにくいので、遊びやすく、楽しめる方法をいろいろと考えて試しました。遊び方が分からなかったけど、こうせいくんが楽しんでいるので、

『自分の考えた遊び方は、合っていたみたい。よし!』

と心の中でつぶやきました。初めは遊び方が分からなくて不安でしたが、少しずつ自信がもてるようになっていきました。

転んでケガをしないように気をつかいました。でも、それ以上に一緒に遊べたことやお弁当を食べたことが楽しかったです。何とも言えない嬉しい気持ちになりました。

私は、遠足で楽しい思い出ができた翌日から、次の日も、次の日も毎日一年生のこうせいくんの教室に行きました。最初の頃は、休み時間は遊んでいることが多かったです。

そして、毎日教室に行っていたので、車イスに座る時の手伝いも上手にできるようになりました。こうせいくんは、足の治療のために装具を着けています。装具は重たいので、抱っこをして車イスに乗せてあげるのは、私にとっては簡単ではないです。それでも、

「さゆきちゃん!」

と笑顔で呼んでくれるので重さも気になりませんでした。

ある日の体育で50m走をしました。こうせいくんが、50mを一生懸命走っているのを見て

「頑張れ!こうせいくん!がんばれ!」

と、思わず大きな声で応援している自分がいました。バランスを崩さないように、ゴールまでしっかり走っていました。

学校に登校できなかった私。

六年生になってからは、学校に登校できる日がとっても増えました。

『人の役に立っていること』

『人に頼りにされていること』

が、私のエネルギーになっています。こうせいくんのことを支えているつもりでしたが、反対に支えてもらっていたことに気がつきました。こうせいくんに出会えたおかげで、自分を発見することができました。

これからは、様々な人へのボランティア活動や交流をしていきたいです。

【高校生区分】◆神戸市

私(わたし)の広(ひろ)げたい心(こころ)の輪(わ)。

関西創価(かんさいそうか)高等学校 一年
菅原(すがはら) ルン


障がい者。私はこれまでの生活であまり関わりが無かったように思う。そのため、毎年、夏の課題の『心の輪を広げる体験作文』も、思い浮かぶ体験が無く、気にとめてこなかった。けれど、それは自分が見えてなかっただけなのかも知れない。そう思うようになったのは、私のここ1年の体験にある。

