付録11 令和5年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)
最優秀賞受賞
【小学生区分】◆京都府
いっしょに遊(あそ)ぼう。
城陽(じょうよう)市立今池(いまいけ)小学校 五年
師橋(もろはし) ひより
みなさんは、特別支援学校に通っている子ども達について知っていますか。障害者週間とは、障害のある人達について、関心をもとうという週です。
私の兄は、特別支援学校に通っています。知的障害のある自閉症児です。好きなものは乗り物やキラキラした物です。うれしい時はニコニコしながら「うー♪」と言います。反対に、おこっているときは、歯をくいしばりながら「うー!」と言います。私は、兄の顔を見なくても、兄がどんな気持ちの「うー」なのか聞き分けることができます。
ある日、私の学校の先生が兄や兄の学校の友達が交流に来ることを教えてくれました。私は、心の中で「いやだなぁ。友達になんて言われるだろう。」と不安に思いました。友達に「変だね。」と言われたことがあるからです。でもそれは、私だけの思いこみでした。みんなが「ひよりのお兄ちゃんて、足は速い?」などきいてくれて、うれしくなりました。私は、「お兄ちゃん、走るの好きだよ。」と教えてあげました。先生からも、「お兄ちゃんの好きな乗り物はなに?」と聞かれ、船が好きだということを伝えました。みんな、お兄ちゃんが来ることを楽しみにしてくれているんだなぁと感じました。
そして、交流会当日もうれしいことがあったのです。チームでゲームをするとき、友達の一人が「こっちだよー。」と兄をさそってくれたのです。私は、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。初めて会った兄に、声をかけてくれて有りがたいなぁと感じました。
しっぽ取りおにごっこでは、私たちがおにになり、兄たちは走ってにげます。そのときの兄の表情がとても楽しそうでした。学校の友達も楽しそうに追いかけていました。
後日、私の学校の参観があり、母といっしょに兄も来ました。そのときに、「ひよりのお兄ちゃん、久しぶり!」と友達が兄の目の前に立ち、声をかけてくれました。けれど自閉症の兄は、目を合わせることがむずかしく、顔をよけて、その友達よりも向こうを見ていました。でも、その友達も兄と目を合わせようと何度も兄の顔の目の前に、自分の顔をもってきては、チャレンジしていました。母は、そのことを今でも何度も話すので、友達のほうから兄のそばにきて声をかけてくれたことが本当にうれしかったのだと思います。交流会という特別支援学校の子どもたちと関わる機会があったことで、兄を「友達」だと思ってくれているのだと感じました。
兄のまわりには、兄のことを理解し、兄と関わろうとしてくれる人が本当にたくさんいます。そのおかげで、いろんなイベントや行事に家族で参加するようになりました。兄は人とのつながりに恵まれていると、母はいつも言っています。私も、兄のように、たくさんの人に支えてもらいながら、毎日を楽しく過ごすことができる人が増えていくといいなぁと思います。
本当は、兄がいることで今でもがまんすることはあります。でも、兄がいることで、この世界にはいろんな人がいるということを知りました。そして、自分から積極的に関わるようにもしています。この先、私と同じ思いの人がこの世界にもっともっと増えていくといいなぁと思っています。
【中学生区分】◆熊本県
全部(ぜんぶ)理解(りかい)して欲(ほ)しいと思(おも)いません。
しかし、知(し)って欲(ほ)しいです。
氷川(ひかわ)町及び八代(やつしろ)市中学校組合立氷川(ひかわ)中学校 二年
小田(おだ) 莉子(りこ)
「何でお前笑っているの。ヤバッ。」や「授業中にそれ(足が動いてしまう)止めてくれない。集中できないから。」
など言われたことがあります。直す努力をしていますが、今ひとつ空気を読むことが苦手です。また、体のどこかが自然と動きます。他にも、人とは違った感覚があり、よく指摘を受けます。
学習では、国語と数学が他の教科よりも分かりません。運動も、言われた通りに動かそうとしても思うように動かせず、姿勢も悪いです。それに、大きな音が嫌で、特に花火の音や運動会のピストルの音、爆竹の音が異常に怖くてしかたがありません。
私は、保育園の頃からいろいろと言われてきましたが、年齢が上がるに連れて周りから厳しい言葉をかけられることが増えました。自分を守ろうとして言葉や態度が悪くなってきたと思います。同時に、自分も責めるようにもなり「私なんか必要か?」と思うことも。
いわゆる、私は「発達障がい」です。「自閉症スペクトラム症」と診断されました。他にも「注意欠如・多動症」「学習障害」「発達性協調運動症」の疑いもあります。たくさんの障がいをもって生まれたことに、「かわいそう。」と思う人も多いかもしれません。
できない私を、ゆっくりと成長する私を、母は理解してくれています。だからと言って、他のお母さんのように優しい言葉でなぐさめたり、甘やかしたりしません。「人のことをとやかく言う前に、自分はどうなの?」や「自分がどう生きたいのかしっかり自分で考えなさい。」と言うような母です。ただ、私にだけ厳しくしているわけではなく、弟にも同じです。また、母の仕事で関わった人たちも同様のようです。それに、母自身も自分に厳しい人です。でも、人には親身になって手を差し伸べる人です。母をしたう人にとって、表面上の優しい言葉よりも、実際に行動する母の姿を見ているので、厳しさの裏に込められた愛情を感じます。私も成長したのか今ではそれを、感じます。弟は、まだのようです。
私の母は、学校の先生をしています。音楽の先生から、特別支援学級の先生をするようになりました。
きっと私がきっかけです。
家では、よく勉強したり生徒やその家族についての支援方法を考えたりしています。そして、保護者の方に「迷惑をかけますと言わないでください。迷惑だと思っていませんよ。私も同じ悩みをもつ同士、一緒に頑張っていきましょうね。」のような言葉を伝えています。逆に、私のことになると「ご迷惑をおかけしてすみません。」と言っています。そのせいか、二つの立場で板挟みのようになると、「特性は個性だと分かってもらえないのか。」と、愚痴をこぼす母がいます。私のような人にとって、母のような存在は、救われます。
私のことを全部理解して欲しいとは、思いません。しかし、見た目で分からない障がいがあることを知って欲しいです。治療をして軽減できても、治るものではありません。どんなに一生懸命に頑張っても悔しいですがすぐに成果は出ません。だからと言って、特別扱いをして欲しいのではありません。具体的に教えて欲しいだけです。何がだめだったのか振り返りながら直す努力をしていきます。冷たい言い方や軽蔑するような言い方にも慣れていますが、やはり傷つきます。そして、防衛本能が働くのか、反抗的になってしまいます。
障がいの有無に関わらず、一人ひとりの個性を自分のものさしで否定したり、皆と同じような考えを押しつけたりするのは違います。花がそれぞれ色と形に特徴があるように、個性にも特徴があります。
カラフルに咲き乱れる花が綺麗なように、カラフルを認め合える世界も、きっと綺麗なはずです。バリアを外した、その様な世界に興味をもってみませんか。
【高校生区分】◆静岡県
気(き)づきから生(う)まれる
誰(だれ)もが暮(く)らしやすい社会(しゃかい)
静岡(しずおか)県立掛川東(かけがわひがし)高等学校 二年
佐野(さの) 夢果(ゆめか)
「夢ちゃんは夢ちゃんだよ。」
友達の何気ない一言だった。しかし私にはこの言葉が本当に嬉しくてたまらなかったのだ。
私は生まれつき障害があり、車いすで日常生活を送る車いすユーザーだ。そんな私は、小中、そして現在の高校に至るまで、普通学級で学校生活を送ってきた。障害がある生徒は私一人。
