付録11 令和7年度「障害者週間」
「心の輪を広げる体験作文」及び「障害者週間のポスター」
受賞者/入賞作品
| 最優秀賞(内閣総理大臣表彰) | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | さいたま市 | 吉本 りさ | さいたま市立東大成小学校 | 5年 | 人間のカベ |
| 中学生 | 熊本県 | 笹原 遥 | 熊本県立黒石原支援学校 | 3年 | ありのままの私を受け入れてくれたあなたへ |
| 高校生 | 熊本市 | 笠立 絵莉 | トライ式高等学院(熊本駅前キャンパス) | 2年 | 障害とともに |
| 一般 | 和歌山県 | 栗生 智津子 | ― | ― | 日常 |
| 優秀賞(内閣府特命担当大臣表彰) | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | 埼玉県 | 石川 周 | 三郷市立新和小学校 | 5年 | ぼくの大切な思い出 |
| 愛知県 | 加藤 旭 | 犬山市立楽田小学校 | 3年 | あたらしく知ったこと | |
| 北九州市 | 能美 にな | 明治学園小学校 | 6年 | 晴れの日を目指して | |
| 中学生 | さいたま市 | 高橋 潤矢 | さいたま市立日進中学校 | 1年 | 色覚異常だから見える世界 |
| 京都府 | 藤枝 夏樹 | 長岡京市立長岡第三中学校 | 2年 | ハードルではなく特徴なんだ | |
| 長崎県 | 美貴 優里 | 純心中学校 | 3年 | 支え合いの温かさ | |
| 高校生 | 群馬県 | 齋藤 海空 | 群馬県立吾妻中央高等学校 | 2年 | 障害があってもなくても |
| 徳島県 | 新開 宥斗 | 徳島県立鴨島支援学校 | 2年 | 僕の住む世界 | |
| 長崎県 | 宮本 紗希 | 学校法人向陽学園向陽高等学校 | 1年 | 見えない苦しみを知るということ | |
| 一般 | 大阪府 | 糀谷 終一 | ― | ― | 人は誰かの支えになれる |
| 熊本県 | 田口 慎一郎 | ― | ― | 私は障害とともに生きていく | |
| 徳島県 | 中西 健也 | ― | ― | 挑戦 | |
| 佳作 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | 鹿児島県 | 有川 琥晴 | 伊佐市立菱刈小学校 | 2年 | ぼくのだいじないとこ |
| 千葉県 | 板谷 淳平 | 筑波大学附属聴覚特別支援学校小学部 | 6年 | 「違いを認め合うということ」 | |
| 横浜市 | 加邊 誠一郎 | 横浜市立綱島東小学校 | 4年 | 手話とふれあって | |
| 和歌山県 | 永井 来都 | 有田川町立鳥屋城小学校 | 4年 | ぼくにもできること | |
| 岐阜県 | 横井 晶帆 | 多治見市立笠原小学校 | 6年 | パラスポーツと私~まりちゃんとの出会い | |
| 中学生 | 香川県 | 足立 安優 | 高松市立木太中学校 | 3年 | 「言葉ではなく心で」 |
| 東京都 | 荒巻 沙南 | 学習院女子中等科 | 3年 | 「他者を思いやる」 | |
| 群馬県 | 市川 いろは | 太田市立東中学校 | 1年 | 世界一大嫌いで宇宙一大好き | |
| 仙台市 | 伊藤 菜那子 | 宮城教育大学附属中学校 | 1年 | 広がる弟の世界 | |
| 鹿児島県 | 大山 凌太朗 | 鹿児島市立紫原中学校 | 1年 | 音のない世界 | |
| 高校生 | 沖縄県 | 榮門 和音 | 沖縄県立前原高等学校 | 2年 | 特別支援学級へ通う生徒への偏見について |
| 大阪市 | 尾崎 結花 | ルネサンス大阪高等学校 | 2年 | バスの中で見つけた優しさ | |
| 茨城県 | 菊地 心愛 | 茨城県立鉾田第一高等学校 | 3年 | 特別じゃなくて普通に | |
| 静岡市 | 櫻井 彩葉 | 静岡県立静岡商業高等学校 | 3年 | プールで出会った女の子 | |
| 滋賀県 | 野口 晴歌 | 学校法人角川ドワンゴ学園N高等学校 | 2年 | わたしの声が届く場所 | |
| 一般 | 広島市 | 越智 尚 | ― | ― | 心の輪が広がったお父さんのお話 |
| 石川県 | 久保出 薫乃 | ― | ― | ありがとうって伝えたい。 | |
| 大阪市 | 佐野 舞香 | ― | ― | 障がいの有無にかかわらず対等に人と向き合える人との出会い~私を変えてくれた大切な支援者の人とのお話~ | |
| 三重県 | 西村 有美 | ― | ― | 融通無碍な世の中 | |
| 千葉県 | 藤岡 倫奈 | ― | ― | 今を生きる | |
| 最優秀賞(内閣総理大臣表彰) | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | 長崎県 | 木村 咲音 | 大村市立放虎原小学校 | 5年 | みんなでスポーツ |
| 中学生 | 栃木県 | 早乙女 奈穂 | 栃木市立栃木東中学校 | 1年 | 私があなたの目になるよ |
| 優秀賞(内閣府特命担当大臣表彰) | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | 宮城県 | 新田 芽以 | 美里町立不動堂小学校 | 6年 | ぼくもできるよ |
| 中学生 | 愛媛県 | 渡邉 梨衣奈 | 新居浜市立東中学校 | 3年 | 最高の打席 |
| 佳作 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 区分 | 県・市 | 氏名 | 学校名 等 | 学年 | 作品名 |
| 小学生 | 相模原市 | 大野 遥琴 | 相模原市立向陽小学校 | 2年 | こころは晴れだね |
| 岐阜県 | 中村 嶺太 | 岐阜大学教育学部附属小中学校 | 4年 | Hand in Hand, Thank you | |
| 横浜市 | 平位 芽衣 | 横浜市立上矢部小学校 | 6年 | だれもが全力で | |
| 青森県 | 山内 類 | 青森県立青森第一養護学校 | 4年 | みんなとたっきゅうバレー | |
| 静岡市 | 脇 玲美奈 | 静岡市立安東小学校 | 5年 | みんなが主役のパン屋さん | |
| 中学生 | 長崎県 | 須加﨑 美緒 | 佐世保市立広田中学校 | 2年 | 夢は現実に |
| 山口県 | 瀨戸 希 | 岩国市立岩国中学校 | 2年 | 2つの支え | |
| 熊本県 | 深浦 愛菜 | 和水町立菊水中学校 | 2年 | 挑戦の一打 | |
| 静岡市 | 宮原 沙奈 | 静岡市立賤機中学校 | 2年 | 駆け抜けろ! | |
| 名古屋市 | 安江 茜里 | 名古屋市立神沢中学校 | 2年 | 心をひとつに | |
(受賞者五十音順)
最優秀賞受賞
【小学生区分】◆さいたま市
人間(にんげん)のカベ
さいたま市立東大成(ひがしおおなり)小学校 五年
吉本(よしもと) りさ
今でも私は一組の家族に感謝しています。それは二年前のことです。その日はお母さんとお姉ちゃんと商業施設に買い物へ来ていました。 二階から三階へ移動するのにエスカレーターへ向かっていた時です。
