付録9 令和6年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

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最優秀賞受賞

【小学生区分】◆茨城県

私(わたし)の願(ねが)い

茨城(いばらき)県立つくば特別支援学校 五年
臼井(うすい) 千織(ちおり)


「待てー!負けないぞ!」

鬼ごっこ。友達を追いかける私。誰の力も借りずに遊ぶ自分の姿をいつも夢に見ていた。

四年前、珍しい病気の私は、お母さんの付き添いで近所の学校に入学した。お兄ちゃんやいとこたちのいる学校に通いたかったからだ。二年間、お母さんは仕事を休んで毎日学校に来てくれた。三年生でようやく付き添いはなくなったが、学校生活は課題が多く、学校に行くのが辛くなった。四年生に進級した時、特別支援学校に行こう、と自分で決めた。決心した後は、心が軽くなった。

転校まであと三ヶ月というある日、お母さんが私に聞いた。

「ちーちゃん、今の学校でやり残したことはないの?」

「鬼ごっこ・・・。」

どうせ無理だろう、と思いながら小さな声で言った。それに対して、お母さんは私がそう言うだろうと知っていたかのように、

「よし!その願い、叶えよう!」

と迷わず、笑顔で答えてくれた。私はびっくりしたのと同時にうれしくて、ワクワクした。

お母さんはその日から、学校の先生や病院の先生、同じ学年のお母さんたちにたくさん相談をしてくれた。そして、車いす大運動会を行うことが決まった。種目は、パラバルーン、鬼ごっこ、リレー。これらは幼稚園から学校生活の中でやりたかったけれど私だけできなかったことだ。危ないから、という理由でやらせてもらえず、悲しかった。ほぼ見学で、本当はみんなと一緒にやりたいのにどうしてできないのだろう、どうしてこんな体なのだろう、と後ろ向きに考えることばかりだった。しかし、今回は参加者みんな車いすに乗って行うことになった。一緒に運動できるなんて初めてで、考えただけでも楽しくて、毎日その日を指折り数えるようになった。幼稚園の先生、支援級の先生や支援員さん。学校でお世話になった担任の先生達。学級の友達や車いす仲間。あっという間に参加者が五十名以上になった。本当にありがたかった。

三月一七日、当日。これまで運動会といってもあまりなかったソワソワした気持ちで、早起きしてしまった。

車いす運動会の会場に入ると、障害の有る無しに関わらず、これまで私に関わった人達がたくさん集まっていた。

「ちーちゃん!頑張ろうね!」

「負けないからね!」

感じたことのない競争心が自分の中でわき上がっていた。いよいよ始まる。

一番心に残ったのはリレーだった。みんなコーンのカーブで苦戦している。直線も左右にふらふらしていた。私はこれまでスタート地点に立ってもドキドキしたことはなかった。いつも付き添いの人が押してくれるので、自分の力は勝敗に関係なかった。大人が押すときは特に、気を使ってビリになることが決まっていた。でも今日は違う。よーい、というかけ声はこんなにきん張するものなんだ、と思った。私のライバルは車いす仲間だった。それをみた友達が

「すごい!どうやったら速くなるの?」

と言ってくれた。学校も学年も違うけれど、私の学校の友達と車いす仲間が車いすの操作を教え合いながら鬼ごっこを始めていた。私は関わりが生まれたことがとても嬉しかった。

その後のバルーンもできる動きを曲に合わせて行うことができた。先生のかけ声で、当時の様子が目に浮かんだ。今はみんなの笑顔の輪の中で、私も一緒にできている。

こんな夢のような時間のおかげで、私は自信を持って転校することができた。もっと障害の有る人と無い人が自分らしく一緒に過ごせるイベントや環境があれば良いと思う。それが私の次の願いだ。そのために私は、障害の有る人と無い人のかけ橋になりたい。

【中学生区分】◆横浜市

楽(たの)しむことを諦(あきら)めない

横浜(よこはま)市立新田(にった)中学校 二年
盛田(もりた) 福(ふく)


僕の兄には、生まれつきの病気がある。神経伝達が上手くいかない病気らしい。世界的にも症例が少ない兄の病気は、病名もなければ治療法もない。そんな未知の病と闘っている。

現在高校三年生の兄が小さかった頃は、皆と同じように歩いたり、走ったり、遊んだりできた。徐々に歩けなくなったのは、小学五年生頃。中学生になってから車椅子を使うようになった。兄が車椅子を使うようになってから、僕達家族は、時々二人家族になる。スタジアムでサッカーを観る時。遊園地に行った時。階段しかないお店に入る時。兄と母。僕と父。二人ずつ別々に過ごす。それは、仕方がない事だと思っていた。しかし、この夏その考えを変える出会いがあった。

家族で沖縄旅行に行った時のことだ。今まで見た事もない綺麗な海を目の前にして、

「ここで待っているから楽しんで来て。」

ビーチの入口でいつものように兄が言った。砂浜を車椅子で進む事が出来ないのだ。父と母と僕で車椅子を持ち上げてみたり、砂浜用の車椅子がないか問い合わせたり、と悪戦苦闘していた。やはり、また二人家族か…。と諦めかけた時、ビーチスタッフのRさんが声をかけてくれた。

「せっかく沖縄まで来てくれたんだから、一緒に楽しもう。何の問題もないよ!!」

笑顔でそう言うと、父でも背負うことができない大きな体の兄を背負い、後ろから父が支え、海の中まで連れていってくれた。申し訳なさそうに、

「ありがとうございます。」

と何度も頭を下げる兄に、

「大丈夫だよ!!いつでも指名待ってるからね。」

と明るく答えてくれた。そして、兄でも出来るマリンアクティビティを楽しませてくれた。Rさんのおかげで、家族一緒に沖縄の海を楽しむことが出来たのだ。兄はとても、嬉しそうだった。七年ぶりに兄と一緒に入った海。久しぶりに兄と一緒に楽しむことができた。もっともっと沢山の体験を兄にさせてあげたいと思った。そして、兄以上に嬉しそうな父と母の顔が忘れられない。

僕はRさんの振る舞いや言動から人の温かさを感じた。その優しさや気づかいに感動した。心のバリアフリーとはこういう事だと実感した。障害があってもなくても、相手に楽しんで欲しい。笑顔になって欲しいと思う気持ち。そのために、出来ない理由を探すのではなく、出来る方法を一緒に考えること。たとえそれが上手くいかなくても、一緒に楽しもうと前向きに考えてくれることだけで、障害がある人や、その家族が救われることをRさんが気付かせてくれた。

はじめから無理と決めつけていたら気付けない事が沢山ある。だから兄にも、楽しむ事を諦めないでほしい。そして僕がすべきことは、兄と一緒に出来る方法を考え、行動してみること。まずは、僕が心のバリアフリーを実行してみようと思う。

障害がある人も無い人も関係なく、皆一緒に楽しめることが、どれだけ尊い事か気付けたから。

【高校生区分】◆東京都

言葉(ことば)を伝(つた)える

学習院女子(がくしゅういんじょし)高等科 三年
内山(うちやま) 芽衣(めい)


私の学校には、手話同好会というクラブがある。中学一年生の時から所属しているため、今ではもう五年目となり、部活動の中でもすっかりベテランの立場となった。この手話同好会に入ることになったきっかけは、小学生の頃に観た映画だった。その作品の中で、手話を通じて登場人物たちが互いにコミュニケーションをとり、心を通わせる様子に深く感動し、手話というものに対して強い興味を抱いたのだ。そこで、受験の際にオープンスクールに参加し、手話同好会の活動を見学した時、私の心はさらに惹かれた。手話が形そのものを表しているという面白さや、目で見る言語という新しい感覚に、私はすぐに夢中になった。