2021年2月。私は、ダイエットを始めた。この時、肥満という訳では全く無かったが、いわゆるお正月太りを気にして、軽い気持ちだった。中学2年生の冬。それは、来年の最後の中学生活1年間に向かう時期で、勉強や部活にこれまで以上に力を入れていた。だが、結果は思うように出ない。友人に何もかも劣っている様に思え、努力の難しさを痛感していた。そして、大好きだったお菓子を食べることを辞めた。すると、少しずつ体重は減った。その時に感じた「報われた」という感覚は、忘れることはできない。そして、その後の自分をどんどん狂わせていった。次は、夕食の量を半分に減らして。次は…。そうして目標としていた体重になっても満足することはなかった。もう少し、もう少しだけ。と思っていた。夏の初めの頃になると、先生方や家族から、みるみる変わる私の体型に心配の声をかけられるようになった。自分でも、いい加減増やさないと、と思い始めていた頃だった。皆が暑く感じる部屋が寒く感じる。長袖が必需品になっていたのだ。その改善に対して前向きな思いの反面、後ろ向きの思いは手強いものだった。食べる量を増やそうにも普通の食べる量がわからない。どんどん体型が変わっていくかもしれないという恐怖。そうなった時、自分の長所は消えてしまう気がしてならなかった。だが、ある日の夜、母に言った。「病院に行きたい。」それは本当に勇気のいる言葉だ。それでも言葉にしたのには一つのきっかけがあった。ジャンプができなくなったのだ。体育の授業の時だった。準備体操のジャンプができないのだ。足に力を上手く入れられない、踏み込めない。授業が終わって1人になった時、思わず涙が溢れた。自分で変えた自分の体型。それは自分の自信、誇りだったはずなのに。そんな、今思えば理解し難い誇りに振り回された半年間。全くそうでなかったことに気づかされた瞬間だった。母はその言葉に、涙を流して、「何もできなくてごめんね。」と何度も謝りながら、病院を探し、連れて行ってくれた。謝罪の言葉に胸が痛んだ。情けない。多くの人に心配をかけて、何をしているんだろう。全部全部やり直したい。そう思った。病院の先生に告げられた病名は「摂食障がい」。自覚のあるものだった。そして、次に続けて言われた。「いつ心臓が止まってもおかしくない状態。」突然死の可能性についてだった。恐怖は覚えなかった。そんなはずないと思ったから。昨日まで、2時間弱の通学だってできた。そんなはずない。それを繰り返した。その中で、どんどん先生の説明は続いた。消費と摂取のカロリーの制限。毎週の通院である体重を切れば入院。どんどん注意事項を母に告げていたが、そんな内容は私の頭には入ってこなかった。まるで自分とは違う世界で話しているような。そんな感覚だった。その日からベットから動いてはいけない生活が始まった。食事とトイレの時以外は寝たまま。お風呂も禁止。読書も勉強も何もかもが禁止だった。ただ、天井を見て、目を閉じる。その繰り返し。虚無感という言葉が合うのだろうか。ツーっと涙が溢れるそんな毎日だった。ただでさえ忙しい家族に先生方に皆に迷惑をかけて。ただ皆のお荷物でしかない自分。消えてしまいたかった。そんな時、父が言ってくれた。「なんとかなる。なんとかする。」どうやって?どうでも良かった。友人が電話で話してくれた。「待ってる。ずっと待ってるね。」いつまで?誰にもわからないのに。こんなに素敵な人達に囲まれた自分は、今なにをしてるんだろう。そう思った。そして決意した。強い心で。少しでも、少しでも前を向こう。そして、いつかこの経験をプラスにしてみせる。そして恩返しするんだ。それから、本当に少しずつ、前進を続けた。行動の制限も取れていき、食事も自分の意志で取れるようになった。体型の変化に不安になる時もあった。そんな時、決意した日を思い出す。すると、大好きな大切な素敵な私の周りの人の顔が瞼の裏に広がる。それを続けた。そして、迎えた高校入学。沢山の人に支えられて私は入学式に参加した。大切な友に囲まれて、大切な家族に見守られて、呼名の返事をした。それは、かけがえのない最高の瞬間だった。そして、今も高校生活を謳歌している。

摂食障がい。それは私に沢山のことを教えてくれた。私を囲んでくれる大切な人達の存在、人の本当の美しさ。そして、今生きているしあわせ。本当に素敵なことを。多くの迷惑をかけてしまったと思う。けれど父は言う「迷惑じゃない。不安定な時は支えてあげることは、当たり前で、皆がすることなんだ。」迷惑じゃないと思うことは、まだできていないけれど、目の前の人を心から寄り添って支えられる自分でありたいと思うことができた言葉だった。それは今、心理士という将来の夢にも繋がっている。

障がいとは。辞書では、個人的な原因や、社会的な環境により、心や身体上の機能が十分に働かず、活動に制限があることとある。だが、障がいは、きっと誰かの強みにもなる。前向きなものになる。改善というものがない障がいも。誰かの害でも自分の害でもない。

けれど、そう思えたのは、大切な周囲の人の存在、言葉があったからだ。私はそんな存在、言葉をかけられる人になりたい。周囲の人の心で、心の輪が繋がって、そして広がって。そこに障がいがあってもなくても素敵なことだから広げたい。大切な人、目の前の人を思う。この心の輪。私の広げたい心の輪。

【高校生区分】◆千葉県

歩(あゆ)み寄(よ)る姿勢(しせい)

筑波(つくば)大学附属聴覚特別支援学校高等部 二年
田苗(たなえ) 優希(ゆき)


私は生まれつき重度の難聴で、日々補聴器をつけて過ごしている。私の場合、補聴器をつければ全て聞こえるようになるわけではなく、車のクラクション、サイレンの音は区別がつくが人の声は判別できない。そして私は自分の声がわからず自信を持てないため、あまり声を出さないようにしている。

自分は聾者の世界では自分から積極的に話しかけるのですぐに友達を作ることができ、楽しくやっていけるのだが、健常者の世界ではなかなか自分から話しかけられず、相手が障がいに理解があるとわかるまで自分から距離を置いてしまう。