突然お姉ちゃんの大発作が起きてしまいました。
「りさ、お姉ちゃん発作だから、この場所で横にするから止まってて。」
とお母さんが大きな声で言いました。私はあわてて振り返ってお姉ちゃんを見ました。
「大変だ、沢山の人の前で倒れちゃった。」
と思いました。
休日で多くの人が行きかっていたので、横目で見て通り過ぎる人、怖い物を見た表情の人が多くて悲しい気持ちになりました。
「どうしよう。」
その時、
「私は看護師です。何かお手伝いします。
救急車呼びますか。」
とお姉さんがお母さんに声をかけてきました。続けて一組の家族が私に声をかけてくれました。
「私達は何もできません。ただ回りの人から見えないように様に壁になるので、お姉さんの発作が戻るまで立っているので気にせず対処して下さい。」
とすごく気になって悲しい気持ちになっていた私ですが、その言葉でほっこりとして、あたたかい気持ちに変わりました。
お姉ちゃんには持病があり障害者手帳を取得しています。バックにはヘルプマークをつけています。
毎月大きな発作が起き、時には転倒してケガをしてしまいます。見ていて私は辛いです。早くお姉ちゃんに合った薬が開発され、発作がなくなる事を祈っています。
病気がありますが、私にとって世界で一人の大切なお姉ちゃんで大好きです。
そんなお姉ちゃんのピンチに、多くの人から見えない様に立って下さった家族の方に感謝しています。
見て見ぬふりをする人がほとんどでしたが、「声をかけてくれた事、そして壁になってくれて心強かったです。何も出来ないと言われてましたが全く逆です。
今後私もその様な場面にそうぐうした時は、自分に出来る事でお手伝いしたいと思います。あの時はバタバタしていてしっかりとお礼が言えませんでした。
「人間の壁、とても大きく、高い壁でした。そしてあたたかい壁でもありました。本当にありがとうございました。」
と伝えたいです。
【中学生区分】◆熊本県
ありのままの私(わたし)を受(う)け入(い)れてくれたあなたへ
熊本(くまもと)県立黒石原(くろいしばる)支援学校 三年
笹原(ささはら) 遥(はるか)
私という存在を消されていくような日々だった。当時不登校真っただ中、暇を好物に、どんどん育っていく不安と焦りを持て余していた私にとって、平日の朝から夕方にかけての間、家で退屈にしている時間というのは、本当に心をむしばむものでしかなかった。ひとりで外出する元気もなく、ただただ布団の中で、時間がすぎるのをじっと待っていた。そんな私を見かねた母親は、私の居場所が必要だと判断して、近所のデイサービスに通所させた。
デイサービスの水曜日の活動は、茶道だった。私はそこで茶道の先生である「牧野先生」と知り合った。牧野先生は、とても教えるのが上手で、何度でも丁寧に作法を教えてくださった。そのうえ、とにかく優しく穏やかな方で、私が正座に耐えられず、プルプルしているのを見ると「いいのよ。足を崩しても!無理しないでね。」と慌てておっしゃったことも少なくなかった。たまに「家の片付けをしていたら見つけたの。私はもう使わないから、良かったら。」と言って、とても綺麗な髪飾りをくださることもあった。私はすぐに牧野先生が大好きになった。
ある水曜日、私はいつものように牧野先生と向かい合ってお茶の稽古をしていた。その時、ふと、牧野先生は、私の手を取って「まあ、可愛いおてて。柔らかくて、温かいですね。やっぱり若いからかしら。」と微笑みながらおっしゃって、私の手なんかよりも、ずっとずっと温かく優しいその手のぬくもりを移すように、何度も何度も私の手を撫でてくださった。私は思わず泣きそうなって、「ありがとうございます。」と言ったきり、話すことができなかった。
不登校になってから、人に優しくされたことはきっとたくさんあった。けれども、私にとって、その優しさの全ては「私を学校に行かせるためのもの」としか思えず、素直に優しさとして受け取ることができなかった。どんなに優しい言葉をかけてもらったとしても、今の、「不登校の私」を受け入れてくれる人はいないと、捻くれるばかりだった。
そのうえ私は、幼い頃から、容姿のことでからかわれることが多かったので、「ああなるほど。私は笑われるような見た目をしているのだな。」とばかり思って、容姿には自信がもてなかった。特に手は、相当ひどいものなんだろうなと思っていた。
今では、そんなことあるわけないと思うことができている。容姿についてのからかいも、私を苦しめようと思って言われたものばかりではなく、むしろその逆だったと思うことができる。でも、当時の私にとっては、その記憶たちは、生ぬるい地獄を加速させる呪いのようなものに他ならず、「忘れてしまおう、忘れてしまおう」と強く念じているうちに、本当に様々なことを忘れてしまい、あの頃受けた優しさのほとんどを、もうほぼ思い出すことができないでいる。
そんな苦しい思いを抱いていた時、牧野先生は、私のその笑われてしまうような醜い手を、わざわざあのきれいな両の手で、離さないとばかりに握りしめてくれた。そして、「かわいい」「やわらかくて温かい」と言って、大事なものを撫でるような手つきで撫でてくれた。驚いて、思わず見上げた牧野先生のお顔は、ただただ愛おしさに溢れていたものだから、忘れることなんてとてもできなかった。あのときの私は、どんなに言葉を尽くそうとしても、きっと「ありがとうございます。」としか言えなかっただろうなと思う。
あの時の牧野先生の言葉と手のぬくもりからは、当時私が感じていたたような歪んだ優しさや、呪いになるようなものを全く感じなかった。思わず見上げたそのお顔は、眉を下げてただただ愛おしさに満ちていた。ひたすら胸に込み上げてくるものを抑えることができず、家に帰ってから、牧野先生の言葉を何度も反芻しては泣いた。
それから数年後。私は熊本再春医療センターへの入院が決まり、とうとう最後のデイサービスの水曜日を迎えることとなった。牧野先生は、いつも通り私がお茶を点てるところを黙って見ていらっしゃった。稽古が終わると、牧野先生は、「あなたは本当によく頑張っている。本当に。本当よ。私が言うんだから間違いないわ。この歳で入院するという大きな決断をしたのよ。他の人ではそう簡単にできないわ。どうか自分を認めてあげてね。けれど、きっとどうしても辛くて逃げ出したくてしょうがないときがあるわ。とっても頑張っているあなたが、どんなに頑張っても、どうしようもないときが、きっとあると思うの。そういうときは私の家に来ていいからね。逃げ出していいからね。あなたのお話を聞いて、お茶を点てることしかできないけれど、それでもいいならいつでも来ていいからね。いい?約束よ。あなたは覚えるのが早いから、教えるのが楽しかったわ。ありがとう。」と言ってくださった。
お礼を言わなければならないのは私のほうだ。本当に、何度感謝しても足りないほど感謝している。 私がその言葉に一体どれほど救われたことか。ありのままの私を認めてくれる人なんていないと思っていた。本当の優しさなんてものは、この世に存在しないと思っていた。でも牧野先生は、あの醜い私の手をとって、「かわいい」と言ってくださった。こんな自分に、「辛いことがあったらうちに来なさい」とわざわざ言ってくださった。何度その言葉を頭の中で反芻したことか。あなたが、最後にかけてくださったその言葉が、いかに私の心を照らしているか。私が今まで生きてきた十五年という月日の中で、あなたの言葉はありえないほどに輝いて、私が前に進む力となっている。