中学生になってから、私は迷わず手話同好会に入部した。そこでは、優しい先輩たちが指文字や名前の手話などの基本を丁寧に教えてくれた。初めて触れる手話の世界は、私にとって新鮮であり、毎日のように新しい発見があった。特に、歌詞に合わせて手話をつける活動や、文化祭での発表の際に歌と一緒に手話を披露する機会は、手話を通じて感情や思いを表現する楽しさを教えてくれた。表現できる手話の単語が増えていくとともに、私はますます手話にのめり込んでいった。

学年が進むにつれて、私は手話の基本だけでなく、実際に使われている手話にももっと深く触れてみたいという思いが強くなった。そこで、地域の手話サークルに参加してみることにした。そのサークルでは、日常生活の中で手話を使ってコミュニケーションをとっている耳の聞こえない人々、いわゆるろう者の方々が何人かいた。彼らの手話は驚くほど速く、一つの単語を読み取っているうちに文章が流れてしまい、私は会話についていくことが全くできなかった。しかし、もっと驚いたのは、ろう者の方々が手話を使って表現する時の表情だった。例えば、嬉しい時には、彼らはまるで本当にその瞬間に嬉しいことがあったかのように、心からの笑顔を見せて手話を行っていた。また、悲しみや苦しさを表現する際には、顔全体でその感情を体現し、とてもリアルに伝えていた。

その表情豊かな手話を目の当たりにした時、私は自分がこれまでいかに表面的な理解しかしていなかったかを痛感した。学校で手話の単語を覚える時、私はただ形を暗記するだけで、その背後にある感情や意味を十分に考えていなかったのだ。ろう者の方々の手話を通じて、表情も手話表現の一部であり、感情を込めてこそ本当の手話が完成するのだということを学んだ。そして、それは私たちが普段話している日本語と何一つ変わらない、立派な一つの言語であるという認識が深まった。アメリカ人が英語を話すように、ろう者は手話を使って自然にコミュニケーションをとっている。その事実を知り、手話を日本語の一部としてではなく、独立した言語として尊重し始めた。

ある日、手話サークルでフリートークの時間が設けられた。健聴者二人とろう者二人の四人グループに分かれ、一人ずつ手話を始めたきっかけを話すことになった。私の右隣に座っていた方が最初に手話で話し始め、「私」「仕事」「福祉」「興味」「持つ」という単語を使って、自分の手話を始めた理由を語った。知っている単語がいくつかあり、大体の意味を掴むことはできたが、周りがスムーズに手話を理解し、「なるほど」という意味の手話をしているのを見て、私は自分が同じようにできるかどうか不安で仕方なかった。

次は私の番だった。緊張しながらも、「私」「中学生」「から」「学校」「手話」「部」「入る」というように、覚えている単語を組み合わせて何とか自分の思いを伝えようと努力した。すると、ろう者の方が笑顔で「へぇ!すごいね!」とゆっくりと分かりやすく返してくれた。その瞬間、やった!伝わった!と初めて人に手話で思いを伝えられた喜びが心に広がった。この体験を通じて、私は手話が単なる形ではなく、生きた言葉であることを再認識した。

手話サークルに通い始めたばかりの頃は、自分の手話が本当に伝わるのか不安で、ずっと緊張していた。しかし、徐々にサークルの雰囲気にも慣れ、ろう者同士の会話も少しずつ読み取れるようになってきた。今では、日常的な世間話や趣味の話も手話で楽しめるようになり、ますます手話の魅力に引き込まれている。

手話に出会う前の私は、言葉が伝わることが当然のことだと思っていた。友達に「ねえねえ」と話しかければ、「なあに?」と返ってくる。しかし、手話を学ぶことで、言葉を伝えるという行為がとても貴重で、人と人を繋げる大切なものだということを深く理解するようになった。手話も日本語も関係なく、伝える言葉を一つ一つ丁寧に選び、相手にどう伝わるか、どうしたらより伝わりやすいかを常に考えるようになった。これからも、ろう者や難聴者など、手話を使わないとコミュニケーションが難しい人々に対しても、自分の言葉を届けられるように、手話という一つの言語をさらに深く学び続けていこうと思う。そして、手話を通じて、もっと多くの人と繋がり合い、豊かなコミュニケーションを築いていきたいと強く感じている。

【一般区分】◆東京都

2回目(かいめ)の人生(じんせい)、精神障害者(せいしんしょうがいしゃ)11歳(さい)。

赤岩(あかいわ) 真詠(まなえ)


「え?!まなえ銀行員になったの?!」

と高校時代の友人が、驚きの表情を浮かべる。「そうなんだよ、銀行の事務員になったの」と彼女の勢いに驚いて、少し笑ってしまった。

高校時代、私は豪放磊落な性格で知られ、「困っている人の声を拾うジャーナリストになる」と、そう公言してはばからなかった。友人の驚きは、夢を追うのをやめ、真面目なイメージがある銀行員になったことへの当然の反応であった。私のこの変化には、私が精神障害者になったことが大きく影響している。

19歳の春、突如障害者となった。疾患名は双極性障害Ⅰ型。異常に気分が減退し落ち込む鬱状態と、異常に気分が高揚し跳ね上がってしまう躁状態を繰り返す精神障害である。「普通の人でも気分の浮き沈みはあるよ」と思われるかもしれない。しかし、躁状態の気分の昂進は、病的なものだ。

普通の人が、公園の花壇の鉢植えから花を抜き、下着姿でそれをハンマー投げよろしく投げるだろうか。そして、普通の人がその現場を通報され、警察沙汰となるだろうか。これは、私が躁で引き起こしたことの一例だ。恐ろしいことに、ここまで異常なのに病識がない。むしろ自分のことを天才だと思い込む。心配する家族や友人を、この天才を理解できないとんでもないアホだと思っていたのだ。

鬱状態では、躁でやらかした全てのことを猛烈に後悔した。希死念慮に襲われ、自室のベッドに引きこもった。

そんな浮き沈みを経験して11年。この間に、計4年間の引きこもりや、閉鎖病棟への長期入院を複数回経験した。大学在学中も、休学を繰り返した。「困っている人を助けるジャーナリストになる」どころか、自分自身が「困っている人」そのものになったのである。毎日闘病することで精いっぱいの私が、当然将来の夢など思い描けるはずもなかった。さりとて人生は続く。なんとか就活生となった私は、現実を見なくてはいけなくなった。

2018年に障害者雇用枠の法定雇用率に、精神障害が追加された。これを受け、私は障害者雇用枠での就活を始めた。就活を進めていくと、そこで初めて自分以外の障害者の人々と、リアルに触れ合うこととなる。そして障害には「分かりやすい」障害と「分かりにくい」障害があることを知った。

障害者雇用のインターン会場に行く。まず目に入ったのは、白杖を手にしている人、手話で会話する人、車椅子で移動する等、外見から「分かりやすい」障害の方だった。外見からは「分かりにくい」学生と話していると、「内部障害なんです」と教えてくれた。

帰り道で思いを馳せた。この世には様々な障害があり、様々な闘い方があるのだと。そして私は、外からどう見えているのだろうか。内部障害の彼女のように、私の障害もきっと外から分かりにくい。ならば、積極的に外に発信していかなければ、私の障害は、私の困っているは、きっとないものになってしまう。それだけは、絶対に嫌だと思った。そして、私の「困っている」は、きっと私だけのものじゃない。そんな直感があった。

とある銀行に入行した。決め手は「人」であった。説明会での障害者雇用担当の方が纏う温かい雰囲気。そして障害を持つ行員が実際の体験談を話していたことに、興味を抱いたからだ。面接を重ねていくうちに、会社全体も温かい雰囲気であるところに惹かれていった。障害者の仕事に対して配慮はしても遠慮はしない方針にも共感を覚えた。「この会社の人たちと、私は頑張りたい」。そう思った。

入行して4年が経った。この間メンタル面の調子を崩して休職することもあった。しかし、「長い人生、4か月のブランクなんてどうとでもなるから。焦らないで」と温かい言葉と配慮をしてくださる上司に恵まれた。