私は大学附属の聴覚特別支援学校に通っており、附属学校の生徒たちの交流会の実行委員になった。三回行われた実行委員会での出来事を述べる。全日とも予め自分からパソコンで要約筆記の情報保障をお願いしたため、全員の話し合いでは情報の面では特に困らなかった。生徒同士で個人的なやりとりも、健常者とはスマートフォンのメモアプリを使ってコミュニケーションをとったのでなんら問題はなかった。実行委員会には私のような聴覚障がい者もいれば、視覚障がい者もいたのだが、どのようにコミュニケーションを取ったらいいのかわからなかった。

実行委員会一回目は、自分の健常者に対する人見知りの性格が顕になってしまい、周囲の人とほとんど話すことができなかった。二回目以降は自分から話さないと絶対に変われないと思い、勇気を振り絞って健常者に話しかけた。そうしたらみんな優しく接してくれ、休み時間では冗談を言い合ったり、ジェスチャーを織り交ぜて話してくれたりと盛り上がった。健常者との心の壁が薄くなってきたと感じた頃、全盲の高校一年生(Aさん)から話しかけられた。Aさんの中で私が存在していることに驚きを隠せなかったが嬉しかった。初めて視覚に障がいがある人と話した。どのようにしてコミュニケーションをとったらよいか悩んだが、自分からはスマートフォンの文字を音声化して自分の伝えたいことを伝えられるようにした。Aさんからはありがたいことに、全て指文字で話してくれた。私と話すためだけに指文字を覚えてくれたのがとても嬉しかった。しばらく話すうちに私はあることに気がついた。私はAさんが話すたびにうんうんと相槌を打っていたのだが、相手は私が相槌を打っているということが見えない。Aさんは時折話し続けていいのか、指文字が合っているのかわからない表情を見せていた。私はどうすれば良いのかわからず何もできなかったが、腕などを軽く握って、「解ったよ」と相槌の代わりに表現すればよかったのではないかと今なら思う。ともあれ障がい者同士が会話する時も、お互いに歩み寄る姿勢なしではやっていけないなと感じた。三回目の実行委員会では「指点字」と言って両手の人差し指、中指、薬指の六本で点字の位置を表現する方法があるよと教わった。次会う時までにまずは点字を覚え、そして指点字を覚えてAさんとよりスムーズに話せるようになりたい。

この実行委員会の集いを通して聴覚以外の附属学校の生徒たちに聴覚のことについて興味を持ってくれ、手話を覚えたい、ぜひ私の学校で手話講座を開いて欲しいなどと言われた。健常者も私たちのことを知りたいのだなと嬉しく思った。私も学校でも希望者を募り、点字や指点字勉強会を開いてみたい。このような些細なことでも積み重なることで、健常者、障がい者、年齢に関係なく、様々な人たちの見えない壁が少しずつ無くなっていくのだと思う。

障がいの有無に関わらず、お互いに歩み寄る姿勢が共生社会への一歩になるのではないかと私は考える。障がい者からの発信も大切だが、健常者もどのような配慮が必要かを聞いたり、考えたりするような、お互い歩み寄る姿勢が大事だ。相手がして欲しいことを予め聞いて、それにできるだけ対応しようとすることが最善策だと思う。私はこれからも健常者、障がい者関係なく、様々な人に積極的に関わっていきたい。そして、私のことをしっかりと伝えるとともに、相手のことを考えながらコミュニケーションを図るように工夫していきたい。

【高校生区分】◆熊本県

配慮(はいりょ)とは

熊本(くまもと)県立松橋(まつばせ)支援学校高等部 一年
廣田(ひろた) 琉人(りゅうと)


僕は、「骨形成不全」という病気を持って生まれてきました。この病気は骨が折れやすい病気です。赤ちゃんの頃は骨折ばかりで、両親は抱えるのも大変だったと話していました。