【高校生区分】◆熊本市
障害(しょうがい)とともに
トライ式(しき)高等学院(熊本駅前(くまもとえきまえ)キャンパス) 二年
笠立(かさりゅう) 絵莉(えり)
「気にし過ぎ」「考え過ぎ」
私は今までどれ程このような言葉を掛けられただろう。そしてその度に悔しくなり、心が苦しくなった。
私は強迫性障害という不安障害を患っている。強迫性障害とは強い不安や恐怖、こだわりがあることで「やり過ぎ」ともいえる考えや行動をやめることが出来ず、日常生活に支障が出てしまう病気のことで、およそ百人に一人から二人程度が経験するといわれている。具体的には不潔恐怖や加害恐怖、確認行為や儀式行為、縁起脅迫や物の配置、対称性などのこだわりの症状が出る。私が初めて強迫性障害の症状を経験したのは小学一年生の頃で、物の配置や対称性へのこだわりが強く自分が決めた並べ方で物を整理しないと気が済まなかった。この症状は今も続いている。小学三年生の頃には家で一日に何回もしゃがんでしまう儀式行為があった。当時はなぜ自分がしゃがむという行動をしてしまうのかはっきりとは分からず、しゃがまないと気持ちが落ち着かなかった。家族からはいつも不思議に思われていた。だが数ヶ月経つとしゃがむ儀式行為は無くなり、次第にこのことも忘れていった。再び強迫性障害の症状が出始めたのは、中学校に入学した時だった。私は小学生の頃からクラスで騒いだり暴れたりして人や机にぶつかってきたり、陰口を言ったりする人達がとても怖く、内気な性格もありクラスにあまり馴染めていなかった。中学校でも小学校でのクラスメイトと変わらなかったので、私は中学校でも小学生の頃と同じように嫌な思いをするのがとても怖く、入学する前から不安に押し潰される思いだった。その上、母や姉から「中学校は厳しい」と聞いていたり、部活動や定期テスト、小学校とは違う校則やルール、行事など初めて経験することが多かったこともあり、中学校生活は不安なことだらけだった。この抱えきれない不安から確認行為がひどくなり、何日も前から学校に持って行く物や時間割の確認を何度も繰り返していた。だが少しずつ中学校生活に慣れていき、確認行為の時間や回数は減っていった。中学二年生の頃、今度は縁起脅迫の症状が出始めた。本当は思っていないのに頭の中で勝手に悪口や暴言などが浮かんでしまい、その度にばちが当たりそうで怖く仏様に向かって気が済むまで謝っていた。謝っている間も悪口などが浮かぶので謝るのをやり直し、一時間くらい謝り続けていた時もあった。授業中や食事中などもこの症状は出続け、勉強や食事の手を止めて謝らなければ怖かったので何事にも集中することが出来ず、心の余裕も無くとても辛かった。だが中学二年生の十月頃から、私の学校生活での悩みや不安を知ってくださっていた担任の先生の勧めで学校でカウンセリングを受けるようになり、強迫性障害のことや学校生活で不安なことなどを話せるようになった。強迫性障害という病気があることを初めて知ったのもこの頃だった。この頃はカウンセリング以外で自分の悩みや不安を話す勇気が無かったのでカウンセリングの存在はとても大きかったし、今でもカウンセリングを勧めてくださった当時の担任の先生には感謝してもしきれない。そして中学校を卒業する時には保健の先生の勧めで精神科に通院するようになり薬も飲み始めたので、高校に入学してもこの症状は続いたが徐々に収まっていった。しばらく強迫性障害の症状は出ていなかったが、高校二年生の時に縁起脅迫、不潔恐怖、確認行為の症状が出てきた。誰でもするような行動をしたとしても何か悪いことが起こるのではないかという不安に襲われ、母にこの行動は大丈夫なのか確認することを毎日繰り返していた。また、手が汚れているのではないかと不安になって手を洗う回数が増えたり、ドアや窓の鍵を閉めてもちゃんと閉まっているか確認したりもしていて寝る前にこれらの症状が強くなったので寝る時間も遅くなり精神面だけで無く身体的にもきつかった。これらの症状は少し軽減されたが今も続いている。
私は強迫性障害を患って、周囲の人の不安障害に対する正しい理解や声掛けの大切さを強く実感している。声掛けの中で「気にし過ぎ」や「考え過ぎ」といった言葉はかえって不安障害をもつ方の心を傷 つけ苦しめることになるし、気にし過ぎたり考え過ぎたりしてしまうことは不安障害をもつ方のせいではなく不安障害の症状なのだ。そして不安障害は遺伝的要因もあるが周りの人や環境、強いストレスや過去のトラウマによって発症、悪化しやすい。これらを根本解決するのはとても難しいが、自分の悩みは不安を信頼出来る人に相談し自分の心を少しずつ労わることで不安障害の症状の緩和に繋がるかもしれない。障害をもつ方もそうでない方も誰もがたった一つの等しく尊い命を授かっている。だからこそ自分のことだけを考え自分を優先するのではなく、一人一人が常に皆んなの心を深く思いやる豊かな心を持ち、差別心、偏見を持たないことが社会の一員としてなくてはならないことであり、誰もが生きやすい社会をつくる。そして自分のこともしっかりと認め受け入れ、大切にすることも忘れてはならないことだ。また周囲の人の不安障害に対する正しい理解は、不安障害をもつ方々の自分らしさや人権を尊重する上で欠かせない。不安障害は身体障害や知的障害などと比べて詳しく知っている方が少ないのではないだろうか。不安障害はとても身近な病気である。一人一人が不安障害のことを正しく知り理解し受け入れることが、心や社会の調和に繋がると私は信じている。これは不安障害に限らずどんなことにも通じる。私は自分が置かれている環境の有り難さや周りの人の恩恵、命の尊さに感謝し、障害とともに一日一日を大切にして生きていきたい。
【一般区分】◆和歌山県
日常(にちじょう)
栗生(くりう) 智津子(ちづこ)
今年もこの季節がやってきた。夏から秋にかけて、発達検査を実施してもらい、保健、医療、福祉、教育、様々な分野の専門家から指導、助言をもらい、来年度はどこに所属しどのように過ごしていくのか、連携を取り決断していく。最終決定はもちろん親である私なのだが、息子のために時間をかけて一緒に考えてくださることに感謝をしている。
発達障害、自閉スペクトラム症で、場面緘黙症を併発している息子は、児童発達支援センターでお世話になっている。
今年は重要な一年だ。年長児である。小学校入学を控え、来年度はどうするのか。地域の小学校普通学級か、それとも特別支援学級か、あるいは特別支援学校か。どこの環境が合うのだろう…。息子と向き合う日々の中で考える。そして、ふとした時、他の大多数のお母さんは、こんな選択で悩まないのだろうな…。と、私の心に哀愁が漂う。子供の進路について、誰にもわかるはずのない未来を考え、悩む。どの進路を選んでも、メリット、デメリットがある。子供に合う一番の環境を模索しつつ、頭の片隅に常にあるのは障害者というレッテルだ。
世の中、多様性や個性が大事だと言われるようになってきているが、どうしても、社会には障害者は劣っているという風に考える層が一定数いることは明確なため、障害と聞くと拒否反応が出る。だから、子どもが発達障害だと診断された時、悲しくなったり、苦しくなったり、少し発達が遅れているだけで障害ではないと思ったりする。
しかし、重要なのはその視点ではないと、私は考える。障害があろうとなかろうと、息子は息子で、それ以上でも以下でもない。障害という言葉に惑わされはならない。