同じチームには、視覚や聴覚障害の先輩がいる。拡大読書器や補聴器を使うその仕事ぶりは、健常者に全くひけを取らない。

オープン就労している同期は、肢体不自由だが車椅子を使わない。「車椅子の障害の方は、車椅子モテがあるんだ」とぼやく彼は人間味あふれていて、つい笑ってしまう。先天性障害の彼の半生に私が興味を持つように、彼も中途障害の私の半生に興味を持つようだ。

「人生の途中から急に障害者になるってどういう感じ?」

と、ある飲み会で彼に聞かれた。私もそれ気になる、と視覚障害の先輩もこちらを見る。言語化難しいなと思いつつも、

「えーと、2回目の人生が始まった感じかな」

と答えると、なるほどね、と2人は頷いた。障害者になる前には戻れない。でもそこで人生が終わったかというと、そうでもない。そう伝えたかった。2人の顔を見てほっとした。

入行のきっかけとなった方は、障害の有無のバリアを越えて分かり合おうと歩み寄りを続けている。キャリアコンサルタントの資格取得であったり、視覚障害の歩行体験への参加であったり。彼女が声掛けしてくれる「一歩ずついきましょう」は、時に「生きましょう」とも私の耳には聞こえている。

「分かりにくい」精神障害が法定雇用率に追加されて6年。まだまだ少ない特例を、誰かにとっての前例にしたい。職場で触れ合う皆さんのように、私もポジティブな影響を誰かに与えられるようになりたい。ジャーナリストになれなかったけれど、少しでも「困っている人」を減らしたい。「分かりにくい」障害になったからこそできることを探す私の2回目の人生は、精神障害者として11歳。まだまだ始まったばかりである。

優秀賞受賞

【小学生区分】◆青森県

無意識(むいしき)の偏見(へんけん)を打(う)ち破(やぶ)って

外ヶ浜(そとがはま)町立三厩(みんまや)小学校 六年
笹村(ささむら) 美晴(みはる)


ある女の子が入学してきました。その子は、一人だけ別の教室で勉強しています。その子が何らかの障がいを抱えているため、別の学級で勉強していることは分かりました。しかし、具体的な障がいの内容や、直面している困難については全く知りませんでした。今思うと、うまく会話ができないと決めつけ、無意識に会話を避けていたように感じています。

このまま特に関わりなく過ごしていくのだろう、そう思っていたある日のことです。その子が、休み時間に話しかけてきました。彼女は、石や木を使って家の家具を作るという遊びをしていました。

「ねえねえ、これ見て。」

その後、会話のラリーが少しだけ続きました。

「これ、何を作ったの。」

「こっちがタンスで、こっちがテーブルだよ。」

「へえ、すごいね。上手だね。」

「ありがとう。」

この会話は、なんてことない会話に思えるかもしれません。しかし、この短い会話が私の心を大きく揺さぶりました。それは、私の心の中に「障がいがあるから会話ができない」という偏見が、無意識に潜んでいたのかもしれないということに気づいたからです。笑顔で一生懸命、出来事を伝えようとしてくれる姿が、私の心をぐさっと刺すようでした。障がいがあってもみんなと一緒なのだと痛感しました。そして、この「無意識の偏見」はあってはならないと考えるようになりました。

私のその考えを、より確かなものにさせた出来事がありました。それは、障がいを抱える彼女に対し、友達が

「あの子、みんなと違って変だし、無口だから苦手。」

と、陰で話していたのを聞いてしまったことです。とてもショックを受けました。私は彼女の本当の気持ちを知ってもらおうと、必死に彼女の素直さや前向きさを伝えましたが、うまく伝わりませんでした。とても苦しく、泣き出しそうな気持ちになったことを、今でもよく覚えています。しかし同時に、私ははっとしました。友達の今の様子は、以前の私と同じなのかもしれないと感じたからです。無意識に偏見をもっていて、関わろうとしない、歩み寄ろうとしない。だからその子の内面を理解しようと思えない。そんな状態なのだろうと。

それから私は、偏見を取り除き、みんな一緒に仲良く生活できるようにするために、自分にできることは何かを必死に考えました。その結果、一つの考えが浮かびました。それは、障がいの特性や感じている困難を、まずは自分が正しく理解し、それを周りに伝えることから始めようということです。内面を理解してもらうために、まずは彼女の思いを自分事として考えてもらうところから始めなければと感じたのです。

その後、私は勇気を出して彼女の抱える障がいの特性や困難、そして彼女の努力を一生懸命伝えました。すると、友達は驚いた後、ぼそりと「知らなかった」と呟いたのを見て、やはり私と同じだったのだと改めて感じました。それからは、その友達や周りの子たちが、彼女に優しく声をかけたり、一緒に遊んだりするようになりました。

私は、障がいをもっている人も、そうでない人も、みんな仲良く暮らせる世の中になってほしいと願っています。そんな世の中を実現するには、「無意識の偏見」を打ち破ることが最も大切なのだと思います。そのためには、自分の偏見に気づくことが必要です。私は「偏見に気づいた側」として、無意識の偏見について訴えていきたいです。自分の経験を通じて、少しでも多くの人が偏見を取り除き、みんなが安心して暮らせる社会になっていくことを願い、私は自分にできることを続けていこうと思います。

【小学生区分】◆徳島県

ゆうきをくれる友(とも)

藍住(あいずみ)町立藍住南(あいずみみなみ)小学校 五年
田中(たなか) 晋太郎(しんたろう)


ぼくは、みんなみたいに、はなせたら、もっとふれあいができて、たのしいだろうと毎日おもいながら、がっこうへいっています。いつも、いいおもい、うれしいきもち、おもしろいこと、いっしょにたのしめたら、ぼくは空中にうかぶくらい、よろこんでいきます。

ぼくの友だちは、とてもやさしい、ゆいいつむにの友だちです。こまかなことは、いえなくても、いつもぼくのきもちを思い、たすけることをよちしておしえてくれます。たとえば、外国語のじゅぎょうで、ぼくがいいたいことをテレパシーでつうじているかのように、ぼくにかわっていってくれます。なので、ぼくはあんしんして、たのしくじゅぎょうがうけれます。

また、いろいろなばめんで、ぼくがはなせるようにおしえてくれることが、うれしいです。

同きゅう生みんなが、「じぶんだけよければいい。」と思うこはいません。こまったときは、いつもたすけてくれるので、「同きゅう生となら、がんばれる。」し、うつむいてしまいそうなことでも、やってみようと思えます。ぼくは、みんなのやさしさがうれしいので、いつかみんなにはなせるようになりたいです。

「いつもありがとう。」と。

【小学生区分】◆岡山県

妹(いもうと)の世界(せかい)を広(ひろ)げたい

倉敷(くらしき)市立大高(おおたか)小学校 四年
溝口(みぞぐち) 桜大(おうた)


ぼくには双子の妹がいる。ぼくが二歳の時に生まれて、いっしょに大きくなった。今では双子も小学生だ。

自分は勉強も運動も好きだし、とくに仲間とサッカーをしている時が楽しい。友達とゲームや川遊び、鬼ごっこなどのいろんな遊びができるし、四年生の今では、自転車で自由に遊びに行くこともできる。だけど、妹の華央は、小学生になっても言葉が話せない。最近、ようやく食事の時に手づかみをやめてスプーンを使える様になったくらいで、まるで赤ちゃんだ。それに、大きな声で叫ぶし、社会のルールを全く知らないので、お店や公園に一緒に行くことも大変だ。危険なことを平気でしようとするから、お母さんは目がはなせない。夏になると、大好きなプールへ行きたくて毎日水着を着ている。下の水着も頭からかぶって満足そうな顔をしている。思い通りにならない時は、自分の頭をたたいて、それが痛くてさらに泣いて、もう訳が分からない。とにかく華央はできないことばかりで、ダメなことも沢山するし、いつまでたってもお世話が大変だ。