そんな中での学校生活は、私にたくさんの出会いや気づきをもたらしてくれた。私の小学校は全学年一クラスの小さな学校で、クラス替えもなく、六年間同じクラスメイト。そんな六年間を共にしたクラスメイトは、いつも自然と私に手を差し伸べてくれた。学校行事ではどうすれば、私が参加できるのかを、周りの友達がいつも一緒になって考えてくれたし、先生もたくさんの工夫やアイディアでどうしたら私が参加できるかを考えてくれた。例えば授業で川に行くことがあった時、先生が濡れてもいいようにと防災用の車いすを借りてくれたこともあった。授業の一環で野菜を育てた時も、畑に車いすで行けるようにとクラスの友達が、ダンボールを敷いてくれた。今回の募集テーマになっている「心の輪」は、そんな学校生活でいつも私の周りに広がっていたように思う。そんなクラスメイトや先生達とだったからこそ、私は障害という括りの中ではなく、私自身として過ごせたのだ。その一方で、学校の外では障害の中で自身が括られることに、違和感を感じることも多かった。例えば登校中、
「車いすなのに偉いわね。」
と声をかけられたり、賞を取ったときも
「車いすなのにすごいわね。」
と言われることがあった。本当に何気ない一言だった。しかし私は私が私として評価されないことや、障害の中で括られていることがとても悲しかったのだと思う。そんな時、一緒に登校していた友達が私に言ってくれた。
「夢ちゃんは、夢ちゃんだよ。」
これもまた何気ない一言だった。しかし私はこの言葉が嬉しくてたまらなかった。思えばいつも周りのクラスメイトや先生は、私に障害があるからではなく、どうしたら私が参加できるのかを考えてくれていたように思う。
私にはそんな経験を通して考えるようになったことがある。どうしたら障害のある人が、障害の中で括られずその人らしく生きられるのか。きっとその答えのひとつは一緒に過ごす時間にあると、私は思っている。障害と聞くと難しく考える人も多いかもしれない。しかし一緒に時間を過ごすと、障害はその人の一要素でしかないことに気づくはずだ。そして一緒に時間を過ごすうちに、色々な気づきがあると思う。私の学校生活はまさにこれだった。そんな一緒に過ごすうちに生まれる気づきが、とても大切なものなのだと私は思う。一番怖いことは、知らないことだ。知らないから、関わったことがないから、分からないから。そういうものに対して、人はつい難しく考えてしまう。だから幼少期の内から、障害に限らず色々な人がいる中で、生活をし、時間を共有することはとても大切なことだと私は思うのだ。
そこから生まれるたくさんの気づきが、社会を良い方向に動かしていくはずだ。
私はそんな時間を共有できるお店で、現在ボランティアスタッフとして働いている。そのお店とは車いすユーザーの横山博則さんが店長を務める、「駄菓子屋横さんち」だ。
横さんちでは現在十一人の障害者が働いている。私はこの横さんちのボランティアを通して、多くの気づきをもらった。横さんちは障害というテーマをもつ一方で、お店を利用する人は障害や福祉に関わる人たちに限定されていない。障害や年齢や地域を限定せず、誰でも来てもらえるお店。それが「横さんち」だ。福祉の場ではなく、駄菓子屋さんであるからこそ、様々な人が訪れる。そしてそんな空間での自然な交流の中で、ふとした瞬間にたくさんの気づきが生まれていると、私は思う。例えば私がレジをしていると、いつもお店に来てくれる小学生は、自然と袋詰めを手伝ってくれる。買い物という日常生活の中で障害を持つスタッフと交流することで、困りごとや困りごとへの工夫の仕方をその小学生は当たり前に、知ってくれている。日常生活の中に当たり前にある「駄菓子屋」という空間だからこそ、そこで得る気づきは偶然得たものになる。何かしらの気づきや学びを得ようという意識のもとで得た学びも、当然大切な学びではあるが、ふとした瞬間に気付くことができた学びはより一層、その人の考え方や価値観へと繋がると私は思うのだ。私はこんな横さんちのような、自然と同じ時間を共有するなかでの気づきを生み出せる場が、もっと増えていけばいいなと感じている。知ることは、お互いを理解し、自分にできることを見つけるきっかけになる。そして、自分の経験の中から得られた一人一人の気づきが、いずれ社会を変えるきっかけとなっていくのだろう。
日常生活のありふれた時間の中で人と出会い、話し、気づき、学ぶことで、少しずつ変化が生まれる当たり前があればもっと、誰もが暮らしやすい社会になっていくと思う。私は当事者として、そんな自然な心のふれあいや気づきがうまれる場をつくっていきたい。そんな心のふれあいや気づきのその先にはきっと、誰もが自分らしく生きられる社会があるはずだ。
【一般区分】◆富山県
闘(たたか)い
牧田(まきた) 恵実(めぐみ)
私は精神障害者である。しかし障害者だからと言って恥ずかしさを感じることはない。なぜか?必死に闘っているからである、病気と。
病気の症状がでたのはいきなりだった。通学電車から降りると私がどこにいるのか、どうしたら学校に行けるのかわからなくなり、すぐに家族に「助けて!」と電話した。父が迎えに来てくれてパニックで動けなくなっている私の手を引いて家まで連れて帰ってくれた。その後もいつの間にか学校を出たものの自分がどこにいるのかわからなくなり泣いている私を当時担任だった先生が迎えに来てくださったこともある。そのようなことが度々起きたため学校の先生方も心配してくださり大きな病院での検査を勧められた。検査を受けに行くと、すぐに入院を勧められ入院することになった。そして検査の結果はおそらく統合失調症ではないかとのことだった。
「統合失調症」それは百人に一人はかかると言われる病。この日から私と病気との闘いが始まった。
私の症状は様々で、いきなり男の人の声で「死んでしまえ!」と幻聴が聞こえてきたと思えば次は味覚と嗅覚がおかしくなり更に妄想も加わり「食べ物の中に毒が入っている!」と必死に看護師さんに「食べたらだめだ!」と訴え、その後しばらくは食事をとることができなくなり、点滴のみの生活となった。
また、入院中にいつもは病室で寝ているはずなのに朝起きたら保護室にいて、「なんで私この部屋にいるのですか?」と看護師さんに聞くと、「本当に覚えていない?昨日の夜中にいきなり暴れ始めたのよ」と言われとても驚いた。そんな目に見えず記憶もない病気と闘ってきた。とはいえこれは私一人の闘いではなかった。私には家族がいた。私を元気付けようと焼き肉屋へ連れて行ってくれた。私を笑顔にしようと旅行に連れて行ってくれた。そんな家族と過ごすうちに体調も安定し始め、家族以外の人と話す余裕が出てきた。そんな時、母から一つ提案された。「障害者手帳持ってみない?」というものだった。
提案されて気づいた。私は障害者なのだと。私は障害者。だから今まであんなに辛い思いをしてきたのだ。そう考えると合点がいった。だから障害者手帳を持つことを決めた。手帳を持つことで自分自身の中でまだくすぶっている「障害者」である自分ときちんと向き合い認めることができると思ったからだ。
デイケアという心のリハビリ施設にも通い始めた。そこには様々な心の病気を持つ人がたくさんおられた。そしてそこでは世間話だけでなく「今こんな症状が出て困っているのです」と家族以外の方とも病気で困っていることに対しお互い遠慮なく助けを求めることができた。自分の中でそのような助けを求められるようになったのも小さな前進だと思っている。
以前友人に「精神科」に通っていると言うと「お前廃人になったんだな」と言われた。悔しかった。
私は必死に病気と闘っているのに、そんな私を「廃人」という一言でまるでダメな人間。一人では何もできない人間だとレッテルを貼られたように感じた。それからは一生懸命病気と闘ってはいるものの周りには病気になったことは隠すようになった。そしてこれ以上私を傷つけたくないと母は私の交友関係について、とても慎重になり、同級生などと会うのも止められるようになった。そんな中一人だけ「家に呼んだら?」と母が勧めてくれた友人がいた。彼女を障害者になってから初めて家に呼んだことは覚えている。だが何を話したのかは定かではない。しかし彼女の言ったたった一言。「めぐ、すごく頑張っとるね。」この一言に涙が止まらなかった。「大丈夫?」「辛そうだね」よりも何十倍も救われた。その友人とは今でも時々会って話をしたり、毎年桜の季節はお花見へ行ったりしている。「廃人だな」そして「頑張っとるね」どれもたった一言。その一言が人の心をこんなにも大きく動かすのだ。