通常とは違うアプローチ方法で教育したほうが、より成長を促せる。子どもが安心して学び、成長するのに適した環境へ導き支援したい。その環境へ導くため、障害と名付け支援に繋げるというのが、福祉システムなのではないのかと、私は考える。
子どもがあたりまえに持つ、生きようとする力、探求心や成長への意欲は、健やかな成長と幸福への資源だ。その環境の一つが療育であり、福祉支援なのだと考えている。
ある日、息子と二人で水族館に行ったことがあった。海の生き物、川の生き物、興味津々、喜色満面になったのは、母親である私だった。
「見て見て!カニだよ、亀もいるよ。」
などと、息子に声をかけると、私が指をさす方向を見て、うなずいてはくれる。だが、反応は薄い。少しがっかりした瞬間、息子に声をかけられる。
「ママ見て!」
ようやくか、と思った息子の指の先にあったもの…。
「非常出口がある。」
薄暗い館内、非常出口の緑色が輝くように光っている。
「あそこにも、こっちにも。非常出口がいっぱいある。」
水族館に来て、非常出口を見て喜ぶことは、決して悪いことではない。マイノリティなだけである。
息子は、非常出口やトイレなどのピクトグラムが好きで、興味を持っているようだ。
ピクトグラムが広まった背景は、言語の壁を越えるためだったそうだ。
言語や文化、年齢に関わらず、誰もが瞬時に情報を理解し、安心して過ごせるようにする。ピクトグラムには、そんな思いがある。言葉の壁を越え、より多くの人が安全に社会生活を送れるようにというユニバーサルデザインの考え方、理念と共通する。
場面緘黙症という言語の壁の特性をもつ息子が惹かれるとは、何だかとても感慨深い。
成長の仕方は人それぞれ。発達の過程もそれに要する時間も十人十色だ。
一人一人が違う人間なのだから、そんなことはあたりまえで、平均枠からはみ出したから、良いとか悪いということではない。他の誰かと比べて劣等感を持つ気持ちは、もちろん経験があるしわかるのだが、あえて言う、そんなのナンセンスだ。
自分は自分で他人は他人、価値観も違うし考え方も違う。優劣はないものだ。違いを認め合う関係でいたい。
障害者はマイノリティ。だからこそ孤独感を抱くこともあり、苦難や苦労も多いことだろう。しかし、その苦難は不幸ではなく、生きていく上でのエッセンスであり、彩りである。
障害物レースの障害がなかったら、あっという間にゴールだ。障害に四苦八苦しながらも、それすら楽しんでゴールを目指してほしい。
目の前で生き生き遊ぶ子どもたちへ、ありのままで素晴らしい。そんなあなただから美しい。そんな気持ちを胸に抱き、今日も見守っている。
優秀賞受賞
【小学生区分】◆埼玉県
ぼくの大切(たいせつ)な思(おも)い出(で)
三郷(みさと)市立新和(しんわ)小学校 五年
石川(いしかわ) 周(しゅう)
ぼくはしゅう団行動が苦手だ。クラスの友だちにちょかいをだされるのも苦手だ。記おくがすぐなるし、薬をのまないと頭がもやもやする。ぼくは自へいしょうだ。
小学一年生の8月に小笠原に引っこした。三郷の小学校とちがって海が見えて校庭が広く木や花がたくさんはえていた。三郷ではひまわり学級だったけど、小笠原ではふつうのクラスに入ることになったので楽しみだった。
小笠原小に入ってすぐ友達ができた。同じ一年生だけじゃなくいろんな人と友達になれた。みんなフレンドリーでやさしい。学校から家の帰り道にある会社のおじさんたちとも友達になってよくはなした。ぼくは名前をおぼえることが苦手だったけど一年生の最後にはみんなの名前をおぼえることができた。
ぼくがお母さんから自へいしょうだと教えてもらったのはこのころだ。どうしてみんなみたいに勉強ができないのか聞いたら教えてくれた。なるほどなと思った。仲のいい友達に話したけどだれもからかったりばかにしなかった。ぼくが苦手なことはたすけてくれたし、しずかにしなくちゃいけない時はおしえてくれた。はじめてテストで百点をとった時はみんながほめてくれてとてもうれしかった。
小学三年生の夏、お父さんの転きんで三郷にかえることになった。最初からわかっていたけどさびしかった。
小笠原のさいごの日、みんなが見送りに来てくれた。小笠原ではさよならじゃなくて「いってらっしゃい」と見送り、レイをプレゼントする。もらった人は船からレイを投げてレイが島に流れつくとまた小笠原にかえってこれるらしい。ぼくはもらったたくさんのレイを海に投げた。またもどってこれるように。
三郷にもどってからたまに思いだす。空がきれいな時や心の休けいしたい時。新しい友だちができたし毎日がんばっている。けれどまた、大切な島の友だちにあいにいきたい。
【小学生区分】◆愛知県
あたらしく知(し)ったこと
犬山(いぬやま)市立楽田(がくでん)小学校 三年
加藤(かとう) 旭(あさひ)
夏休みのはじめ、ちょうこくてんへ行きました。ぼくは、気になる物があるとすぐにさわりたくなります。ママが、
「いろんなちょうこくにさわれるよ。」
と、言ったのでぼくは、やったぁと思ってわくわくしていました。
そこは、ママの学校の先生が友だちと来ていました。あと、三年生くらいの男の子や、白いつえを持ったおじさんがいました。
その日は、目が見えない人も楽しめる日でした。目が見えない人は、ちょうこくが見えないので手でさわって、形を感じます。ぼくは、目で見たり、気になるところをさわったりしていました。
ぼくは、ママの先生と、同じグループで、まわりました。ちょうこくのしょうかいする、お兄さんも、いっしょでした。ぼくは先生に
「三年のかとうあさひです。」
と、自こしょうかいを大きな声で言いました。先生は目がまったく見えないそうです。心の中で見えないってどんな感じかなと思いました。
一つ目のちょうこくは、大きなサイでした。ぼくも、見てすぐわかったけどそれと同じくらい速く先生もさわって、
「これは、サイ。サイのツノで分かった。」
と、言ったのでおどろきました。ぼくもその後、目をとじてさわってみたけど、さらさらしてるぐらいしか分かりませんでした。
先生はさわりまくってぼくが気づかないことも、たくさん、教えてくれました。目で見るより、さわる方が気づくことが多いのかなぁと、思いました。ぼくも、まねをしてさわりまくっていたら、顔が近くなって、いいにおいに気づいて、先生につたえました。先生も
「本当だね。」
と、言ってくれて、うれしかったです。
先生と同じグループでちょうこくをさわって、分かったことがあります。先生の友だちは、目の見える人で、先生がさわっている時しずかにしていて、分からないって言った時だけ、ヒントをだしたり教えたりしていたことです。目が見えない人に答えを教えると、わくわくがなくなるからだと思いました。ぼくだって、まん画のはん人を見る前に言われたらいやだから、同じことです。先生と先生の友だちは、たくさんおしゃべりしていて、すごく楽しそうでいいなと思いました。
どうやって話したらいいか、分からなくて、声がかけられなかったけど、べつのグループにいた、あの男の子といっしょに、ちょうこくをさわってみたかったなぁと、思いました。
ぼくは、はじめて、目の見えない人といっしょにすごしました。すごしてみて分かったことがたくさんあります。どうしたらいっしょに楽しくすごせるか、もっと知りたいです。もっといっしょに遊んでみたいと思いました。
【小学生区分】◆北九州市
晴(は)れの日(ひ)を目(め)指(ざ)して