そんな妹の事が、家族は大好きだ。妹はいつもニコニコケラケラよく笑い、見ているだけで面白い。周りにいる家族は妹がいるだけで楽しい気持ちになる。妹がデイサービスでいないと「つまらない」と感じるほどだ。

ぼくや家族にとって、すごく身近な存在の華央だが、ぼくが生きてきた十年間、同じ様な人は見たことがない。学校や公園、図書館にお店、どこに行っても妹に似た人はいない。不思議に思ってお母さんに聞いてみると、どうやら妹みたいな人は日本人口全体で0.1%しかいないらしい。「なんて珍しい人間なんだ」と興奮した。だけど、そんな少数な妹達は、この世界でどうやって生きていくんだろうと不安にも感じた。初めてお母さんと華央について真面目に話をしたら、お母さんの口から「重度知的障害」と「自閉症」という言葉が出た。改めて調べてみると、妹の様に言葉が話せなかったり、かんしゃくを起こしている子の動画を沢山見つけた。ぼくが普通に生活する中では会わなかったけど、それぞれがちゃんと学校へ通ったり、助けてくれる人達と日常を送っていた。ちゃんと存在していて安心したけれど、生活する場所やコースを分けられている様で、さびしいと思った。さらに調べて、新しい言葉を知った。それは「インクルーシブ教育」というものだ。障害の有無などによって分けられることなく、「子供達が共に学ぶ」ということを取り組んでいる大阪の小学校の動画を見たのだ。その小学校では、普通のクラスに、看護師さんが付きっきりの医療ケアが必要な子、重い知的障害の子、発達障害の子も、みんなで一つの教室で過ごしていた。その学校の校長先生は、「支援が必要な人と必要ない人が一しょに学ぶことは、全く特別ではない」と話していた。

ぼくも、自分の家族に華央がいることは当たり前の様に、特別な事だとは思っていないし、これが普通だ。大変な時はみんなで協力するし、兄妹で仲良くしていると、それだけでお母さんやお父さんがゆっくりできる。何より、妹が笑顔になるとぼくは嬉しくなる。だから、障害なんかで分けて暮らすより、みんなで生きる方がずっと楽しいことをみんなに伝えたいと思った。一しょにいるには、工夫や思いやり、自分が障害の有る人に合わせることが必要だ。それは、とても大変なことだけど、ふれ合いで自分も心が温かくなるし、他の誰かが親切にしている姿を見ても、自分のことの様に嬉しくなる。優しさが連鎖して、「どんな人でも同じように生きられる世界になればいいな」とぼくは思います。

【中学生区分】◆熊本県

笑顔(えがお)であふれる世界(せかい)

氷川(ひかわ)町立氷川(ひかわ)中学校 二年
上森(うえもり) 叶愛(のあ)


「宇宙人みたい!」

小学生のころ、友達と遊んでたら、突然このようなことを言われました。

私は一瞬何を言われたのか理解ができませんでした。少し時間が経ち、何を言われたのかやっと理解ができました。

私は生まれつき左手の中指がありません。自分が小さいときはあまりそのことを理解できていなかったので何とも思わず過ごしていました。でも小学生になって、周りから手のことについて何か言われていると感じるようになりました。それを母に話すと、学校で少し時間をとってもらってみんなの前で私の手のことについて話してくれました。でもその話をしてから、「手、みせてー!」と言われるようになりました。私は手を見せるのがいやでした。だから話をそらしたりしてなるべく手を見せないようにしていました。

そんなある日、友達に言われたのが「宇宙人みたい!」と言う言葉でした。すごく悲しかったです。小学生の低学年の間はそのようなことが続き、辛い日々でした。高学年になると手のことについて言われることは少なくなったけれど、リコーダーなどが始まって左手の指が一本ないから不便だったし、隣の人と手の動きを確認する時間等があって、とても嫌でした。習字のときも、左手で紙をおさえておかないといけないから、できるだけ誰にも見られないようにして書いていました。とても仲がいい友達にはふつうに手を見せられるけれど、あまり親しくない人には見られたくないと感じ、たまに「左手がちゃんと五本あったらどんな感じなのかな?」と思ったりすることもありました。でもそういうことを母に言うと産んだほうが悪いと言っているようになってしまう気がして、あまり言えませんでした。中学校を卒業するまでは、ほとんど小学生のころからいっしょの人しかいないから、そんなに不安ではないけれど、高校から先は不安でいっぱいです。でも周りには支えてくれる人たちがたくさんいてくれるから、そういう不安に負けずにがんばりたいです。

「宇宙人みたい」

たったその一言で人は傷つきます。でも、支えてくれる人がいると、笑顔になることができます。私も、これまで支えてもらった分、だれかを支えていけるといいなと思います。

【中学生区分】◆千葉県

「支(ささ)え合(あ)うこと」

睦沢(むつざわ)町立睦沢(むつざわ)中学校 三年
木村(きむら) 涼梨(すずな)


私は施設で暮らしています。この施設には障害をもった子もいます。その中の一人の女の子とは、八年間一緒に暮らしています。その子は四歳の時に入ってきました。四歳なのに立って歩くことも、しゃべることもできませんでした。

その子と出会ったとき私は正直なところ、怖いという印象をもちました。その子は、お風呂の時間になると、お風呂を嫌がって暴れたりしました。その度に、職員がその子につきっきりになります。その子は言葉が話せないので、その時の感情を叫んだり、自分の頭を思いっきり壁に打ち当てたりすることで、表現したのです。

私はなぜこのような行動をとるのか理解できませんでした。しかし、職員の方から「この子がお風呂に入るのを怖がるのは、自分の背丈よりも深いお風呂に入らされるからなの。溺れるんじゃないかって恐れているから。」この話を伺い、その子を怖いと思う先入観はこっぴどく打ち砕かれ恥ずかしい気持ちになりました。

このことから、私は障害をもった人に対して、たんにうわべだけで判断するのではなく、どうしてそういう行動をとるのかを考えなければいけないことを悟りました。

それから、三年ほど経ち、その子が年長になった頃です。その子はクレーン行動といって、職員の方の指などにつかまり、少しですが、歩くことができるようになっていました。夕方、私が宿題をやっていた時のことです。机の横から、その子はひょこっと顔を出してこちらを見ると、はじけたような笑顔。今でもはっきりと覚えています。今までは、その子をそれほど気にしたことはなかったのですが、可愛いと思い、その子のことをもっと知りたいと思うようになりました。ただ、その子は警戒心もあり、怖がらせてしまうとまずいと思い、まずは、その子と私の目線を合わせて挨拶をしました。次に一緒に何かをしようと思い、テレビで流れるダンスを踊ったり、天気のよい日には、屋外に出て田んぼの周りを散歩したりしました。こんなとき、その子はうれしそうに笑ってくれるのです。つい私の頬も緩んでしまいます。

こんなふうに交流し始めると少しずつ、その子と私との関係が深くなるのを日に日に感じました。私はその子とのことで心に焼き付いている出来事があります。職員の方と私とその子で初めて買い物に行ったときのことです。その子は「買い物に行くよ」というと、四足歩行で必死に私たちの所へ来て、即座に泣き叫んだのです。とても嬉しかったのだと思います。車に乗り込み、お店に到着すると、私の手の指にぶら下がり、私より前を歩き出したのです。そして、お店にいたお客さんや売り物をじっくりと見たり、かなり長い時間、笑顔ではしゃぎ回ったりしました。私の指はちぎれそうなくらい痛かったのですが、天使のようなあの笑顔を見ていると、それも忘れました。

現在、私とその子は、職員の方からはハッピーセットと呼ばれています。二人三脚で支え合っているということだと思います。その子は今、自分の力で歩く訓練をしています。「頑張れ」私はその子を心の中でいつも応援しています。ただ、私もその子から笑顔や元気をいっぱいもらって寂しさを吹き飛ばしています。