私は今一人暮らしをしている。と言っても望んで一人暮らしを始めたのではない。父と母が癌で亡くなってしまったからだ。八年前父は家族やヘルパーさん、訪問看護師さんと力を合わせて家で闘病生活を送り家で息を引き取った。そして三年前母はコロナウイルスが流行りだしたころに何か月も入院し、コロナウイルス対策で面会も制限され、会いたくても会えない時期があった。母は癌が進行し、先が長くないとわかってから障害を持っていて一人では生きて行けないだろうという私とどう心中しようか本気で考えたそうだ。でも、母が入院している間に毎日一つずつ家事を覚えていく私を知って「めぐがここまでできる子になったとは知らなかったわ。少し安心。」と心中の話は流れたそうだ。でもやはり母の中で心配は消えなかったらしく入院中に書いたのだろう。母は涙が止まらない程元気が出ることを書いた素敵なメモを残していってくれた。その中に一つ、私の心を奮い立たせる一言が書いてあった。
「めぐ、ひとりだけど、ひとりぼっちじゃないから!」
その通りだ。毎日一人暮らしは寂しいと言っていた私には大好きな姉がいる。私には笑顔がかわいい友人がいる。私にはいろんな相談にのってくださるデイケアの皆さんがいる。他にも主治医の先生やカウンセラーの先生など。こんなにも多くの人に支えられながら今私は障害と闘っている。こんなにも心強くうれしいことがあろうか。だから負けない。逃げない。正々堂々と病気とそして障害者として自分自身と向き合おう。支えてくださる人たちに恥じぬよう。
そして最後にこれだけは忘れないでほしい。障害者がなんだ。健常者がなんだ。みんな闘いながら生きているのだ。仕事や病気、けが。そして人生とともに。
優秀賞受賞
【小学生区分】◆岐阜県
優(やさ)しさに、ありがとう
美濃加茂(みのかも)市立古井(こび)小学校 六年
西田(にしだ) 江里菜(えりな)
わたしは、生まれたときから、聴覚に障害を持っています。
音が聞こえないのではなく、音が聞こえ過ぎるのです。
他の人には聞こえないような、小さな音も、遠くでする音も、わたしの耳には入ってきます。音によっては大音量に変換されて聞こえてくるので、わたしの脳には負担が大きく、生活をしていてしんどいときもあります。
友達は、わたしにそんな障害があることは知らなかったと思います。音が聞こえ過ぎるなんて、見た目では分からないし、わたしから話したこともなかったから―。
家でも、外でも、いろんな音がしています。
みんなにとっては気にならない音が、わたしには気になります。
学校のお昼休みは、静かな教室で過ごすこともありました。その時間が楽しかったからでしょうか、友達といるときは、不思議と音は気にならなかったです。
一緒に居てくれた友達に、わたしは助けられていたのだと思います。
学校のような、人が集まる場所では、周りと同じに過ごすことを求められる場面もあり、障害を持つ人にとっては悩むこともたくさんあると思います。
そして、社会には、いろいろな情報があふれているゆえに、正しく障害を理解することは、家族であっても難しいです。
わたしの母も、わたしの障害に気付いたとき、どう向き合えば良いのか分からなかったようです。
母が、いっぱい悩んで、いっぱい泣いていたことを、わたしは知っています。そんな母を見て、わたしもまた苦しかったです。
でも母は、わたしの障害から目をそらすことはしませんでした。いつもわたしのそばに居てくれました。
そして、わたしたち家族を、周りの人たちが支えてくれました。
どんなことで困っているのか、どうすれば困り感を和らげることができるのか、一緒に考えて力を貸してくれました。
自分のことを思ってくれる人がいる、それは、わたしにとって、とても心強く嬉しかったです。
たくさんの人の優しさに、ありがとう。
わたしも、出会えた人たちのような、優しい人で在りたいです。
障害への理解が深まり、みんなが過ごしやすい社会になりますように。
【小学生区分】◆大阪市
全国(ぜんこく)ろうあ者(しゃ)大会(たいかい)にさんかして
大阪(おおさか)教育大学附属平野(ひらの)小学校 三年
冨士居(ふじい) 直都(なおと)
ぼくは、六月十日と十一日の二日間、お母さんと、大分けんで開かれた全国ろうあ者大会に行きました。大分空こうに着いたらろう者に「大阪から来たのね。」と、かんげいしてもらいました。会場近くの駅は、ろう者がいっぱいで手話の町に来たみたいでした。ぼくは、かんたんな手話はできるけど、上手ではありません。でも、ろう者とよく会うので、手話が上手にできなくても心と心がつうじることを知っています。
ぼくは、この日、「ちびっこの会」にさんかして紙コップやじしゃくをつかったスピーカーを作りました。スタッフの人は、ちょう者とろう者で、作り方しどうは、しょうがい者がたくさんはたらいている会社から三人、来てくれました。一人目は、足がぼくと同じくらいの長さで車いすをつかっている人、二人目は、耳がほとんど聞こえない人、三人目は、生まれつきうでがひじくらいの長さの人です。ぼくは、うでがひじくらいの長さの人をすごくかわいそうだと思いました。でも、じこしょうかいの時に「かわいそうに見えるけど、かわいそうではないよ。ふべんなこともあるけど、笑顔で元気ですよ。」と教えてくれました。色々なことができて、とても器用な人だと思いました。
夜は、ろう者と一緒におんせんに入りました。おゆにつかりながら手話で話すと、顔におゆがピチャピチャとかかりました。ぼくは、面白くて、おんせんでする手話が大好きになりました。
次の日、黄色のふくをきたちょうどう犬とはじめて会いました。東京から来たろうのおばあちゃんのちょうどう犬でした。ほご犬からちょうどう犬になってかつやくしている話を教えてもらいました。ちょうどう犬の顔はあまえんぼうみたいに見えたけど、すごくかしこくて、音を知らせる仕ごとができてかんどうしました。
もう一つはじめてのことがありました。それは、盲ろうの人と話したことです。手をにぎって手話で「こんにちは」とするとつうじました。「はくしゅ」の手話をしたら、すごくよろこんでくれました。
ぼくは、手話でたくさんおしゃべりができないけど、心を大切にしたらつうじるので、うれしいなぁと思いました。
大分けんからもどって、全国ろうあ者大会でとったしゃしんをたんにんの島本先生にタブレットで送りました。先生は、へんじをくれました。「直都さん、大分に行った時のしゃしんをありがとう。色々と学んでいることがうかがえました。すばらしいですね。よかったらしゃしんをもとに、みんなにお話ししてみたらどうですか。」と書いてありました。ぼくは、いっぱい話したいことがあったので、はっぴょうしました。友だちは、しつもんをしたり、かんそうを言ってくれました。友だちが、いろいろなしょうがいを知ったら、みんながたすけ合える世界になれると思うので、先生がはっぴょうをさせてくれてうれしかったです。
ふべんな思いをしている人をたすけ合う世界になったらしあわせになれると思うので、みんながしょうがいをたくさん知って、しょうがいのある人を守れるほうほうを考えたら、もっとくらしやすくなると思います。全国ろうあ者大会に行ってよかったです。らい年は和歌山けんで開かれるのでたのしみにしています。
【小学生区分】◆静岡市
大(だい)ちゃんの薬(くすり)
静岡(しずおか)市立清水(しみず)小学校 四年
村松(むらまつ) 亜美(あみ)
大ちゃんを見るたびに、私は、何かいい薬はないのかな、大人になるまでに薬ができるといいのになと思う。今日も大ちゃんが首に機関車のキャラクターの絵のついたケースをかけ、お気に入りのベルが入っていた箱を指さし、母に、「ベル」と聞こえる発音で、「ベル、ベル、ベル、…。」と言い続けていた。