明治学園(めいじがくえん)小学校 六年
能美(のうみ) にな
「一つだけ無人島に持っていけるなら、何?」
何気なく聞いた私に、母は「眼鏡」と即答した。眼鏡がなければ動くことすらままならないというのだ。そんな極端なと笑い飛ばした私に、数日後、母は視覚障害の体験眼鏡を二種類渡した。一つは白いフィルムが貼ってあり、白濁体験ができる眼鏡。もう一つは先が小さくあいた黒い四角すいのレンズで、視野が狭くなった見え方が体験できる眼鏡。
かけた瞬間、怖いと思った。物の位置を把握しようとか、どのように動こうかとか考える以前に、とにかく怖いのだ。慣れた部屋の中のはずなのに、怖くて一歩も動けなかった。これが、私が視覚障害に興味を持ったきっかけの出来事だ。
調べているうちに、視覚障害の方のお話を聞く機会があった。行政支援の話、歩き方の話など聞く中、気になることがあった。「白杖をもつことに抵抗がある」という言葉が、何度も出てくるのだ。私はこれまで、白杖は積極的に持つべきだと感じていた。白杖は他者からはわかりにくい視覚障害を可視化するので、周囲の人の協力を得やすくなると思っていたからだ。だから、この思いを知ったときはとにかく衝撃を受けた。かわいそうだと思われたくない、白杖を持つことはもう治療に希望が持てないと自分でも認めてしまうことに思える、そんな思いがあることを初めて知った。さらに、周囲の人に見守っていてほしいけれど「普通の人」だと思われたいという葛藤があることも知った。そしてそんな矛盾はどうしようもないとわかっているからこそ、口には出せないと悲しそうに話す姿を見て、胸がつぶれるような気持ちになった。
視覚障害者、点字という言葉をきいたことがあるだろうか。この二つの言葉はほとんどの人が知っていると思う。視覚に障害がある人を示す言葉と、エレベーターなどにある凹凸でできた文字を表す言葉だ。ではセイガンシャ、スミジという言葉はどうだろう。この言葉は、先ほどの二つの言葉に対応している。視覚に障害がない人を晴眼者、点字ではなくペンや鉛筆で書ける文字を墨字とよぶのだ。この言葉をはじめて知った時、障害を持たない人を「正常」と言わないことに、私はまず感動した。そう、視覚に障害があるということは、異常とイコールではないのだ。
では現在の社会で、晴眼者と視覚障害者を区別しているものは一体何なのだろう。もしかすると、科学技術にも関係があるかもしれない。世界における低視力の最大の原因は、未矯正屈折異常だといわれている。つまり眼鏡やコンタクトレンズが手に入らないことによる視覚障害を持つ人が、世界中にはたくさんいるのだ。一方で、私のクラスでは約半数の友人が眼鏡をかけている。私もつい最近、視力検査で眼鏡の作製を勧められたばかりだ。それほどに、今の日本では眼鏡やコンタクトといった屈折矯正の技術は生活になじみ、入り込んでいる。おしゃれ眼鏡やカラーコンタクトなどの文化も出てきて、もはや眼鏡やコンタクトレンズは、視覚のバリアフリーアイテムからユニバーサルデザインへと進化を遂げた。眼鏡をかけているから視覚障害者だと思う人は、今の日本にはいないだろう。屈折矯正技術の発達と普及が、日本における視覚障害という壁の一部を解消したのだ。このように、科学技術の発達と普及は、障害を克服するための重要分野の一つといえるだろう。
障害のある方の心の中にある曇りを、少しでも晴らしていける技術を確立し、普及させていくこと。これが今、晴眼者と言われている私たちの使命だ。
全ての人が気兼ねなく気持ちを表現できるような、視界も、気持ちも、明るくなるような晴れの日を目指して、私は進んでいきたい。
【中学生区分】◆さいたま市
色覚異常(しきかくいじょう)だから見(み)える世界(せかい)
さいたま市立日進(にっしん)中学校 一年
高橋(たかはし) 潤矢(じゅんや)
ぼくは、先天性色覚異常で、色の見え方が多くの人たちとはちがっている。
先天性色覚異常の人は決して少なくはなく、日本人では男性の約二十人に一人、女性の約五百人に一人がこの障害を持っている。色覚異常者はLEDでない信号や、お肉の焼き加減などの判別が難しく、絵の具や色鉛筆などの色の区別もつきづらい。ぼくは小さいころから、信号は色ではなく光っている位置や形を覚えて止まったり渡ったりしているし、お肉の焼き加減や絵の具などの色は、家族や友達に教えてもらうようにしている。
また、色覚異常者は職業にも多くの制限がある。ぼくはそのために、宇宙飛行士になりたいという将来の夢をあきらめなくてはいけなくなった。小学一年生の時だった。落ち込んでいたぼくに、母が言ってくれた言葉が、今でも忘れられない。
「ゴッホって、色覚異常だったかもしれないんだって。」
ゴッホはぼくが大好きな画家だ。母は続けた。
「もしかしたらあなたは、ゴッホが本当に描きたかった色が見えているのかもしれないね。いいね。」
その言葉を聞いたとき、心がふっと軽くなった気がした。自分の見ている世界が、もしかしたら特別なものなのかもしれない。そう思うと、悲しさが少しずつ消えていき、前を向く気持ちがわいてきた。色覚異常についての本を読んだり、カラーユニバーサルデザインについて勉強したり、自分の障害を理解して受け入れていくようになった。
二年前から、ぼくは色覚異常についての研究をするようになった。色覚異常者でも色の判別がしやすい「カラーユニバーサルデザインクレヨン」を製作したり、「焼き肉の色を判別しやすくなるライト」を研究したりして、発表の機会を得た。すると、友達や先生方はとても興味を持って聞いてくれて、中には、
「家族が色覚異常だから、どんな研究なのか 気になって見に来た。」
と言ってくれる人もいた。ぼくの研究や経験が、誰かの役に立つかもしれないと思い、とてもやりがいを感じた。
このようにして、ぼくは最近まで、色覚異常者の色の判別能力の向上を目的として研究を続けてきた。しかし、色覚異常には様々なタイプがあり、その中には色をほとんど判別できないものもある。色覚異常者自身の工夫だけでは限界があると、次第に感じるようになってきた。やはり、多くの人に色覚異常という障害について知ってもらい、カラーユニバーサルデザインのような配慮が広がっていくことは、重要だ。その考えから、ぼくは現在、色覚異常について楽しく学べるゲームをスクラッチで制作している。完成したら公開して、多くの人に遊んでもらいたいと考えている。
色覚異常は軽度のものも多く、社会では深刻な障害として見なされてはいない。しかし、不便や困難を感じている人はたくさんいる。ぼくは、色覚異常者が快適に安全に生活していける工夫や、カラーユニバーサルデザインのような配慮を広める努力を、これからも続けていきたい。そう思えるのは、あの日の母の言葉と、ぼくの障害を温かく支え、見守ってくれる家族、友達、先生方など周りの人たちのおかげだ。色覚異常で産まれたからこそ、ぼくは多くの経験を積むことができたし、これからの目標も尽きることはない。
つい先日、ぼくは母にこう言った。
「お母さん、ぼくを色覚異常に産んでくれてありがとう。」
母は驚いた顔をして、それから、
「そんなことを言ってくれる子は、なかなかいないだろうね。」
と嬉しそうに言った。
【中学生区分】◆京都府
ハードルではなく特徴(とくちょう)なんだ
長岡京(ながおかきょう)市立長岡(ながおか)第三(だいさん)中学校 二年
藤枝(ふじえだ) 夏樹(なつき)