そして僕には、同じ障がいを持って生まれてきた妹がいます。妹も生まれたときは骨折して生まれてきたと母から聞きました。

僕と妹は同じ障がいを持っていますが、それぞれが全く違う経験をしています。それは、周りの人たちからの言葉や態度からもたらされたものでした。

幸いなことに、僕の周りには障がいを理解してくれる友達がいました。骨が折れやすいため、普段は松葉杖や車椅子で生活しているので、休み時間に外へ行って遊ぶということができませんでしたが、いつも友達が側にいてくれて、教室でいろんなことを話しました。移動教室の時には、教科書などの重い荷物を進んで持ってくれたり、給食の食器の片付けも手伝ってくれていました。

ケガをして入院した時には、学年全員から手紙をもらい、励まされたこともあります。オンライン授業を受けた時は、休み時間のたびに友達がタブレットの周りに集まって必ず声を掛けてくれました。それがどんなに嬉しかったか。思えば僕の側には、いつも優しい友達がいてくれました。

しかし、同じ障がいを持っていても、環境が違えば、受ける言葉も態度も違います。僕の妹は僕と全く同じ障がいを持っているにもかかわらず、とても苦い経験をしていました。心ない態度や言葉を向けられた妹の話を聞いて、まだまだ障がいに対しての知識や理解がない社会なのだと実感しました。

僕も学校では楽しく過ごすことができていましたが、一歩外に出ると困ることがたくさんあります。僕を困らせるのは、一本のケーブルだったり、一見すると気づかないほどの小さな段差だったりします。

僕は今まで何度も転倒して骨折をしてしまい、病院に入院をして手術を行ってきました。骨折してしまった時は、三週間から一ヶ月半の間、入院を余儀なくされました。

つまづくだけで骨折する人はあまりいないと思いますが、僕にはその危険性があります。ケーブルや、段差につまづくこと、それは僕が学校生活をスムーズに送れないことにも直結してしまいます。

入院すると、勉強をしようと思っても、リハビリやレントゲンなどの時間と重なり、思うように自主学習を進めることができません。思わぬことが誰かの生活を阻むということは、割と多いのではないかと思います。

ケーブルや段差が僕を困らせるように、思わぬところで僕の何気ない行動や言葉が、どこかで誰かを困らせたり、傷つけているかもしれません。自分だけの立場で物事を考えず、少し違う視点で見つめてみる、そういう心がけが、思いやりや優しさを生むのではないでしょうか。

例えば、バリアフリーやユニバーサルデザインなども、誰かが誰かを想う優しさの形です。「誰でも使える、誰でも楽しめる、誰にでもわかる」そういう気持ちが形になって、どこかで誰かを助けています。特別なことは何も必要なく、世界中の人が優しい気持ちを持つだけで、世界はきっと変わっていくと思います。

僕は高校を卒業したら、すぐに社会に出て働こうと思っています。車椅子と松葉杖で生活している僕にとって、誰かの手助けは不可欠です。しかし僕は困った時に誰かに声をかけて助けてもらうことが苦手です。だからどうしても自分で解決しようとしてしまいます。手を貸してもらうことを躊躇して骨折をしてしまったら、自分が困るのはもちろんですが、職場の人にも迷惑をかけてしまうことになりかねません。「何も言わなくてもわかってくれるだろう」という気持ちを改め、人の善意に頼り過ぎず、自分から「助けてください」と声を掛けることができるようになりたいです。そして優しさをもらった分、僕も優しさを返せるようになりたいと思います。

【一般区分】◆熊本県

「失(うしな)ってこそ見(み)えるもの」

坂本(さかもと) 高広(たかひろ)


「盲目は、不自由なれど不幸ではない」と、言う名言がある。私にもそう思える日が来るだろうか…。

私は数十年前「失明」の宣告を受けた。「網膜色素変性症」と言う目の病である。ショックだった。頭の中が真っ白になった。その後も病魔は、着実に私の網膜を蝕み続けた。毎日毎日、真綿で首を絞めつけられる思いであった。目が見えなくなったら…。「この先どうやって生きて行ったらいい…」恐ろしさと不安だけが、私の心を押しつぶそうとしていた。そんな気持ちを抱えたまま、時間だけが空しく過ぎていった。「何とかしなければ何とか…」そんな焦る気持ちの中、まだ幼い子供たちの寝顔を見ていると、止めどなく熱いものが込み上げて来た。ただ一つ救いだったのは、いつもと変わらない妻の笑顔だった。本当は妻も不安で一杯だったろうに…。 そして私はすべての光を失った。「もう後戻りはできない…」「前に進まなくては…。」妻の為子供の為…いや、本当は「自分の為」であった。