「みんな違ってみんないい」は私が好きな金子みすゞさんの詩の中の言葉です。健常者の方は障害者の方に対して、「可哀想だな」とか「恐い」とか思わず、受け入れてほしいと思います。そのために、まずは、障害者のことを理解していくことが大切だと思います。障害をもった方の行動の一つ一つには必ず意味があるのですから。また、障害をもった方とふれあうには、同じ目線になることが大切だと思います。そして、一つのことを一緒に汗を流して取り組んでいくとよいと思います。私はこれらのことを行い、一人の人間としてその子と交流できるようになったからです。

【中学生区分】◆広島県

ハンセン病患者(びょうかんじゃ)と触(ふ)れ合(あ)って
~過(あやま)ちを繰(く)り返(かえ)さないために私(わたし)ができること~

盈進(えいしん)中学校 三年

藤本(ふじもと) 晄(こう)


私は中学一年生の時からある場所に通い続けている。それはそこに、私の会いたい人がいるからだ。

その人とは国立ハンセン病療養所長島愛生園に暮らす田村保男さん(92)だ。彼は高校生で長島愛生園に入所した。私が田村さんに出会ったのは長島愛生園にある病院だった。とても優しい人で笑顔がすてきな方だ。しかし田村さんもハンセン病に対する差別の被害者だ。ハンセン病者は人からも社会からも差別された。ハンセン病に感染すると手足が麻痺し顔が歪むことがある。その見た目から差別や偏見を受け続けてきた。地域から感染者をあぶり出し、見つけ次第療養所に強制収容させることを定めた。それが「らい予防法」だ。ハンセン病者を自分達の町から排除させるように「官民一体」となり徹底して強制収容させた。それが「無らい県運動」だ。この事実を知った時、二度と繰り返してはならないことだと強く感じた。

田村さんは妹がいる。彼にとって大切な存在の妹も、田村さんと同様に差別された。ハンセン病に対する差別は決して患者だけでなく、その家族も差別の被害者だった。田村さんは悔しそうに語った。「わしがこの病気になって中学生の妹は、病気じゃないのに、『来なくていい』と学校に言われた。卒業証書ももらっていない。わしが病気になったから妹も病気になるはずだと学校も友達も妹を避けた。トイレもまともに使わせてもらえなかった。あまりにひどい差別だから誰にも言えなかったんよ。自分が強制収容されたことより、妹が受けたいじめと差別はどうしても許せんのよ。」私は心が締め付けられた。クラス内だけでなく、学校側までも差別に加担したのだ。それほど「ハンセン病はうつる病気だ」という誤った認識が広がっていたのだ。

転校した小学5年生の頃、私自身も仲間外れにされた経験がある。当時の私は、昼休みでもみんなが遊んでいる風景を眺めることしか出来なかった。「このまま卒業するのかなあ…」と不安を感じていた。そんなある日、教室で遊んでいた何人かが私に「一緒に遊ぼう!」と声をかけてくれた。嬉しくて叫びたかった。その時の友達とは今でも仲が良い。当時の私と田村さんの妹とは重なる点があるように思う。彼女は「ハンセン病患者の妹だから」、私は「転校してきたから」という理由で仲間外れにされた。妹の話を聞いた時、その悲しみや苦しみが当時の経験と重なり、胸が苦しくなった。私にはそんな友達の存在があった。その存在は、私にとって心強いものだった。だからこそ、あの時の友達が私にしてくれたように、私も誰にでも優しく出来る人になりたい。中学生になった私は、少しずつ積極的に仲間作りをしようと心がけた。中学三年生になった今、友達は私にとってかけがえのない存在だ。あの時声をかけてくれた友達に少しでも近づけただろうか。あの時の自分と似たような境遇の子がいたら、勇気を出して声をかけることが出来るだろうか。一緒に何かしようと誘われたら、誰だって嬉しいはずだ。これから学校生活、社会生活を送っていく中で、以前の自分のように一人でいたり、いじめを受けている人がいたら、相談に乗り、自分から話しかけて、最終的には笑い合える仲間になる。そのきっかけとなる行動を私はしていく。

田村さんのお話を聞いた後、「二度と同じ思いをする人がいなくなるように。」と握手を交わした。その時私は、このように思った。「次は、私達が田村さんの人生と、その思いを伝える側になる。」

【高校生区分】◆神戸市

生(い)きる意味(いみ)

関西創価(かんさいそうか)高等学校 一年
榎本(えのもと) あおば


「障がい者なんていなくなればいい」「障がい者は不幸をばらまく存在」理由もなくつけっ放しになっていたテレビからこんな言葉が聞こえてきた。ある障がい者施設で起きた殺人事件の容疑者の供述であった。私は頭を強く殴られたような衝撃を受けるとともに心を深くえぐられるような感覚に襲われた。

私の祖父は障がい者等級一級のいわゆる重度障がい者だ。脳梗塞を発症し、一時は危篤の状態まで陥ったが、なんとか命をつなぐことができた。しかし、後遺症として言語障がいや右半身の麻痺が残ってしまった。五文字程度までの短い単語なら、後に続いて発することができるが、ほとんど会話はできない。歩くことや立つことすらできず、寝るとき以外はずっと車椅子に座って時間を過ごす。もちろん自力で寝たり起き上がることもできない。自力では生活がままならないのだ。

最近、祖父がまだ元気だった時のことをよく思い返す。祖父母の家は名古屋にあり、私が住んでいる神戸から車で三時間程かかる。学校の長期休みに遊びに行った時にはいつも「よく来たね。」と迎え入れてくれた。お風呂から上がってきた時には大きなお腹を叩いて笑わせてくれるのがお決まりだった。スーパーで買ってもらって美味しいねと言いながら食べた、熱々の鯛焼きの味。近所の駄菓子屋で買ってもらった、たくさんのお菓子。一緒に庭で花火をしたり、動物園や水族館に行ったり…。祖父がつい昨日まで元気だったかのように鮮明に記憶が蘇ってくる。今の祖父には不可能なことばかりである。でも、そんな祖父を嫌いにはならない。「いなくなればいい」とか「不幸だ」などとは思わない。むしろ祖父は私に生きる希望を与えてくれる。

祖父が危篤の状態だと知った時、正直私は祖父とはもう会えないのかもしれないと思った。なんとか生きてほしい、それだけだった。大きな後遺症が残り、前のように遊んだり、話すことすらできないと知った時、もちろんショックはあった。でも、それ以上に祖父が生きてくれているということが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。また、祖父の命が一生懸命生きようと叫んでいるのだと私は感じた。ほぼ一日中車椅子に座っているだけの祖父であるが、その祖父の姿を見るたびに私も頑張って生きようと思わされる。

人の存在価値はその人の能力では決まらない。その人の存在そのものが最も尊く、周りの人の生きる希望になっていると私は思う。赤ちゃんだってそうである。ごはんは食べさせてもらう。おむつもかえてもらう。何かあると泣きわめく。でも、その存在は周りを明るく照らし、笑顔にする。しかし、人々はそのことを忘れてしまう。それは、世の中が相対的評価であふれているからだと思う。成績や業績で人々は評価され、その評価が良い人が社会的に認められていき、優位に立つ。反対に悪いと見下されたりしてひどい扱いを受けることもある。そのような相対的評価を気にするあまり、自己嫌悪に陥って悩み、苦しんでいる人も多いだろう。私も実際にそうである。私は中学二年生の頃に体調を崩し、学校に通えない期間が長くあった。授業に参加できず、自力で勉強はしていたものの、限界があり、不安でいっぱいだった。勉強もまともにできず、両親や先生にも迷惑をかけてばかりの自分には存在価値などないのではないかと思うこともあった。そんな私に生きる意味を教えてくれたのが祖父の姿だった。祖父は語らずして私を励ましてくれていたのだ。

障がいがあるとかないとか、何ができるかできないかで人の存在価値は決まらない。その人にはその人にしかない生き方、使命が必ずある。それを尊重し合える社会ができたらいいな。いや、私達が作っていかなければならないのだと思う。