私の姉は車椅子で生活している。姉が中学生の時病気がもとで両足が動かなくなってしまった。
姉も私たち家族も急に車椅子の生活になってとても大変なことが多かった。段差のある所には行けないので階段しかない場所やお店に行くことはできない。電車やバスに乗るにも助けが必要になった。どこに行くにも、何をするにも助けが必要で姉にとってはとても苦しい日々が続いた。
そんな中でも姉は中学へ頑張って通ってできることを一つ一つ増やしていった。もともと明るい性格の姉は、車椅子の姉を気にしない友達をどんどん増やしていった。そんな努カが実って姉は高校二年生の時に全校生徒千五百人の中から生徒会長に選ばれた。
自分が中学生になった今、私は部活や勉強で精一杯なので高校で生徒会長になるなんて考えられない。姉がどんなにすごいことを成し遂げたのかよく分かるようになった。
姉は更に努力を続け、毎日駅員さんにお願いをして電車に乗せてもらい、一人で大学に通えるようになった。
大学では仲間を集めてバリア体験カフェを運営するようになった。姉は買い物をする時に段差や高さで不便を感じていた。よく周囲を観察すると目の見えない人や耳が聞こえにくい人など、様々な障害のある人が日常で色々な不便を感じていることに気がついた。
それを友達に話すと「どんなことが不便か分からないから教えて欲しい」と言われたことがきっかけで、バリア(障害)を体験してみるカフェを運営することにした。バリア体験カフェはとても好評で、私も何度か訪れ美味しい飲み物をバリアを感じながら買う体験をした。目の見えにくい体験ではいかにメニューが読みにくいか分かった。耳が聞こえにくい体験ではやり取りのしにくさを味わった。色々な不便を知ることができて良かったと思う。
私はいつも仲間に囲まれていきいきと活動する姉を見て、姉にとって障害を越えるべきハードルではなく特徴にすぎないのだなと思うようになった。その特徴を武器にして、新しい視点を持って世の中の常識に挑戦し続ける姉をとても誇らしく思う。
私は平凡な中学生だけど、姉を通して新しい視点を持つことができたと思う。今できることを一生懸命にして、いつか姉に追いつき追い越せるようになりたいと思う。
【中学生区分】◆長崎県
支(ささ)え合(あ)いの温(あたた)かさ
純心(じゅんしん)中学校 三年
美貴(みき) 優里(ゆうり)
「どうして来たの?」
その一言が、私にとって大きな違和感でした。私が通っていた小学校には特別支援学級があり、特性のある子は通常学級と支援学級の両方に所属していました。ある日、その子が通常学級に来たとき、友達が嫌そうな顔で言ったのがこの言葉でした。
その出来事をきっかけに、インクルーシブに疑問を持つようになりました。そして、「もっと特性のある子のことを知りたい」という気持ちが芽生え、次第に将来の夢は支援学級の先生になることへと変わっていきました。
中学生になり、職場訪問で小学校に訪れたとき、先生から直接お話を伺いました。特性のある子に教育者としてどのような支援や働きかけをしているのかを真剣に語ってくださり、障害に対する社会の考え方が変わりつつあることも知りました。その経験を通して、私の夢はさらに確かなものになっていきました。
そして、今年の夏休み、私は放課後等デイサービスで四日間、特性のある子どもたちと生活をともにしました。そこは知的障害や発達障害、自閉症など内面的なハンディキャップを持つ子が通う小さな施設でした。二歳から小学生高学年までの子供と、カードゲームやアイロンビーズなどを通して一日中関わりました。
特に印象に残ったのは人生ゲームでのお金のやり取りです。私は「特性のある子は学習が遅れていることが多い」という先入観を持っていました。しかし実際には、銀行係を積極的に務めたり、複雑な両替を難なくこなしたりする姿があり、そのイメージは大きく覆されました。先生に聞いてみると、「子どものうちは見守ってくれる人が多いが、大人になるとそうはいかない。特性があるとさらにこれから大変なことがたくさんある。だからこそ、自分で選択し、自分で行動する力を育てることが大切だ」と教えてくださりました。デイサービスがただの預かり場所ではなく、一人ひとりにあった教育を行い、将来の自立につなげる場であることを強く実感しました。
私も先生の姿勢を意識し、子どもに「何をしたい?」と聞いたり、選択肢を示したりして、自分で考え選ぶ機会を尊重しました。しかし、振り返ると大きな反省点がありました。それは最後まで任せきれなかったことです。工作をするとき、時間がかかる子に「代わりにしようか?」と声をかけてしまったのです。本来なら完成まで見守り、達成感を味わわせることが大切でした。手助けは一見優しさに見えますが、それが必ずしも相手のためになるとは限らないと気づき、深く反省しました。
また、先生の紹介でペアレントメンターの方にお話を伺いました。自分の子どもの特性や子育てでの苦労、そして「学校やデイサービス、病院が真剣に自分の子供に向き合ってくれた」という思いを聞き、「教育」は先生だけでなく、家庭や地域、さまざまな人の思いで成り立っているのだと実感しました。
今回の活動を通して、私は「教育とは何か」を考えることができました。授業がある学校だけでなく、デイサービスでも一人ひとりにあった学びや支援が行われ、家庭でも保護者が子どもの一番の応援団長として見守っている。教育は、多くの人が関わり、心を寄せ合うことで成り立つのだと気づきました。
私は今回の研修で、教育に関わる人々の思いや繋がりを通して「心の輪の広がり」を間近に感じました。そしてその輪の中に、将来は自分も加わりたいと強く思いました。もちろん反省点もあります。だからこそ今後は教育について学ぶだけでなく、自分自身を見つめ直すことも大切にしていきたいと思います。これからも私自身も周囲の人々に見守られ、支えられながら、努力をし、心の輪を広げていきたいです。
【高校生区分】◆群馬県
障害(しょうがい)があってもなくても
群馬(ぐんま)県立吾妻(あがつま)中央(ちゅうおう)高等学校 二年
齋藤(さいとう) 海空(のあ)
「今日は、日直の仕事を手伝ってくれてありがとう」と書かれた付箋をもらった。
私の中学校の友達に、他人と話すことが難しいAちゃんがいた。Aちゃんは特別支援学級に通っていた。内気な性格で、あまり自分から思いや考えを伝えない子だったが、こちらから質問などをすると、うなずいたり、紙に書いたりして伝えてくれるため、いつもそうやってコミュニケーションを取っていた。
そんなAちゃんは、緊張して人前に出ることに慣れないという理由で日直をしない時期があった。毎回Aちゃんの日直の番が近づくと「今回も日直はやめる?」と先生に聞かれるとうなずいていた。そのときのAちゃんの顔はいつもより暗く、ためらいながらうなずいているように見えた。それを見た私は、Aちゃんに「いっしょに日直の仕事やってみる?」と聞くと、Aちゃんは少しためらった表情を見せた。Aちゃんは迷惑にならないようにと、遠慮してしまうことがよくあるそうで、今回の日直についても、Aちゃんは先生やみんなに迷惑がかかるのではないかと考え、ためらっているのだと思った。その様子を見た私はAちゃんに、仕事を分担していっしょに日直をすることを提案した。するとAちゃんは表情を変え、笑顔でうなずいた。その後、Aちゃんといっしょに特別支援学級の先生に「Aちゃんの日直のとき、朝の会や授業前の号令は私がやりますから、Aちゃんにも日直の仕事してもらうのはどうでしょう。」と提案すると、その先生も賛成してくださった。