ここ何週間かの大ちゃんのルーティンだ。こわしてしまったからまた買ってほしいのか、これはベルだと教えたいのか、大ちゃんの言いたいことは家族にもわからないことが多い。
大ちゃんは、私の二才上の兄だ。まだ十分に言葉を話すことができないこともあり、特別支えん学校に通っている。よい悪いがわからず、学校では友達にかみつくこともあるようだ。家でも、テレビやパソコンをこわしてしまうし、家中のかべにクレヨンで落書きすることもある。私のランドセルのベルトをはさみで切ってしまったこともあった。そんな大ちゃんだから、私の方が妹だけれど、大ちゃんのことが気がかりでしかたがない。
「大ちゃんって、ずっとこのままなのかな。」
と、いつか私が言ったら、祖母が、
「大ちゃんも、ずい分成長しているんだよ。」
と言って、小さいころの大ちゃんの様子を話してくれた。そう言えば、大ちゃんはよくヒーターにティッシュをつめこんだり、水たまりにねころんでどろだらけになったりしていたけど、このごろはそんなことはしていない。トイレも着がえも一人でできるし、お風呂やふとんに入る時間もわかっている。楽しみがある日はカレンダーに印をつけている。ひと言で通じることも多くなった。そうか、ゆっくりかもしれないけれど、大ちゃんもしっかり成長しているんだと、うれしくなった。
この間、親せきの人が集まった時、母が、「できるかな。」と言いながら、「二かいにいるお姉ちゃんをよんできて。」と大ちゃんにたのんだことがあった。みんなが見守る中、大ちゃんの後ろから中学生の姉が下りて来て、一同はく手。でも、みんな、しゃべれない大ちゃんがどんな風によんできたのか不思議だった。姉に聞くと、大ちゃんの目や体の動きが用事もなく部屋に入ってくる時とちがったから、何か用事があるのかなと思った、ということだった。「すごい、ゆいちゃん。」とみんなは、またはく手。
大ちゃんも姉もわらっていた。そうだ。確かに、大ちゃんの表じょうや動きには声にならない言葉がある。私にもその言葉がわかる時がある。この大ちゃんの言葉は、大ちゃんの身近にいる人にしかわからないかもしれない。でも、反対に考えれば、身近にいて、しっかり表じょうや動きを見ていてあげれば、大ちゃんの言葉は声が出ていなくても伝わるということになる。
姉の話を聞き、私は「薬」を見つけたぞ!と思った。姉がとった行動のように、「身近な人が大ちゃんの声なき言葉を聞こうという気持ちで大ちゃんにかかわっていくこと」、それが、大ちゃんの成長への一番の薬なんだ。
【中学生区分】◆埼玉県
優(やさ)しさの連鎖(れんさ)
坂戸(さかど)市立若宮(わかみや)中学校 一年
小島(こじま) さら
私には姉がいます。姉は重度の知的障害と発達障害がある障害児です。私が幼稚園の頃母に「障害があってもなくても同じ人間。私は○○が姉でよかった。」と伝えたそうです。その時なぜその言葉が自分からでたのか覚えていません。今は部屋を散らかしても片付けられない、おむつも交換してあげなくてはいけない姉を大変だなと思うことも正直あります。人懐っこい姉はどこにいっても知らない人に近づいていっては人には伝わらない言葉で話しかけてしまいます。その様子をみて周りの人はどう思うか心配でした。でも、姉が話しかけたりハグをすると一瞬戸惑う人もいますが笑顔で返してくれる人がいっぱいでした。姉は人と笑顔にする力があるんだなと思いました。
私が体験したエピソードを紹介させてください。もう今から九年も前の話です。母の実家のある静岡から東名自動車道を使って埼玉まで帰えろうとしたその日は、途中から雪が降り始め御殿場を過ぎる辺りになると雪が激しくなり視界も悪くなってきました。雪用のタイヤを装着していなかった私達の車は、鮎沢パーキングエリアまでたどりつくのがやっとでそのまま立ち往生してしまいました。パーキングのレストランで母と姉と三人で食事をとりにいきました。車の中でねるのはかわいそうだと思った母は、レストランのすみっこでやすませてもらえないかと店長さんに相談しに行きました。そんな相談をしている間に姉は席から離れ、近くで食事をしていた作業服のおじさん達に声をかけてしまったのです。姉は意見のある言葉をあまりしゃべることができないのでただニコニコしているだけでした。そのおじさん達は除雪作業員の方たちでこれから駐車場の除雪の仕事があるのだと言って作業に戻っていきました。夜も8時過ぎ、雪はまだ降り続いていました。そろそろ寝る準備をしようとしてるとトイレの清掃のおばさんが声をかけてきました。「こんな所じゃ寝られないよ。おばさんたちの休憩所があるからそこへおいで。あんた達が寝る場所に困っているのを心配してレストランのお兄さんがおばさんに相談してくれたんだよ。」と。パーキングエリアは室内とはいえ人の出入りもあり寒い。私たちを連れて母の困った様子を気にかけてくれたのです。私達は清掃のおばさんの小さな休憩室の温かいこたつに入り一晩を過ごすことができたのです。初めての場所でなかなか眠れない姉をおばさんは優しくトントンし寝かしてくれました。やさしさの連鎖は次の日も続きました。一晩中除雪作業をしていたおじさんが私たちの車の屋根やガラスに積もった雪まできれいにおろしてくれて、途中でガソリンがなくなったら心配だからと除雪車に使うガソリンを少し分けてくれたという話も母から聞きました。使かわなくなったタイヤのチェーンまでもゆずってくれたそうです。母は何度も深く頭を下げてお礼を言っていました。私と姉はおじさんに抱きつきました。仕事を終えて帰えろうとしていたおじさんに「まだ帰っちゃいやだ。」とわがままを言っていたそうです。おじさんの両肩に私と姉を抱きかかえて撮ってもらった写真は今も母の携帯に残っています。その様子を見たおばさんが「あんた達は運がいいよ。こうやって助けてもらえたことはありがたい事だね。今日の事に感謝して自分もいろんな人を助けてあげるんだよ。人は助け合って生きていくんだよ。」と教えてくれました。実はこの後もたくさんの方に助けていただき無事に家に帰ることができたのです。
姉の行動がキッカケに心がつながり、やさしさの連鎖になりました。姉はこれからも笑顔で多くの人を幸せにしてくれるんだろうなと思いました。姉の笑顔は人をやさしい気持ちにさせてくれる。私は○○が姉で本当に良かったと思うしとても幸せです。姉にやさしくし、助けてくれる方たちに心から感謝したいと思います。そして私も感謝を忘れず、困っている人を助けてあげられるやさしさと、声をかける勇気を持ちたいと思います。いつか自分の好きなこと得意なことを見つけ人を、幸せにできる人になりたいと思いました。
【中学生区分】◆香川県
僕(ぼく)の未来(みらい)を変(か)えていく
高松(たかまつ)市立山田(やまだ)中学校 二年
坂本(さかもと) 篤宣(あつのぶ)
僕は進行性の病気の影響で車椅子に乗って生活しています。また、体も徐々に動かしにくくなり、できないことが増えてきました。
そんな僕の学校生活を支えてくれるのが友達や先生です。その中でも、特に関わることが多く、気軽に頼りやすい同学年の友達は、僕が困っていると自然に助けてくれます。しかし、助けるとき以外は、同級生として、変な遠慮なく対等に接してくれます。
ある授業での班活動のときのことです。みんなで神経衰弱をすることになりました。しかし、教室内での広範囲の移動は車椅子では難しいため、移動する方法を考えていました。すると、カードを置く場所を僕の机の上に変えてくれて、無理なく楽しく活動することができました。
また、今年の運動会前に僕は全員リレーで走りたいと担任の先生に伝えました。すると、昼休みに担任の先生を中心に、各クラスの体育委員や足の速い友達が協力してくれて、足で走る速さと車椅子で走る速さを比較して有利にも不利にもならない丁度いいスタート位置を見つけることができました。
このように病気だからできないと勝手に考える人より、小さなことも協力的に考えてくれる人がいることで世界が少しずつ明るい方向に変わっていき、いろいろな立場の人が尊重されるのではないでしょうか。
ただ、病気の僕が親切から感じることはこれだけではありません。僕は、親切な友達に疑問を感じることがあります。