【高校生区分】◆千葉県

ろう者(しゃ)と聴者(ちょうしゃ)の関(かか)わり

筑波(つくば)大学附属聴覚特別支援学校高等部 二年
奥田(おくだ) 梨世(りいよ)


私は、家族全員が耳の聞こえない「ろう者」である、デフファミリーの下で生まれた。そのため、手話でコミュニケーションをとるのが当たり前だった。耳が聞こえる「聴者」は、私と違って異質な存在であり、私とは異なる「聴者世界」で暮らす外国人のような存在だと認識していた。

私は小学生の頃、地元のバスケットボールクラブに所属しており、聴者と頻繁に交流する機会があった。ろう者とは手話で会話できるが、聴者とは筆談で話すため、コミュニケーションが上手くいかず、居心地が良くないことが多かった。その当時の私は語彙力がほとんどなかったため、自分の伝えたいことを思うように表現できなかった。そして消極的な性格で集団に入るのが困難で苦手だった。

聴者同士で楽しげに声で会話している様子を見て、私こそが「差異な人」なんだと痛感するとともに、疎外感や排除感に心が痛んだ忍耐力のない私にとっては耐え難く、バスケットボールクラブを辞めてしまった。

中学では、陸上部に入部した。顧問の先生は私と同じろう者だったが、聴者と交流するのがとても上手で、自分にはないコミュニケーション能力を持っていた。その先生は聴者と、できる限り関わりたくないと思った臆病な私に対して、「聴者と仲良くしろ」「ろう者も聴者と対等な立場なのだから、恐れるな」と何回も言ってくれた。

陸上の大会では、招集場所に直接行って、審判員のコールに応じなければならない。耳の聞こえない私が「声をかけてくれ」と、審判員にお願いしても、審判員は忙しいため特別扱いしてもらうことは難しい。そこで、勇気を振り絞って、近くにいる聴者の選手に「すみません、あなたは何組ですか?」と、拙い字で書いたメモ紙を見せて尋ねた。その人は「あっ、私は〇組ですよ」とペンで私のメモ帳に丁寧に書いてくれた。私の聴覚障害を受け入れてくれたかのようだった。「意外と簡単に聴者と話すことができた!」と、嬉しく飛び跳ねたい気分になり、私は耳が聞こえないが、聴者も同じ世界を生きているんだと希望を持つことができた。

高校二年生の夏休みに、アメリカに短期留学した。初めての留学で、不安や恐怖を勝手に感じていた。聴者とは英語で筆談したが、身振りでも通じることが多かった。アメリカは多様な人が住んでいるので、様々な人とのコミュニケーションに慣れていると感じた。「I’m Deaf」という一言を伝えれば、ろう者であることを一瞬で伝えることができ、親切に対応してくれた。留学先では、ろう者に対して偏見や先入観がなく、差別を受けることは一度もなかった。アメリカでは自分をアピールして、お互いに尊重し合うという考え方が根本にあることを感じた。そうした社会観に感銘を受け、自己肯定感が自然と高められ、聾者である自分を包み隠さず、貫いていこうと考えるようになった。

このような経験から、聴者への恐怖感や抵抗感がなくなった。さらにもっと関係を作りたいと意欲が湧いている。今はInstagramなどのSNSを通じて、聴者とビデオ通話をしたりチャットをしたりして、この世界で生きる喜びを感じている。

聴者がマジョリティである社会で生活する以上、聴者と接する機会を避けることは不可能である。この社会で生きていくためには、聴者と少しずつでも接していくことは大きな意味があると学んだ。身体的な差異は確かにあり、それを聴者に完全に理解してもらうことは難しいが、抵抗感を取り除くことはできる。今でも、聴覚障害者に対して、可哀想という見方や、どのように対応するのか分からない、ろう者と会ったことがない、といった聴者もおり、ろう者は聴者社会から孤立しがちである。

このような社会を変えていくためには、私たちろう者が積極的に社会参加して、聴者と交流する機会を持つ必要があると考える。そして、ろう者との接し方を伝え、偏見をなくしていかなければならない。

私たちろう者は手話でコミュニケーションするため、ろう者の社会はストレスのないコンフォートゾーンである。しかし、そこから抜け出し、ストレッチゾーンである聴者の社会に飛び込むことで、多角的な視野が得られ、この社会で生きていくために必要な力を得ることができると考える。そうすることで、自分を変えていくのではなく、進化させていくことができるだろう。どのような人でも、自分の個性や才能を開花できる社会にしていきたい。

【高校生区分】◆茨城県

障害(しょうがい)と付(つ)き合(あ)っていくということ

茨城(いばらき)県立水戸聾(みとろう)学校 三年
高橋(たかはし) みき


私は聴覚障害をもっています。障害をもっていると必要になるのが合理的配慮です。

今、私は聾学校の高等部に通っています。高校生になる前は、地元の中学校に通っていました。そんな私が聴覚障害をもっていると本当の意味で自覚したのは遅く、中学生の時でした。

小学生の時、私は会話に入れず孤立してしまったり、指示通りに動けなかったりしていました。それを私は、自分がだらしないからだ、自分が悪いのだと思っていました。補聴器を着ければ他の友達と同じになるのだと勘違いしていたのです。そして、私はだんだんと自分から動いたり、発言したりすることができなくなってしまいました。常にお手本がいないと不安になってしまったのです。そして、小学校を卒業し中学生になり、初めての部活動が始まりました。私はバレーボール部に所属しました。この部活動で初めて聴覚障害という壁にぶつかることになります。バレーボールという競技は、試合中のコミュニケーションがとても大事となる競技です。しかし、私は試合中の声かけが聞き取れませんでした。そのため人とぶつかってしまったり、ボールを取りに行くことができなかったりしてしまいました。皆本気で取り組んでいたので、険悪な雰囲気になってしまうこともありました。試合中だけではなく、普段の練習中でも先生の指示が、ボールのはねる音などにかき消されてしまい、聞き取れないということがありました。ここで私は初めて自分以外の皆の聞こえ方に疑問をもちました。どのくらい聞こえるものなのか友達や先生に質問しました。そうして初めて自分の聴覚障害について深く考えることができたのです。生涯ずっと付きまとう障害についてとても不安に思い、怖いと感じました。

そこで当時通っていた聾学校の通級の先生に相談しました。友達に私の障害について話したらどうかと先生から提案がありました。私はその提案を受けて、話すことを決めました。最初は不安でしたが、友達は皆真剣に聞いてくれ、その時だけではなく、その後も配慮をしてくれたのです。近くの席の友達が私の聞こえについて質問をしてくれました。それがとても嬉しいと思いました。声に出して伝えれば耳を傾けてくれるのだと感じて、それが私にとってはとても救いになりました。とても温かい気持ちになったのです。

それだけではなく、障害について友達に説明をしてしばらくしてから、学年主任の先生から文化祭で手話を使ったパフォーマンスができないかと相談がありました。私の学校の文化祭では毎年合唱を行います。三年生全クラスで、それぞれ合唱発表の前に曲に込めた思いや曲の紹介を、手話と口話を使って皆で一言ずつするのはどうかという提案でした。そこで発表する内容に私が手話をつけ、皆に教えてほしいとのことでした。先生から相談を受けた時はとても迷いました。何故なら当時の私は家族以外の人と手話を使って会話をした経験がほとんどなく、また私自身、人前に出ることが得意ではなかったからです。しかし、最後にはやることに決めました。手話に興味をもってもらえた事が嬉しかったからです。そして、迎えた本番では皆で息を合わせ、発表を終えることができました。大きな達成感を味わうことができました。このような貴重な体験ができたのは、勇気を出して障害について話すことができたからだと私は考えます。