日直をする日の朝、二人で前に立つと、教室が少しざわついた。みんな、いつも日直をしないAちゃんが日直をしていることに驚いたようだった。Aちゃんは緊張したのか、おどおどして落ち着かない様子だった。
朝の会が終わって、教室を移動するときに他のクラスメイトから「なんでAちゃんが日直しているの?」とか「なんでのあがいっしょに日直しているの?」とか「のあの負担にしかならないよ」とかいろいろ言われた。毎回のようにAちゃんのことをあれこれ言われて、正直うんざりしていた。毎回思うのは「別にAちゃんだってできないことだけじゃないのに」ということだ。みんな「Aちゃん=できない」という考え方になっていたのだと思う。でも、Aちゃんだって、絵は上手いし、勉強も問題なくできるし、マラソンだって私より全然速い。班活動に参加し始めたり、苦手なスポーツも先生といっしょに練習したりするなど、苦手なことに少しずつ挑戦しようとしていた。また、日直の仕事も、号令は難しいけど、日誌や花の水やりなど、できることを積極的にやっていた。そんなAちゃんの姿は生き生きしていた。思っていることやAちゃんの姿をみんなに言えなかったのが悔しかった。
帰りの会が始まる前、特別支援学級の先生が私に「Aちゃんと日直をしてくれてありがとう。いつもありがとうね。」とおっしゃった。私は特別なことをしたわけではない。Aちゃんができることをして、苦手なことをお互いに支え合った。小さい頃から教わっている「みんなで助け合う」をしただけだ。それは障害があるからではない。私はAちゃんと日直ができたことがすごく嬉しかった。それに、Aちゃんには自分に役割があるということを知ってほしかったから、良い機会になったと思う。
みんなできないことや苦手なことも必ずあるし、逆に自分にしかできないことだって生活していればいくらだってある。それは障害があってもなくても同じだと思う。障害があるからといって、できることとできないことを見て差をつけるのではなく、障害があってもなくても、できるところを尊重し、できないことや苦手なことをみんなで支え合う。そうやって障害がある人たちとない人たちが共に暮らせること、暮らしやすい世の中になることが大切だと思う。
放課後、「日直の仕事を手伝ってくれてありがとう」と書かれた付箋をAちゃんが私に差し出した。私は「またいっしょに日直やろうね」と言うと、Aちゃんは優しい笑顔でうなずいた。Aちゃんは私に助け合いの心を改めて教えてくれた。それを私はこれからも大切にしていきたい。
【高校生区分】◆徳島県
僕(ぼく)の住(す)む世界(せかい)
徳島(とくしま)県立鴨島(かもじま)支援学校 二年
新開(しんかい) 宥斗(ゆうと)
僕は、今年の夏、二年ぶりに東京で検査入院することになった。
一ヵ月の入院がすごく嫌だったし、何より行きたくなかった。
東京に行くと、以前からいる先生や看護師さん、リハビリの先生、いろんな人達が、一ヵ月長いけど一緒に頑張ろうね。と話しかけてくれたり、病院の中を案内してくれた。たくさんの人達と話しをするうちに、緊張がほぐれていったけど、早く帰りたい気持ちはいっぱいだった。
毎日、毎日、リハビリに検査の日々が始まった。気分転換に屋上庭園の散歩をすすめてくれたけど、車椅子で行く気にもならなかった。何となく同じ事の繰り返しの中で車椅子じゃなかったからと何度も考えていた。
何とか一ヵ月が過ぎた退院の前日に、先生からリハビリの先生との相談の結果、電動車椅子をすすめられた。何でだろう。僕は、自分で動く事が好きだし、車椅子スポーツも大好きだ。車椅子バスケットボールも車椅子卓球も動いている時が本当に楽しい。それなのに電動車椅子なんて、何でか意味がわからないし、腹立たしかった。モヤモヤして、「はいそうします。」とは言えなかった。
夕方、リハビリの先生と話しをしていて、何で電動車椅子をすすめられるのかが理解できないと伝えた。先生は、電動車椅子は、自分の意思で自分の好きな所に、好きなだけ行けるし、もっとしたい事もたくさん増えるから、前を向いて考えてみてはどうか。という返事をくれた。全く理解できなかった。モヤモヤとすっきりしない気持ちだけで心がいっぱいになった。車椅子に乗らない人に僕の気持ちがわかるわけがないと思っていた。
退院の日、せっかくだからと、横浜に観覧車に乗りに行った。そして、近くのショッピングモールに寄り道した時に、僕は目の前で起こる光景に、胸が高鳴るくらいものすごく驚いた。
車椅子の人が一人で買い物や観光など、自分の意思で車椅子を自由に操作し、普通の生活をしている。車椅子がまるで体の一部のようだった。そして、その人達が困っていたら、周りの人が急いで助けたり、介助したり、それが本当にたくさんの場面で見られたし、僕も大きな段差で困っていたら、自然に人が集まり助けてもらうことがあった。何だか、すごい時間だった。でも、すごく輝かしい未来が見えたような嬉しい気持ちになった。それと同時に、先生が電動車椅子をすすめてくれた本当の理由がわかった気がした。今まで車椅子だからと人ごみは行かず、人のいない方へと進んでいた。車椅子だからといろんな事を諦めてきた。電動車椅子になるともっと自分の居場所がなくなる気がして怖かった。でも、自分の知っている世界があまりに小さくせまいものだと思うと、情けなくなってきた。
先生達が僕に伝えたかった事は、きっと僕の知らない世界には、こういう明るい世界があることだと感じたし、その世界で僕らしく生きてほしいと思っているんだと思った。
毎日、本当につらかったし、長かった入院生活であり、しんどかった思いもたくさんしたが、僕にとっては、本当に学びのたくさんある入院となり、これからの将来が楽しみになる貴重な出来事となった。
大切な事を教えてくれた病院の先生達や、街で手助けして笑顔で去っていった人達に、心から感謝を伝えたいし、僕もそういう人になりたいと思った。そして、こんな優しい世界が当たり前の世界になることを願っている。
【高校生区分】◆長崎県
見(み)えない苦(くる)しみを知(し)るということ
学校法人(がっこうほうじん)向陽学園(こうようがくえん)向陽(こうよう)高等学校 一年
宮本(みやもと) 紗希(さき)
中学一年生の冬、母から伝えられた三つの病名は、私の世界を一瞬で変えてしまった。全身性強皮症、肺高血圧症、間質性肺炎。どれも聞きなれない難病の名前だった。その時の私には、それらがどれほど重い意味を持つのか、母がこれからどれほどの困難と向き合わなければならないのか、まだ理解できずにいた。ただ漠然と、私たち家族の「普通の日常」が終わってしまったような、そんな不安だけが心を支配していた。
それから数年が経った今でも、母は外見上病気であることがほとんど分からない。初対面の人が母を見て病気だと気づくことはまずないだろう。しかし、その見た目とは裏腹に母の体の内側は深刻なダメージを受け続けている。全身の皮膚や血管、内臓が硬くなっていく全身性強皮症。肺の血管に異常な圧力がかかる肺高血圧症。肺の組織が炎症を起こし呼吸機能が低下する間質性肺炎。これらの病気は確実に母の体を蝕んでいるのに、その苦しみは外からは見えない。