まず立ち直りのきっかけを作ってくれたのは、「れえる」と言う点訳ボランティアの皆様であった。この社会の中で、障がいをもつ者にとって一番の理解者はボランティアの皆様ではないでしょうか。この、「れえる」と言う名称は、この会を立ち上げた3人の方の頭文字を取ったもので、視覚障がい者と共に正に、「レール」のごとく一緒に歩いて行こうという趣旨の下に付けられたそうです。

 れえる 平仮名 レール 線路

実に、いいネーミングだとつくづく感心しました。ここから私の「第2の人生」が、スタートしたといっても過言ではない。この頃の私は、点字の事についてはほとんどと言っていいほど、分かりませんでした。そんな私に一から懇切丁寧に教えていただきました。

「あいうえお…」「12345…」「ABCDE…」一文字一文字を確実に書く事… 一つの点の大事さ…など時には優しく、時には厳しく教えて頂きました。そして、何とか文字が書けるようになった頃、また、新しい壁が私の前に現れた。それは、文字は書けてもそれを読み返す事が出来ない… いわゆる「触読」が出来ないのである。これは、「れえる」の皆さんも頭を抱えてしまった。

「ここから先は、自分で頑張るしかありませんよ」「出来る限り協力はしますから」と言われ私は、覚悟を決めた。

そうして、月日は流れ私は「れえる」の皆様と共に、触読に取り組んだ。その間、「れえる」の皆様は、常に私のそばにいて励ましの言葉を送り続けてくれました。その甲斐あって、私は何とか触読が出来るようになった。「れえる」の皆様は、我が事のように喜んでくれました。その時の感動は、今でもはっきりと覚えています。その後も勿論「れえる」の皆様との交流は、続いています。最近は、お互いに高齢となり、交流もめっきり少なくなりましたが、私に立ち直りのきっかけを作ってくれた「れえる」の皆様方には、心から感謝申し上げたい。

そして、また、私に新しい出会いが…当時、私たちは、最も身近な情報源である町の広報誌をみんなに…と模索中であった。あるとき友人に誘われて「朗読会」に参加した。これが朗読ボランティア「トルバドール」との出会いであった。私はこの朗読会が、終わるとすぐにメンバーの人に面会を求めた。皆さんは快く応じてくれました。そこで私は、「広報誌」の事を相談してみた。当時はまだ読み手が少なく一本のテープを回し読みしていました。情報というものは、「正確な事。分かりやすい事。そして、出来るだけ早い事」が、求められます。このことからすると、私たちの現状は、「早さ」という面ではほど遠いものであった。ひどい時は、最後の人が聞く頃にはすでに月が替わっていることもしばしばでした。「トルバドール」の皆様は、これを聞いて「出来るだけ協力は惜しまない」と言ってくれました。それから忙しい合間をぬって協議を重ねついに広報誌の配布にこぎつけた。読み手は「トルバドール」の皆様に担当してもらい、これを町の社会福祉協議会で編集発送してもらう事になった。これにより私たちは、今までより格段の速さで「広報誌」を聞けるようになった。しかし、各人の家で録音する為に、録音レベルや読む速さなどまちまちであった。でも私たちにとってそんな事は問題ではなかった。より正確により早く情報を入手出来ることが嬉しかった。

その後も「トルバドール」の皆様とは、何度も協議を重ね「より聞きやすくする」為に、努力を重ねて頂きました。時には雑音を入れない為に夜中に録音したり、遠くから録音室に通ったりもしてくれました。本当に頭の下がる思いです。

そして、近年訪れた「デジタル化の波」は、「トルバドール」の皆様にとって、また「新しい壁」となった。「今さらパソコンなんて…」「私には、無理かも…」そんな声もちらほら…。しかし、「トルバドール」の皆様は、そこで諦めることはしなかった。見事この「新しい壁」を乗り越え、私達に「デイジー」(デジタル録音)を提供して頂いております。この「新しい壁」を、乗り越えるため皆様のご苦労、ご努力は言うまでもありません。お陰様で、このデイジーにより「よりクリアな音声」で「リアルタイム」に、この情報を楽しむ事が出来ています。