中学校を卒業し、聾学校の高等部に入学しました。中学校までとは全く異なる環境で過ごすことになりました。聾学校で過ごす中で驚いたことがあります。聾学校では基本的に手話を使って生活をします。先生からの指示も全て手話を交えて出されます。そのため、指示が聞き取れずに動けない状況に陥ることがありませんでした。二人以上の友達と話す時、会話を聞き取れずに私以外の皆で盛り上がってしまうこともありませんでした。それが、今まで人間関係で悩み、どこか孤独を感じてしまっていた私を慰めてくれたような気がしました。指示を聞いてすぐに動くことができなかったり、皆の会話に入れず孤立してしまったりして、自分を責めていたけれど、自分のせいではないと聾学校に通うことで気付くことができました。そして、友達や先生とコミュニケーションをとり、自信をつけることができました。一般の学校へ進学し健聴者と過ごしていたら、この得難い経験をすることができなかったと思います。この経験や学びは、大人になっても私を助けてくれるだろうと思います。

高校生活もあと半年となり、もうすぐ卒業します。聴覚障害をもつことで付きまとう不安は変わらずありますが、声に出して伝えなければ気付いてもらえません。声を出せば誰かが気付いて、そっと手を差し出してくれるかもしれません。素直に助けを求められるような人でありたいと思います。そして、障害に関係なく、助けてほしいと苦しんでいる人に手を差し出すような人でありたいと思います。

【一般区分】◆大分県

未来(みらい)への種(たね)まき

麻生(あそう) 恒雄(つねお)


私は満70歳、全盲の鍼灸マッサージ師です。年に一回、学校で障害者についての講話を続けています。きっかけは、小学校教師の友人から、目の見えない人がどのような生活をしているのか、点字を書いたり読んだりはどうしているのかなどについて、学校で生徒に話をして欲しいと依頼されたからです。さて、引き受けたのは良いものの何をテーマに話そうかと悩みました。その当時、毎週グランドソフトボールという視力障害者が行う球技の練習のため、片道1時間かけて自宅から練習会場まで一人で電車で行っていました。

ある日、駅構内の自転車置き場にうっかり迷い込んでしまい、駅の入り口がわからずウロウロと狭い範囲を行ったり来たりしていました。すると小学校低学年の男の子二人が

「おいちゃん、どうしたん?」

と声をかけてくれました。

「駅に行こうと思って来たんだけど道に迷ったみたい」

と言うと二人は

「おいちゃん、こっち・こっち」

と階段まで案内してくれたのです。

「地獄で仏」

とはまさにこのことで、とても嬉しく思いました。

「そうだ、このエピソードを話そう」

と決めました。何度かこの話しをしてみると子ども達からは

「このような手助けなら私にもできそう」

という反応でした。これ以降も、小学校のみならず中学校・高校・大学で話をする機会をいただくようになりました。その度に

「困っている人を見かけたら、是非声をかけて欲しい」

と生徒・学生に必ず伝えています。そのためには視力障害者の毎日の過ごし方や困っていることを知ってもらうことも必要だと思い、私のありのままの生活を話してきました。

普段私はスマートフォンを使ってラインで友人とのコミュニケーションを楽しんでいます。視力障害者がどうやってスマートフォンを使っているのか不思議に思うかもしれませんが、画面操作に対応した内蔵の音声アプリが使えるので何とか利用できています。また紙幣の識別は、千円札のマークと横幅の長さを基準にした方法で金額を判別していましたが、今年の7月に発行された新紙幣では、わかりやすくなった統一の識別マークと、その場所の違いで簡単に判断できるようになりました。そして缶入りのアルコールには点字がついており、自分の缶ビールと孫のための缶ジュースを間違いなく冷蔵庫から取り出せます。このように社会の配慮が以前より広がっていることを、とてもありがたく感じています。

しかし家族の協力や自分自身が工夫することで多くのことができても、やはり困ることはまだまだたくさんあります。知らない所では、トイレの位置や駅の改札口がどこにあるのか迷います。一人で移動するときには、音声信号が少なく、また、電車で空いた座席がわからないことなども不便に感じています。まずはそういった実情を子ども達に知ってもらうことで、街中でも

「あの人は困っているかもしれない」

と気がつくことに繋がれば良いと思っています。そして、困っているような人を見たら

「何かお手伝いできることがありますか?」

と勇気を出して声をかけることが鍵だと話しています。そして、目が不自由な人への介助の方法はまさに「手引き」ですが、半歩斜め前に立ち、自分の肩か肘を相手に持たせて、先導すれば良いことを説明しています。その際、目隠しをした人と介助者役の二人一組で歩行を体験してもらっていますが、正しい介助だと目隠しをしていても、恐怖を感じないようです。手助けはけっして難しくはないのです。

もうひとつ子ども達に話していることはパラリンピックについてです。私はセーリング競技で過去2回出場し、障害の違う仲間3人で、お互いのハンディを補いながら世界で戦いました。風の方向は両耳に当たる左右差で判断し、声を掛け合いながらの帆走でした。これまで競技や開会式、選手村の食堂の様子などパラリンピックの話をすると、子ども達の目が輝いているように感じました。少ない練習時間をカバーするために、練習ノートを書いたり、英会話がもっとうまくできたら海外の人との会話が弾んで、もっと楽しかっただろうという話は先生も生徒も集中して聞いてくれました。若い人に夢や目標を持って努力してもらいたいと伝えることも私の役目だと思っています。

学校訪問を始めてまもなく30年を迎えようとしています。私一人のためでなく、社会全体が助け合いの心を持つようになることが希望です。何歳までできるかわかりませんが

「継続は力なり」

を信じて少しでも多くの味方を増やしたいです。困っている人に声をかけて欲しい、そして夢や目標を持って欲しい。この2つを軸に学校で生徒とのふれあいを大切にしながら、未来のための種まきをこれからも続けたいと思います。

【一般区分】◆千葉県

マサちゃんのこと

津嶋(つしま) 栄子(えいこ)


「マサちゃん、起っきして。ごはんだよう。」

声の主は、叔母である。マサちゃんは、叔母の息子。私にとって従弟にあたる。

マサちゃんは自閉症で、重度の知的障害がある。

マサちゃんと会話するのは難しい。いくつか単語は発するけれど、その数少ない単語は、本当の意味とはつながっていないことが多かった。でも、マサちゃんが見えるものや感じるものと、そのアトランダムな単語の選択は、どこかつながっていたのかもしれない。私はマサちゃんの表情を見て、楽しそうだなとか、何だかストレスが溜まっているみたいと思うのがせいぜい。だが、叔母はマサちゃんに話しかけ、マサちゃんは「うん、うん。」とうなずき、ちゃんとコミュニケーションは成立していて、私はいつも羨ましく思っていた。

マサちゃんは時々、激しくジャンプしたりしゃがんだりを繰り返しながら「うおーっ!」と大きな声を出すことがあった。何かしらの感情を吐き出しているのか、不安定になった心を落ち着かせようとしているのか・・・。そんなマサちゃんを初めて見る人は驚いたり怪訝な顔を向けたりする。びっくりさせちゃうことはあるけれど、マサちゃんは決して人に危害を加えるようなことはしない。

時折り、マサちゃんは楽しそうにケラケラ笑うこともある。「うおーっ!」の理由がよくわからないように、ケラケラ笑う理由も、私にはわからないのだけど、本当に楽しそうに、とても無邪気に可愛くマサちゃんは笑う。

私の家族の中でも、マサちゃんはアイドルだった。私の両親や妹たちも、マサちゃんがお盆やお正月に来るのをとても楽しみにしていた。マサちゃんが来る日は、いつもマサちゃんの大好きな手巻きずしを作った。みんなマサちゃんに好かれたくて、手巻きずしの他にもマサちゃんが喜びそうなおもちゃやお菓子を用意した。自分が用意したものをマサちゃんが気に入ると、宝物を掘り当てたみたいに得意になった。「うおーっ!」が思い切りできるように、海にも遊びに連れて行った。

私の妹の誕生日に、マサちゃんが来た時のこと。みんなが「ケーキのいちご争奪ジャンケン」で白熱しているそばで、最後のいちごをマサちゃんがパクっと食べてしまい、みんなで大爆笑したこともあった。