小学校高学年の頃から、本格的な電動車椅子を使うようになり友達から助けてもらえても、自分は助けられないので、なぜこんなに親切にしてくれるのだろうという疑問を感じ始めたのです。中学生になると、助けてもらうことも小学生のときより増えました。それでも友達の対応はあまり変わりませんでした。だから、本当は仕方なく助けてくれているのではないかと考えることがあります。絶対にそんなはずないと否定したいのに、考えたくない想像が脳裏に浮かんできます。そして、助けてもらえた感謝と親切を信じきれない弱い自分への嫌悪感で複雑な気持ちになってしまいます。
それでも、僕とずっと友達でいてくれたなら、僕がもっと自信を持てたなら、いつか心の底から感謝できる日が来ると自分を信じています。実際に、僕が希望を見失いかけたときでも、ここで諦めたら、親切にしてくれた人達が悲しむかもしれないと考え、希望を取り戻したことは幾度となくあるからです。
きっと遠くない未来では、今の友達が助けてくれたことに心の底から感謝できていると強く思います。また、僕も親切をできる限り返したいです。そのために、いろいろなことを勉強して、直接でなくても、人や世界を助けられるような知識を身につけておきたいと思います。人生が急に終わっても、後悔しないように今を大切に生きていくと心に誓います。
過去も、今も、未来も、支えてくれて本当にありがとう。
【中学生区分】◆さいたま市
僕(ぼく)のこれからの宣言書(せんげんしょ)
さいたま市立大宮東(おおみやひがし)中学校 二年
田中(たなか) ことみ
僕は今、中学2年生。小さい頃に自閉症と場面緘黙症だとお医者さんに告げられた。でも、その事実を知ったの最近で、2年くらい前のこと。小学校は通常学級で、障害がない子たちと小学校を共に過ごした。
楽しい小学校生活。でも、健常の子たちのなかで、自分だけ障害があって、障害告知をされていなかった当時でも、明らかに自分だけ違うというのは感じていた。みんなにとっては当たり前で、難なくこなせることが、僕にはすごく難しかった。あいさつも、会話も、ずっと座っていることも、勉強も、先生の話を理解することも。とにかく当たり前ができなかった。できないことが多すぎて、よく怒られた。
「なんでこんなこともできないの?」
と先生は怒鳴る。
「ちゃんとやって!」
とクラスメイトは呆れたように言う。
「どうして僕だけできないの」
と自分を責めて、
「自分は出来損ないなんだ」
とあきらめに近いような気持ちを持った。それでも、もっと頑張れば普通になれるかもと思って、僕は日々、精一杯努力した。苦手な会話を積極的にして、普通に喋る訓練をしたり、先生の話を一生懸命聞いて、勉強を頑張ったり、些細なことも一つ一つ頑張って、人並みには色んなことができるようになって、怒られることも減った。
僕がどれだけ頑張ったか。たくさん、たくさん頑張ったから、ここに全ては書ききれないけど、とにかく当時は、すごく必死になって普通というものに近づこうとした。なんでそこまで普通にこだわる必要があったのかと、今になれば少し思う。そう思うのは、普通に近づけば近づくほど、心が削れていくことに気づいたからだ。障害がある人が努力で健常の人になるなんて、不可能なんだ。必死になって無理をして、普通になることに夢中になりすぎて、僕は自分が崩れていくことに気づけなかった。それからはもう、色んなことがあった。学校を行き渋ったり、自分を傷つけたり、八つ当たりをしたり、暴れたり、障害のことだけじゃなくて色んな苦しい出来事やストレスが重なって入院もした。そのときは自分というものがわからなくなっていた。本当は喋らないで無表情なのが自分だったはずなのに、無理やり喋って表情を作った。ただ、普通になりたかった。健常の子たちみたいになりたかった。怒られたり、嫌がらせをされるのがイヤだった。でも、そんな苦しくて大変な思いをしてまで努力をするのは、自分のためにはなっていないから、本末転倒だと気づいた。無理な努力をしないで、必要な努力だけして、自分らしくいることが、自分にとってこの上ない幸せなのではないかと、今の僕は思う。
そして中学校に進学するとき、僕はあえて小学校の同級生がいない、少し遠いところにある公立の中学校に進学することに決めた。そしてその中学校では、特別支援学級に在籍することにした。自分らしく生きる選択を自分でしたわけだ。僕にとっては、大きな決断だった。今は色々あって中学校には行けていないけど、その決断に後悔はない。反対に、その決断をしてよかったと思っている。今は、頑張りすぎないように、自分らしさを取り戻すために、無理に会話をしないで、自分を落ち着かせる自己刺激行動をして、大好きな創作をして、楽しく過ごしている。
障害を鬱陶しいイヤな存在だと思うんじゃなくて、「障害があってよかった」と少しずつ思い始めている自分が誇らしい。自分が抱えている障害について、「努力で治せ」なんて言う人もいるけど、そんなこと言う人のことは気にせずに、自分を理解してくれて、障害があることをわかってくれた上で優しく接してくれる人との関わりを大切にしたいと思った。最後に、僕はこの治らない障害と共に人生を歩んでいくと思うけど、障害があることを隠さずに、障害の特性を無理な努力でなくそうとせずに、自分らしく生きることをここに宣言する。
【高校生区分】◆さいたま市
知(し)ることから
開智(かいち)高等学校 三年
青野(あおの) めぐみ
二〇二二年十二月十七日。十五年と四箇月という人生に突如、別れを告げ、妹は一人旅立っていった。
私には二つ、年の離れた妹がいた。先天性の全前脳胞症という病気を持って生まれ、身体と知的の両方に障害があった。医師からは「三歳が山場だろう。ある日、気付いたら、お母さんの隣で冷たくなっているかもしれない。」
と言われたそうだ。
私は妹が大好きだった。家族の中で一番多くの時間を共にした。誰よりも悩みを聞いてくれて、そばにいてくれた。たとえ障害のせいで立つ、座る、話す、食事を摂るなどの動作を一人で行うことができず、日常生活の全てに支援が必要であっても、私にとっては可愛い存在で、妹が自分の兄弟であることを不便に思ったことはなかった。
それゆえに、スーパーマーケットなどで知らない人から好奇の目で見られたり、学校で障害児のことを「害児」と呼んで侮辱したり、「障害者の生きる価値ってなに。喋れないのに、理解しているのかも分からないのに、話しかけるとか、教育受けさせるとか金の無駄だろ。家族が可哀想、不幸だ。」
などという社会の人からの言葉を耳にすると、無性に腹が立った。なぜ、障害があるというだけで、このような対応をされるのかと。これに対する答えを探す中で「障害というものを知らないから」ではないだろうかという思いが浮かんだ。障害というものを本当には知らないことが、障害者は変な人で、自分たち健常者と違う怖い人、危害を加えてくる人という固定された、勝手なイメージを作り出してしまうのだと私は思うのだ。
障害というものを知ってもらうために、私が妹と共に生活した中で、気付き、学んだことを二つ挙げる。まず初めに、妹が十五年もの時間を生きた理由である。最初、医師からは三年の命かもしれないと言われたが、実際はその何倍もの時間を生きた。こんなにも長く生きられたのは、妹が明日への希望を持ち続けたからだと私は思う。希望などという立派なものでなくても良い。ただ明日への意識を向けること。明日は何をしよう、どんないたずらを仕掛けよう、楽しみな授業と給食があるなどの、日常の些細なこと、くだらないこと、何でも良いのだ。少しでも明日への意識を向けた時から、明日は始まる。それの積み重ねが彼女の明日を拓き続けた。