私たち障がいをもつ者にとってより多くの人達に自分達の事を理解して貰う為には、このボランティアの方々の大きな力を借りることも大事だと思いますが、何より私達自身が広く社会の中に溶け込んで行く事が大切ではないでしょうか。これからも、沢山の「出会い ふれあい」を重ねつつより大きな「心の輪」が広がって行く事を心から願っています。そして、今私は「失ってこそ見えるもの」とは、人のやさしさ… あたたかさ…そういった「心の灯り」だったのだと思っています。

【一般区分】◆埼玉県

障害者(しょうがいしゃ)ってなんだろう

土屋(つちや) 美貴(みき)


「障害者ってなんだろうね。」

ふと、友達の口から出た言葉だった。私はその言葉の意味を理解するまで、時間はかからなかった。障害者と言っても、種類や程度は十人十色であり、決してひとくくりにできないものだと思う。身体障害、知的障害、精神障害、様々な障害がある、そんなことを頭の中で考えていると、友達は続けて口を開き、

「私さ、パニック障害なんだよね。」

私は何故か、一瞬周りの音が聞こえなくなった。友達と知り合って数年経つが私は数秒前まで、友達のことは健常者だと思っていた。パニック障害とは、突然動悸に襲われたり、めまいや発汗、震えや吐き気など発作を起こし、私生活に支障が出ている状態をパニック障害という。パニック障害を詳しく理解していることもなく、返す言葉に迷っていると、

「最初は自分が変なのか、とか色々考えちゃったけど、周りに話すことで少し楽になったんだよね。」

言葉と同時に友達が笑顔になった。その瞬間と同時に私自身も笑顔になった。

言葉は凄い、何もない何も見えない暗闇から一瞬で、暖かい陽が差す場所へ導いてくれる。

ある日、電車を待っていると視覚障害者の方が白杖を動かしながらホームを歩いて来た。自分がぶつかってはいけないと身体を避けたが、そのまま他の人にぶつかってしまった。

「私が一言声をかけていれば…。」

そんなことを思いながら一週間が過ぎ、また同じ場所でこの間の視覚障害者の方が歩いてきた。今日はやけにホームが混んでいたため、気が付く人気が付く人たちは、身体を避けた。イヤホンを付けながら携帯に夢中になっている人がいた。私はとっさに声が出た。

「もしよろしければ案内しましょうか。」

視覚障害者の方の行動が止まった。その瞬間私は不安と恐怖が混ざり合わさった。そして私はとても長い時間のようにも感じた。

「ありがとう、でも大丈夫ですよ。」

その言葉で我に返り、同時に暗闇から抜け出した。私は何に迷っていたのだろう、悩んでいたのだろう。たった一言だけど、障害者の方と交わした言葉で心があたたかくなった。

障害者、世間一般的に心身に障害を抱えていて、他者からの支援を受けなければ日常生活に支障をきたすおそれのある人のこと。反対的言葉として、特定の疾患などを抱えておらず日常生活にも支障のない人のことを、健常者と呼んでいる。この二つの言葉を並べてみた時、繊細で細くとても頑丈な糸のような境が私には見えた。人間は初対面の人に対して見た目からどうしても判断しやすい。車いすに乗っている、手話で話している、片方の手や脚が無い、私が声をかけた白杖を持った人も見た目から障害者と判断した。パニック障害や、精神的疾患など見た目では判断できない障害を持った人も世界にはたくさんいる。見た目で判断する、時にいい意味で捉えることもできるが、いじめや虐待など時には悪い方向にいってしまうこともある。

「ありがとう。」

たった一言だけどお互い心がぽっとあたたかくなる言葉。障害者の方に声をかけるのは、少し勇気がいるし不安にもなる。けれど、その一歩を踏み出せればお互い住みやすく、居心地の良い世界になると思う。

「障害者ってなんだろう。」

同じ人間、言葉を交わし心の輪を広げ差別や偏見のない世の中に少しでもなっていけばいいなと私は思う。

【一般区分】◆神戸市

わかってもらう努力(どりょく)

濱口(はまぐち) 聡(さとる)