それからだいぶ時間が経った。マサちゃんは大人になり、最近は親元を離れてグループホームで、優しい所員さんたちに囲まれて穏やかに暮らしていた。そして。

令和五年のお正月が明けたある日、マサちゃんは、グループホームで突然バタンと倒れて、それきり亡くなった。少し前に感染した「コロナ」の影響で、肺血栓症を併発したらしい。あまりに突然の訃報だった。

叔母に葬儀の日程を聞くと、葬儀はマサちゃんの家族(両親と姉)三人だけで行いたいとのことだった。「これまでずっと迷惑ばっかりかけて、人に嫌われる人生だったから、最後は三人で静かに見送りたいんだ。」と。

それでも、私はどうしてもマサちゃんに会いたかったので、葬儀の前日、マサちゃんのいる斎場に行った。叔母も一緒に来てくれた。

マサちゃん、享年四十八歳。叔母は、もうすぐ八十歳になる。近年腰を患った叔母は、杖代わりのカートを押しながら、祭壇に眠っているマサちゃんのそばにゆっくり近づくと、「マサちゃん、起っきして。ごはんだよう。」と声をかけた。悲しそうではなく、ごくごく普通に。五十年近く、叔母とマサちゃんは、優しいお母さんとかわいい子供のまま・・・。

叔父も、決して健康とは言えない状態である。叔父も叔母も、自分たちがいなくなった後のマサちゃんが心配でしかたなかったから、先に亡くなったマサちゃんを「親孝行」と言った。自分でもよくわかってないんじゃないかと思うくらい急に逝ってしまったマサちゃんは、とても穏やかな表情で眠っていた。

私は教員になって、約三十年。マサちゃんの影響で、特別支援教育の道に進んだ。マサちゃんがいなかったら、今の私はない。「迷惑ばっかりかけて嫌われる人生」なんて、叔母ちゃん、何言っちゃってるの。マサちゃんは、私の人生の恩人なんだよ。

「障碍のある人とない人のあたたかいふれあい」がたくさん生まれる一方で、偏見や根拠のない誹謗中傷は、当事者だけが見える陰の中に、実はまだ確実にはびこっている。

世の中にはいろんな人がいるけれど、マサちゃんや叔母たちを含めてみんなが、安心して心穏やかに暮らしていける社会になるといい。それは、とてつもなく難しい願いだとはわかっている。だけど、私は決してあきらめない。それが、生きている人間の使命だと思うから。

【一般区分】◆青森県

個性(こせい)を受(う)け入(い)れる教育(きょういく)の挑戦(ちょうせん)

米塚(よねづか) 匠(たくみ)


「先生、ぼく、『普通』になりたい。」

これは、私の心を強く突き動かし、その後の人生観を大きく変えた一言である。

私は小学校の教員をしている。その中で、実に多様な児童と接してきた。勉強が得意な子がいれば苦手な子もいるように、活発で話し好きな子がいれば控えめでおとなしい子もいる。人はそれぞれ違う個性をもっており、百人の子どもがいれば百通りの個性があるのも当然である。個性に違いがあっても、優劣の差はない。たくさんの子どもと関わる教師として、すべての個性を大切に受け入れ、その成長を支えていくことが自分の務めだと、そう思いながら、これまで子どもたちと向き合ってきた。

しかし、本当に私はすべての子の個性を大切に、そして前向きに受け入れてきたのだろうか。そう思わされ、もう一度見つめ直さなければいけないと感じるきっかけとなったのが、先述した「ぼく、『普通』になりたい」という言葉だった。

この言葉は、私の学級に在籍していた、発達障がいを抱える男の子がふと口にしたものだ。その子は、学校生活の中で頻繁に落ち着きを失い、他の子どもたちと衝突することがよくあった。授業中に突然立ち上がって教室を飛び出すこともあった。そのたびに私は彼を指導したり、追いかけて教室に戻るよう説得したりしていた。私は、この行動が正しいものだと思っていた。しかし、今改めて考えると、それは単なる私の思い込み、もしくは自己満足でしかなかったのではないかと感じる。私はただ、学級全体の集団行動を整えることばかり意識しており、一人ひとりの子どもの本質を理解しようとしていなかった。頭では「個性を大切に」と思っていても、それを実行できていなかったことに初めて気がついた。結局、その子に対して無意識のうちに「普通」ではない接し方、悪い意味での「特別扱い」をしてしまっており、その子もそれに気づいていたのだと思う。「ぼく、『普通』になりたい」という言葉には、私が理解しきれなかった深い孤独と不安が隠れていたのだと痛感した。

その日の休み時間、彼と個別に話す時間を取った。すると彼は、「どうしてぼくだけ違うんだろう」と泣きながら話した。私は、胸が締め付けられる思いがした。同時に、今の自分のままではこの子の心を癒やすことはできないと感じた。もっと正面から、そして心の底から本気で向き合い、「彼そのものの個性」をはっきりと理解した上で、その良さを認めてあげなければ。彼の本音に触れ、私はそう強く感じた。

その後、彼とのコミュニケーションを見つめ直し、彼の気持ちに寄り添う努力を続けた。彼の興味や好きなこと、嫌なことをより細かく把握するために、彼との対話を重ねた。また、彼が授業中に困難を感じる場面についても、学級全体でどのようにサポートできるかを考え、環境を調整することを試みた。彼の意見や提案を尊重し、時には彼の気持ちを代弁するような役割を担うことで、彼が自分の存在をより大切に感じられるように努めた。すると、少しずつ彼との心の距離感が縮まっていったような気がした。

それから数ヶ月後、私の異動が決まり、彼と別れることになった。その際、彼から手紙をもらった。そこには、「ぼくは、今まで何度も叱られたけれど、先生はぼくをちゃんと見て、心から叱ってくれました。叱られるのは嫌だけど、少し嬉しかったんです。」と書かれていた。私は、涙が溢れてきた。彼との向き合い方が間違っていなかったと、少しだけ自信をもつことができた。そして、これからも一人ひとりの個性を大切にすると誓った。

彼の言葉、そして彼の存在から、多くのことを学ばせてもらった。その中で私が今感じていることは、無意識に根付いている偏見と向き合う必要性だ。最初の頃は「この子はどうせできないから」というような偏見が、私の中で無意識にあったのだと思う。そこに悪意はないのだが、似たような偏見をおそらく多くの人が無意識にもっていると感じる。そしてそれは子どもも同じである。だからこそ、私はこの偏見をなくすための教育を実践したいという思いが強くなった。

しかし、この教育を実現するのは簡単ではない。例えば、「障がい」というテーマそのものに触れるのが難しいという問題がある。このこと自体が無意識の偏見の表れであるが、アプローチを誤ると、逆に障がいを抱える子を傷つけてしまう可能性がある。例えば、知的障がいを抱える子が在籍する学級で、その子の特性も理解しないまま「あの子は障がいがあるから大変だ、みんなで支えよう」と伝えても、かえっていじめを助長してしまうことがあるし、本人が「話してほしくなかった」と感じてしまうこともある。だからこそ、障がいをみんなで理解し受け入れるには、「その子の本質を理解しようとする、認めようとする姿勢と意識」が大切だと改めて思う。教師としてどのような教育ができるか、周囲に対してどのようなアプローチが適切かを見極めるために、その子の心と真剣に向き合うことが必要だ。

今、私にはとある目標がある。それは、目の前の子ども一人ひとりを大切にし、彼らの個性を伸ばしていくと心に誓いながら、将来的には学級や学校の枠を越え、市町村、県、そして日本に生きるすべての子どもたちが安心して過ごせる学校環境をつくる、とういうものだ。この目標は途方もない夢物語であると思われるかもしれない。しかし、私はこの目標をこれからももち続けると心に決めた。そしていつの日か、障がいを抱える子もそうでない子も、全員が笑顔で安心して生きることができる社会を実現させたい。

※このほかの入賞作品は、内閣府ホームページでご覧いただけます。

※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。

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