次に、意志の強さである。私たちが練習や体験を通して、できるようになることが、妹にはできなかった。たとえ本人が望んでも、何度挑戦しても、自力で日常動作を一人で行うことは、彼女の持つ機能ではできなかった。なぜなら、それが障害というものだからだ。しかし、彼女はできる機能を持つ動作については、意識的にできるように変えていた。自力での移動の際は蒲伏前進のような方法を採っていたが幼い頃は動きもゆっくりで、距離感のコントロールも上手くいかず、壁にぶつかり、泣き出すこともしばしばあった。しかし年齢が上がるにつれて、力こぶができるほどに腕の筋肉が付き、本人の意志で行きたい方向へ、とても速いスピードで移動できるようになっていった。また言語に関しても、いつの間にか全てを理解するようになり、兄弟喧嘩に参入してくるほどであった。彼女がここまで成長したのは、兄弟にいたずらをしたい、会話に混ざりたいと強く思い、それを実行し続けたからなのだと、私は思う。たとえ障害があっても、着実に成長し、できることを増やした。
障害者本人やその家族、関係者でない限り、障害について知らないことが多いのは、仕方がないことだろう。だからこそ、健常者にも「障害」というものを知って欲しい。どんな障害なのか、何が得意で、何が不得意なのか、障害者本人がどんな性格なのか。見た目の一瞬で判断したり、「障害」という言葉で、ひとまとめにしないで 個性を見て欲しい。
偏見を減らすことで、世の中の人から見た障害と、兄弟や家族から見た障害との差に苦しむことが少しでも無くなって欲しい。そして家族に障害者を持つ子どもが、自分の兄弟について気兼ねなく話せる環境ができて欲しい。
【高校生区分】◆鳥取県
未来(みらい)を拓(ひら)く
鳥取(とっとり)県立鳥取(とっとり)聾学校高等部 三年
鯉口(こいぐち) 悠生(はるき)
あれは、私が小学校五年生の時のことだった。母、妹二人の家族四人が和室で寝ようとしていた時、急に皆が起き上がり、楽しそうに話し始めた。その様子は、これまで見たことのないような楽しそうなものだった。私は母親に、で「何があったの。」と口話とキューサインで尋ねた。すると母親は、「ふくろうの鳴き声がするんだよ。」とキューサインで教えてくれた。
「そうか。ふくろうが鳴いていたのか。」と納得した。当時の私は、生き物に興味を持っていたので、ふくろうはどんな鳴き方をするのか、とても興味を持った。そして、その声を私だけが聴けず、話題に入っていけなかったことを悲しく思った。「なんで僕だけが…」そんな思いが極まり、私は一人泣いたのだった。
私は、幼少期に「先天性感音性難聴」と診断され、鳥取聾学校の教育相談に通うことになった。
その後、鳥取聾学校幼稚部に入学し、補聴器を装用しながら、発音・発語や聴き取りなど、人とコミュニケーションするための学習に取り組むことになった。
しかし、年中組の頃から右耳の聴力が急激に低下し、とうとう親しい人の声さえも聴き取りづらくなってしまった。その頃は、「聴くこと」が楽しくなっていた頃だったので、聴こえる世界が遠のく中、私は毎日イライラしながら過ごしていた。
そこで私は聴こえる世界を求めて、右耳の人工内耳装着手術をすることに決めた。手術後は、リハビリテーションの効果もあり、私の右耳はとてもよく聴こえるようになった。
しかし、喜びも束の間、今度は左耳と右耳との聴力や音質のギャップに苦しむようになり、左耳も人工内耳装着手術をすることにした。このことで、私の聴こえは、格段に向上した。
冒頭のふくろうに関する出来事は、人工内耳を装用することが日常になったある夜のことである。つまり、私が就寝前に人工内耳のスピーチプロセッサーを外した時のことだった。
この出来事をきっかけに私は、人工内耳を装用している自分と人工内耳を装用していない自分との二者を意識するようになった。別の言い方をすれば、将来自分は「聴こえる人」として生きるのか、「聴こえない人」として生きるのか、不安を感じながら生きていた。振り返れば、当時の私は「聴こえる人」と「聴こえない人」のどちらに属するか、そればかりをただ漠然と考え続けていた。
そんな私も、現在、鳥取聾学校高等部三年生になった。進学に向けての準備をしながらも、休日は、様々な地域活動に参加している。
一つは、地域の手話教室の講師である。小学生から高齢の方までおよそ三十名の方に手話を伝えている。皆さんに楽しんでいただけるように、手話の成り立ち、手話歌、連想ゲームなどを取り入れるなど、試行錯誤しながら取り組んでいる。
また、月に一度地域の事業所が開催するイベントに「手話歌パフォーマー」として参加している。
さらには、月に一度、ある企業のスペースをお借りし、「手話カフェ」の活動も行っている。ここでは手話での注文、手話歌の披露、簡単な手話紹介などを行っている。
なぜ、私がこのような活動をするのか。その理由は、私自身が障がいと向き合い、様々な活動を行うことで自信を得、更なる挑戦ができる人間になれると思うからだ。
また、鳥取聾学校という特別支援学校で生活の大半を過ごしているため、社会との繋がりを持ち、広い視野を得たいということも理由の一つだ。
さらに、手話に関する活動に取り組むことで、聴覚障がいや手話についての理解が深まり、「聴こえる人」と「聴こえない人」が共生する社会の実現に寄与できるということもその理由の一つである。
私は将来、大学に進学し「地域学」を学びたいと考えている。私自身の経験から、私は、「聴こえる人」と「聴こえない人」との両者の心情に寄り添えるのではないかと考えている。
私の夢は、人々が障がいの有無に関わらず共に歩み未来を拓く、その社会づくりに貢献することだ。この夢が実現できるよう、日々、自らの力を高めていきたい。
【高校生区分】◆兵庫県
「すべての人(ひと)」に安心(あんしん)と楽(たの)しみを
兵庫(ひょうご)県立日高(ひだか)高等学校 三年
中田(なかた) 彩姫(あき)
みなさんは、ユニバーサルツーリズムという言葉を知っていますか。ユニバーサルツーリズムとは、すべての人が楽しめるように創られた旅行であり、高齢や障害等の有無に関わらず、誰もが気兼ねなく参加出来る旅行を目指したものです。
私は今年三月、視覚障害者の方とその家族が集う会にボランティアとして参加しました。その会は、地域の眼科で行われ、地域で暮らす視覚障害者の方とその家族が交流し、意見交換をしたり、悩みを相談したりする会です。そこには、弱視から全盲まで様々な視覚障害を持つ方がおられました。私は視覚障害について、授業で習うような基礎知識しかなく、病気や支援方法は少し分かっていましたが、当事者の方の内なる思いやニーズなどは知りませんでした。だからこそ、このボランティアに参加して視覚障害について、もっと多様な視点で学びたいと思ったのです。
参加された視覚障害者の方は全部で十五人程度であり、三つのグループに分かれ、冒頭で述べたユニバーサルツーリズムをテーマに意見交換が行われました。私も一つのグループに参加させていただき、当事者である視覚障害者の方から地域で暮らす中でどのようなところに困っているのかや、もっとこうなれば良いのにというニーズについて聞きました。
討論の中で「駅の無人化」について話題が挙がりました。田舎の方では今年に入ってから駅の無人化が進んできており、駅には駅員さんがいません。これはICカード乗車券の普及や鉄道事業者側の経費削減という都合によるものだと考えられますが、田舎の駅には都会の駅のように、音声による駅構内の案内や点字での案内パネルなどが十分に普及されておらず、却ってバリアを生み出してしまっているのです。
ある一人の男性は「駅員さんはいないし、音声案内もないから切符を買う場所が分からない。一人の時や初めて行く場所ならなおさらだ。」と言いました。その方は、既に運転免許を返納しており、外出時の移動は公共交通機関を利用しています。移動の安全や安心が保障されていないとなると、かなり不安だと思います。私たちも視点を変えてみると、普段利用する駅では無人化になったとしても、不自由なく利用出来るかもしれませんが、初めて行く駅ではどこに何があるか分からず困ってしまいます。このように、駅の無人化に伴い不便になってしまった人がいるのが現状です。