僕の障害は脳性まひ。生まれた時から障害と向き合ってきました。障害があることで、たくさんのことを経験できました。僕は福祉の制度を利用して、いろんな人と関わってきました。

僕は小学校に行く前からずっと、リハビリに通っていました。早退してリハビリに通い続けても、思うように動けるようにならないし、友達と遊ぶ時間が取りたかったので、リハビリに通うのがイヤでした。「周りの友達は歩けるのに、なんで僕だけ歩けないのだろう。」そう思いながら、小学校の時にリハビリに行く回数を減らしました。

身体を動かす機会が減ると、どんどん硬くなっていくばかりです。いよいよ高一の時に、股関節の周りが痛くなり座れなくなってしまいました。病院の先生に相談すると、自宅に来てくれる訪問リハビリを紹介されました。

訪問リハビリを受けるようになってから、股関節の痛みは軽減されました。リハビリの大切さを感じ、あれだけ嫌だったリハビリを受けたいと思うようになりました。訪問リハの先生とも家で困ってることや学校での姿勢設定を相談するようになりました。今でも自発的にいろんな相談をしています。

高校からは身体のことを考えて、支援学校に入りました。高校では自分に合わせた学習支援を相談できました。生徒会や文化祭を楽しむことができました。

ある時、リハビリの先生に『西宮で福祉用具展をするから自分のことを話してみないか』と聞かれました。三十人の前で講演をしてみない、という誘いを受けました。

僕はやってみたいなと思いました。僕は言語障害があるので、周りからわかっていない・喋れないんだろうと思われていました。コミュニケーションが取れないと思われているから、いつも僕ではなくお母さんに「どうですか。」と僕のことを質問されていました。障害をもつ当事者も意見を持ったり、考えたりしていることを、しっかりと伝える機会になると思いました。

僕が話した言葉を一文字一文字打ち込んでもらって、パワーポイントにしました。当日は聞こえにくいかも知れないけれども、自分の言葉で話しました。聞こえにくい人のために、パワーポイントを表示してもらって、同じことを言いました。内容は、脳性まひで介助される人の気持ちについてです。体のコンディションによって、食べにくさや飲み込みにくさがあること。姿勢でしんどさが変わること。身体がこわばったらしゃべりにくくなること。いつも周りにわかってほしいと思っていたことを話しました。

いつも、介助してくれる人に伝えたいと思いながら、伝わりにくいことがたくさんあって、僕も相手もなんとかしたいのにできないことを話そうと思ったんです。僕はこれまでお母さんとか、特定の誰かに頼っていたので、その誰かが僕のことを説明してくれていました。自分で自分のしんどさを話したのは、高校生で発表したこの時が初めてでした。

発表して気付いたことがあります。今までヘルパーさんなど介助する人が上手じゃないと思っていましたが、僕もされて嫌なことを自分の言葉で伝えていなかったんです。僕のことを聞いてくれると思っていなかった…他人を心から信頼してお願いできなかった自分に気が付きました。家族以外の誰かに「助けて」と言うことができなかったんだなと思います。しかし、訪問リハビリや支援学校での一対一の関わりを通して、ただ僕の話を聞いてくれたり、僕のことをわかりたいと思ってくれたり、気にかけてくれたりする体験があったから、どんどん相談していこうと思えるようになりました。

心の輪は「広げよう」と思って頑張るものではないと思います。長く時間がかかってもいいから、コミュニケーションをとったり、自分の近くにいる人に関心をもったり、そんな小さな気遣いや言葉かけが大切なんじゃないかなと思いました。

僕はこれからも、自分のことをわかってもらう努力をしたいです。わかってもらえない時にイライラしてしまうことも減らしていきたいです。そしていつか、『さとるくんの介助はここが大変だから、もう少しこの部分は協力してほしいな』と気兼ねなく言ってもらえる関係を築いていけたらと思います。

お互いに一緒にいてしんどくない関係をもてるように、僕自身も発信したり受けとめたりして、自分を振り返りながら成長したいと思います。

※このほかの入賞作品(佳作)は、令和4年度「心の輪を広げる体験作文」 「障害者週間のポスター」入賞作品集(内閣府)(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r04sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。

※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。

目次]  [前へ]  [次へ