また、他の女性は「昔、宿泊先を探している時に視覚障害であることを伝えたら宿泊を断られた。」と言っていました。なぜ断られてしまったのかその女性は「もし、宿泊中に避難を要する状況になった場合、視覚障害者の方を手引き出来る従業員がいないのではないか。視覚障害者の方に適切な支援が出来る従業員がいないのではないか。」と考えました。私はそれを聞いて、駅の無人化や障害者の方の宿泊を断ることが、ユニバーサルツーリズムを推奨している国による適切な対応なのかと疑問を抱きました。全ての駅や宿泊施設がそうとは限りませんが、このようなケースも実際にあったということに変わりはありません。旅行において、移動や宿泊は欠かせないものです。「すべての人」が楽しめる旅行にするためには、もっと視野を広げて考えなければいけないと思います。例えば、駅の無人化については、無人化が進んでいますが最低でも一人は駅に配置しておいたり、宿泊施設については、視覚障害者の方を手引き出来る従業員を研修などを経て養成しておくなど、視覚障害だけに限らず、様々な障害や疾病を持つ方に適切な対応が出来るようにしておく必要があると思います。ですが、駅や宿泊施設だけが取り組むのではなく、一緒に利用している私たちも取り組むべきです。もし、視覚障害者の方が駅員さんがいなくて困っているのであれば、宿泊先で困っているのであれば、周りにいる私たちが手を差し伸べれば良いのではないでしょうか。全てのことを駅や宿泊施設に任せっきりにするのではなく、私たち利用者も「すべての人」が楽しめるようにするために、協力すれば良いのではないでしょうか。だからこそ知る必要があるのです。私たちから視覚障害について学ぶことが必要です。「視覚障害のことなんて分からないから無理だ。」と目を背けて逃げていては、いつまで経ってもユニバーサルツーリズムは実現されないと思います。ある宿泊先では断られてしまったが、別の宿泊先では手引き案内やサポートが手厚く、安心して利用出来たなど場所によってもサービスのばらつきがあるようです。「すべての人」が楽しめるように、安心出来るように、根本的な対応や支援は統一しておくべきだとも思います。
今年五月、新型コロナウイルスが五類へと引き下げられ、旅行をする人が増えたのではないでしょうか。視覚障害者の方に耳を傾け、ニーズに応えることが出来れば、旅行を心から楽しむことができ、ユニバーサルツーリズムもより実現に近づくのではないかと思います。私はこのボランティアに参加して、視覚障害者の方の内なる声を聞き、日常生活上での思いを初めて知ることが出来ました。例に挙げた駅の無人化や宿泊に関することは、私も気づかなかったので、自分自身ももっと視野を広げないといけないと思いました。
私たちは視覚障害者の本当の気持ちは分からないかもしれませんが、相手の立場になって考えることは出来ます。今後、旅行だけに限らずとも「すべての人」が心から安心して暮らせるように、困っている人を見かけたら勇気と自信を持って「何かお手伝いしましょうか。」と声が掛けられるように、視覚障害やその他の障害についてもっと知り、そして学び、行動に移せる人になりたいです。
【一般区分】◆北海道
自己発信(じこはっしん) 〜相互理解(そうごりかい)のために〜
大代(おおしろ) 祥也(しょうや)
「手足が不自由でも、みんなと同じように勉強がしたい」
中学三年生の進路相談の時、私はその思いで地元の高校への入学を決めた。社会人になった今でも、あの時の選択は後悔していないと胸を張って言える。
入学前のオリエンテーションの日、帰りの玄関で早速いじめに遭った。私を見た彼らが、
「お前、成績Gクラスでしょ?バイバイ、G君」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。後になって、『障がい者=成績が悪い』という目で見られ、馬鹿にされたのだと気づいた。時間が経つほどに、怒りが込みあがってきた。障がい者は周りからいじめられるのが普通なのか。地元の高校を選んだのは間違いだったのか。何も悪くないのに、自分を責めてしまっていた。
一年生のクラスは四階にある。当然、階段を上り下りしなければならない日々が続いた。幸い手すりはあったが、それでもかなり厳しかった。特に、体育の授業や移動教室が続く日は体の疲労も溜まった。宿泊学習は足の不調からドクターストップがかかり断念せざるを得なかった。成績は学年全体の真ん中をキープできていたのだが、体がどうしても追いつかず、一年生の後半は保健室で休ませてもらうことがほとんどだった。
結局、一年間でその高校を辞めることになった。最後の登校日、クラスメイト全員から手紙をもらった。正直、驚いた。その中には、
「高校は離れてもずっと友達でいようね」
「クラスで最初に私に話しかけてくれてありがとう」
「正直、最初はどう接していいかわからなかったけど、出会えて良かったよ」
など、それぞれの思いが綴られていた。クラスの一員として、みんなが認めてくれていたことが分かり涙がれた。とても嬉しかった。
その後、転入先で二年の高校生活を終え、無事高校を卒業することができた。
そんな私も、現在は社会人になって九年目になっている。数回異動を経験しているうちに、もうこれだけの年数が経っていた。業務は一般事務を担当しているが、手足が不自由なために、学生時代の時には無かった苦労をする場面が増えてきている。文字を書くのに時間がかかる、車椅子で移動すると執務スペース上どうしても通れない場所があるなど、今まで考えてもいなかった壁に当たっている。
しかし、僅かながらもその部署ごとに助けてくれる仲間がいる。重たい書類を持ってくれたり、私の代わりに外勤に行ってくれたこともあった。いくら感謝しても足りないくらい、ありがたい気持ちになる。ただ、それと同時に、どこかぶつけようのない『申し訳ない』という気持ちがでてきてしまう。自分ができないことを人に頼むという行為自体は何も問題はないはずだ。しかし、どうしても頼みづらい時もある。
「できないことは周りに頼めば助けてくれるから大丈夫」
私が今まで経験した全ての部署で、先輩から言われてきた言葉である。本当にそうだろうか。私は正直、この言葉を未だ信用できていない。助けてほしい状況で周りに必ず誰かがいるとは限らないし、頼んだからといって必ずしも助けてくれるとも限らない。自分から行動して覚えていかなければならないことは今後においてもたくさんあるし、『障がいがある』という理由だけで自分の立場が下に見られてしまうのは悔しい。しかし、身体の都合上どうしても難しいこともやはり存在する。
信用できていないこの言葉を、ここ数年で自分なりに理解し始めている。周りに頼むということは、自分から発信するということなのではないだろうか。自分ができること、できないことを自分から伝えていかなければ、周りの人の理解は得られない。自分から伝えること、話すことはコミュニケーションの一環であり、私は最近になって自己発信が苦手なことに気づかされた。自分が生まれてから二十七年間、たくさんの人に支えられてきた。もちろん、いじめられたことや、どうしてもうまくいかなかったこともあったが、学校の先生方や友達、職場の仲間など、その力は今の私の支えになっている。前の部署の送迎会で、私のもとに係の同僚全員がお礼を言いに来てくれた。私は当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったということに初めて気づいた。仲間が近くにいたという何よりも大切な事実に今まで気づかなかった自分を悔やんだ。
『障害者差別解消法』が平成二十五年に制定されてから十年が経過した。差別解消が進んでいくためにはお互いを理解する『相互理解』が不可欠であると私は考える。理解しあうためには、まず自分から周りに伝えていく『自己発信』が大切であると感じる。
「まず、仲間を作りなさい」
前の部署の上司が私に最後に伝えてくれた言葉である。これからも、自分の気持ちを仲間に伝え、円滑なコミュニケーションを図っていきたい。そして近い将来、障害のある人もない人もともに助け合って暮らせる世の中になっていることを切に願っている。
【一般区分】◆岩手県
一粒(ひとつぶ)の光(ひかり)
北條(ほうじょう) 乃愛(のあ)
私が中学校一年生のとき、いじめにあった。男子が数人で私の悪口を言っていたのだ。私にきこえるような声で、私の友人にささやいている。臭い・風呂入っていないそんな言葉をささやき続ける。「ちがう。そんなことない。ちゃんとお風呂入っているよ。」そんな言葉が浮かんできた。でも届かない。ちがうよと否定したいのに言えない。苦しい。辛い。悲しい。どんどんおかしくなっていく自分を止められなかった。
それから、月日が流れ、中学2年生の冬、私は、自己免疫性脳炎と呼ばれる、難病を、患った。病気のせいで記憶があいまいだが、あらゆるくだをぬいて、あばれてばかりだったと言う。家族みんな絶望していた。家族にめいわくばかりかけてしまう自分が許せなかった。合併症で、自閉スペクトラム症と双極性障害を併発してしまった。
私は思った。「どうして私だけこんな思いをしなければいけないの?」この先の人生に絶望した。
けれど、私には、生きる意味があった。それは「家族をおいて行けない」と言う強い思いがあったからだ。苦しくて辛い中でもこの思いが私を支えた。人を信じることが出来なくなっていた私のたった一粒の光。
私は、どんなことがあっても家族が大好きだった。その気持ちは、家族も同じだったようだ。私の事を心から愛し必要としてくれる家族は、私の一つの居場所だった。それでも分り合うことは、難しかった。分かってもらえないことは、どんな苦しみより辛かった。
自分の弱さと、めんどくさい性格をいつもにくんでいた。多少のことですぐ不安になりイラついたり、怒ってしまう自分が心底大嫌いだった。
そんな私を、家族は、ただ純粋に愛してくれた。ただただそのことがうれしくて涙が、出た。家族は、私の病気を理解しようと行動に移していた。医師から説明をききじっせんしようとしてくれていた。
私のために、理解するための努力をしてくれていたのだ。なんとかしようとしてくれていることが伝わってきて、うれしくてなきそうになってしまった。
このままではダメだ。そう思った。家族がこんなにがんばってくれているのに、私は何もしないままでいいのかと自分に問う。少しでも変わりたい。そう思った。自分のためだけではなく、家族のためにも。
私は、まだ何の努力もしていないではないかと自分を見つめ直した。家族のためにも変わりたい。愛する家族と笑ってすごしたい。
ただ一つの願いだった。あの頃のように、笑ってすごしたい。自分の中にあった“何か”をやぶれた気がした。
それから私は、自分に出来ることを、見つけて乗り超えていく努力をした。
中学生の頃のイジメから学んだこと、自己免疫性脳炎になったことで学んだこと、家族からもらった優しさ、全部全部大切な経験として私の中で光っていた。
私は、思った。全て大切な私の人生なんだと。辛いことも多かったけど、その中で、小さな幸せを感じていたんだと。
私の一つの居場所は、私に大きな“何か”をあたえてくれたと強く思った。
私の大切な宝物。それは家族というかけがえのないもの。
私は、家族にもらった沢山の恩を、またどこかで苦しんでいる人に恩送りをしたい。
私は今、がんを患っているおじのかいごの手伝いをしている。
自分にできることを手伝い、家族から受けた恩を、おじに恩送りしている。精神疾患はなおることはない。でも上手につき合いながら自分の人生を少しでも笑顔で溢れるようにして行きたいと思うのです。
【一般区分】◆大阪府
人生(じんせい)の宝箱(たからばこ)
吉冨(よしとみ) 一博(かずひろ)
今この文章は、ベッドの上で書いている。
うつ伏せの状態で、自由の利く左手の中指で、パソコンを使って書いている。
なぜなら僕は身体に障がいがあるために全てにおいて介助が必要だからである。
言語障がいもあり、僕の言葉を聞き取ってもらえないこともよくある。
ある日、ヘルパーさんと近くの公園に行ったところ、知人からカフェを営んでいる人を紹介してもらった。
店に行ってみると音楽や笑顔で溢れていた。何度か行くうちに、色んなことを相談できる仲になり友達になった。また一緒に楽器で演奏ができるようになった。出会って良かったと思う。友情の宝物をゲット!
ある日、ヘルパーさんと商店街に行ったら「歌声喫茶」と書いていたので入ってみた。
ギターを弾いている人たちが歌謡曲などを歌っていた。ほかのお客さんたちも、演奏に合わせて合唱していたので、楽しそうと思った。懐かしのテレビ番組とかで観たことはあったけど、まさか僕の人生で行くことになると思っていなかっただけに新鮮だ。
僕が好きな歌手の曲をリクエストすると歌ってくれて、一緒に歌っている。歌声喫茶に行くことが、月一回の楽しみになった。
その人たちと出会って友達になれたことが、嬉しい。合唱の楽しさに、唱の宝物をゲット!
ある日、ヘルパーさんと近くの病院へ検査しに行くと、病気が見つかって、総合病院に行くことになった。初めて会う先生にドキドキしていた。「どんな先生かな?」と不安だった。
呼ばれて診察室に入ったら、優しそうな印象で安心した。
手術をすることになった。入院することも初めてだったが、ヘルパーさんが付き添ってくれたり、周りの人に助けてもらって。不安が和らいだ。
健康の有り難さに出会えたことは、命の宝物ゲット!
ある日、ヘルパーさんと商店街の祭りに行ったとき、段差が多い場所で、助けてもらわないと行けないところがある。
ヘルパーさんと困っていると、知らない人が、「抱えましょうか」と、声をかけてくれて周りを見渡して、道行く人に声をかけてくれた。
集まってくれた人たちと車椅子を抱えて段差を上げてくれた。とても温かい気持ちになった。親切な気持ちのゲット!
ある日、ヘルパーさんと、アイスクリーム屋さんに行くと、入ろうと思ったら、ヘルパーさんがドアを開けようとしたが、ドアのところで僕が待っていたところ、中で椅子に座って美味しそうに食べている女子高生ぐらいの人が、ドアのところに飛んで来てくれて、ごく自然にドアを開けてサッと戻っていった。
気遣いに、温まることだった。自然な心遣いの宝をゲット。
ある日、障がいがあっても海や自然を楽しむことを、たくさんの方々に体験して欲しいという想いのある、スキューバダイビングのインストラクターを、知人から紹介してもらった。
僕もスキューバダイビングに興味があって、してみたいと思っていたので、期待が高まった。
プールに行って泳ぐ練習をしたり、潜る練習をして、沖縄にスキューバダイビングをしに行った。海の中は不思議な感覚で、魚になった気分だった。海の宝物をゲット!
ある日、朝早くに友達からメールが来た。何故か気になって開いてみた。すると、僕のために色んなことを教えてくれた人の悲報だった。
その人も重度の障がいがあるが、行動的な人だった。引っ越しされてからは、あまり会わなくなっていたが、元気なことは風の便りで聞いていた。二年程前から連絡など少なくなり、あまり調子が良くないのは聞いていたが、まさかの知らせにショックであった。生きている大切さをゲット!
今ではヘルパーさんに助けてもらうことが日常になっていて感謝している。ヘルパーさんと色んなところに出かけたりするとハプニングや困ったことなど、沢山あるが、一緒に笑ったり一緒に泣いたり、驚きや再発見できたり、色んな経験をしている。
また、障がいの有無に関わらず、色んな人たちと出会って仲良くなることが、ある。
沢山の人に出会ったり、また時には悲しい別れがあったり色んな経験をしてきた。様々な生き甲斐を探求して行き、周りの人と一緒に人生を楽しみながら、宝箱に沢山ゲットしたものを詰め込んで、歩んで行くと思う。この宝物はお金では買えない…、温かい宝物だ。
大切に持って生きたい。
※このほかの入賞作品(佳作)は、令和5年度「心の輪を広げる体験作文」 「障害者週間のポスター」入賞作品集(内閣府)(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r05sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。
※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。