近所の人から「お母さん、元気そうね」と声をかけられるたび、私は複雑な気持ちになった。確かに母は元気そうに見える。でも、その笑顔の裏で、母がどれほどの息苦しさと闘っているか、階段を上るだけでどれほど疲労するか、そんなことは誰にも分からない。母自身も、周囲に心配をかけまいと、できるだけ普通に振る舞おうとしていた。それが「見えない病気」の残酷さだった。理解されないことの辛さは、病気の症状そのものと同じくらい重いものなのだと、私は次第に理解するようになった。
日常生活の中で、母ができなくなることが徐々に増えていった。以前は当たり前にできていた掃除や買い物、料理の準備。少しずつ、それらを諦めざるを得ない場面が増えていく。母が「ごめんね、今日は少し疲れて」と言いながら、悔しそうな表情を浮かべる姿を見るたび、私の胸は締めつけられた。支えたいという気持ちと、何をどうすればいいのか分からない無力感。母に寄り添いたいけれど、適切な距離感が分からない。私自身の理解不足を痛感する日々が続いた。
母は毎朝、大量の薬を服用している。副作用で体が思うように動かない時もある。食事の内容や運動量にも細心の注意を払わなければならない。それでも母は、私たちの前で弱音を吐いたことは一度もない。ただ「あ、今なんだな」という感じで、静かに現実を受け入れている。その母の強さに、私はどれほど支えられてきただろうか。
一年間の休養期間を経て、母は職場に復帰した。周囲の人たちは最初こそ心配してくれたが、その関心は束の間だった。やがて職場の同僚から、母に対して「特別扱いされている」という言葉が投げかけられた。その話を聞いた時、私の中で何かが弾けた。あなたたちが母の何を知っているのか。毎朝飲む大量の薬を、副作用で思うように動かない体を、食事一つにも神経を使う日常を。母が私たちに弱い姿を見せたことなど一度もないことを。無責任で軽率な言葉が、当事者だけでなく、その家族をどれほど深く傷つけるか、そんなことを考えたことがあるのだろうか。
この体験を通して、私は多くのことを学んだ。真の理解とは、表面的な同情や憐れみではない。相手の立場に立って想像し、知ろうとする姿勢から始まるものだ。「特別扱い」という言葉の背景には、知識 不足と想像力の欠如がある。母が必要としているのは特別扱いではなく、病気という現実に対する適切な配慮なのだ。そしてその配慮は、母の尊厳を保ちながら行われるべきものなのだ。
また、軽率な言葉がいかに深い傷を与えるかも実感した。発言した本人は何気ない一言のつもりでも、その言葉は当事者だけでなく家族をも傷つける。見えない病気と闘う人々とその家族が、社会の無理解という二重の苦しみを背負わされることがあってはならない。
母から学んだ最も大切なことは、困難な状況を受け入れながらも前向きに生きる強さだった。母は決して諦めることなく、できることを精一杯やろうとしている。その姿勢こそが、私たち家族の支えとなっている。そして、母の強さは決して特別なものではない。見えない病気や障害と向き合う多くの人々が、同じような強さを持って日々を生きているのだ。
これからの社会に必要なのは、多様性を認め合う心だ。外見では分からない困難を抱える人々への理解を深め、適切な配慮ができる社会を築いていかなければならない。私は、当事者家族としての体験をいかし、見えない病気への理解促進に取り組んでいきたい。一人でも多くの人に、母のような人々の日常を知ってもらい、心ない言葉ではなく温かい理解の言葉をかけられる社会を実現したい。
母が教えてくれた強さと受容の心を胸に、私は心の輪を広げ続けていこう。真の共生社会とは、お互いの違いを認め合い、支え合える社会のことだ。そのために、まず私たち一人ひとりが、身近な人の困難に気づき、理解しようとする姿勢を持つことから始めなければならない。母と過ごすこれからの日々を大切にしながら、この体験を社会に還元していくことが、私にできる恩返しなのだと信じている。
【一般区分】◆大阪府
人(ひと)は誰(だれ)かの支(ささ)えになれる
糀谷(こうじたに) 終一(しゅういち)
昭和55年8月8日。交通事故で私は首から下が動かなくなりました。まだ33歳。これから夢をかなえようとしていたときの、まさかの出来事でした。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら毎日考えました。「これから先、いったい何ができるんやろう」と。現実を受け止めきれず、ただ時間だけが過ぎていきました。
その後の5年間は、リハビリに明け暮れました。長く、苦しい日々でしたが、そんな中でも、思いがけない出会いに、何度も助けられました。
同じ病院でリハビリをしていた若い車いすの男性が、ある日ふいに声をかけてくれました。明るく、冗談まじりで。「この人、なんでこんなふうに笑えるんやろう」と、最初は戸惑いました。自分にはそんな余裕、なかったからです。
でも、彼の言葉の端々から、自分と同じような悔しさや痛みが伝わってきました。それに気づいたとき、自分の中にあった分厚い壁が、少し崩れた気がしました。
「できないことを数えるより、できることを見つけていこうや」
その一言が、胸に深く残りました。それから、少しずつ前を向けるようになり、リハビリにも気持ちが入りはじめました。
退院後、私は「頚損友の会」という小さな集まりを作りました。同じように障がいを持つ人たちが、気軽に話せる場所がほしかったからです。
活動を続けるうちに、障がいのない人たちとも出会うようになりました。大学生のボランティア、地域の主婦や高齢者の方々。最初はぎこちなかったけれど、顔を合わせるたびに、少しずつ打ち解けていきました。笑顔が増え、気がつけば、なんでも話せる仲になっていました。
ある日、道明寺南小学校での交流会で、一人の男の子が言いました。
「車いすの人って、ただ足が動かへんだけなんや。心は一緒なんやな」
その言葉に、胸がじんわり熱くなりました。子どもは本質をちゃんと見ています。障がいがあるかどうかより、大事なのはどう心を通わせるかや、と改めて思いました。
その後、「アジア障害者友の会」を立ち上げ、フィリピンやタイの障がい者施設を訪ねました。言葉が通じなくても、笑顔や手のぬくもりで心は通じます。
フィリピンの施設で、ひとりの少年がそっと私の手に花を握らせてくれたことがありました。そのとき、「人のやさしさには国境も、障がいの壁もない」と、心から思いました。今は、地域のバリアフリー活動や、認知症サポーターの養成にも取り組んでいます。障がいがあっても、ただ「助けられる存在」じゃない。誰もが誰かの支えになれる。これまでの出会いや経験が、そう教えてくれました。今は週に2回、デイサービスに通っています。ヘルパーさんとの何気ない会話や、利用者どうしの笑い声が、日々の元 気の源になっています。
障がいは、たしかに不便です。でも、不幸ではありません。人と人が、心を通わせ、助け合い、笑い合える――それこそが、私が歩んできた道で得た、何よりの宝物です。
私の「心の輪」は、今も少しずつ広がり続けています。手と手をつなぎ、声をかけ合い、心を寄せ合えば、きっとどんな壁も超えられる。私は、そう信じています。
【一般区分】◆熊本県
私(わたし)は障害(しょうがい)とともに生(い)きていく
田口(たぐち) 慎一郎(しんいちろう)
「貴方の症例は発達障がいに該当します」
医師から告げられたその言葉に、当時の私はハンマーで殴られたような衝撃を受けた。仕事でミスが続き、上司から『おまえは普通ではないから病院に行け』と言われての受診だった。幼少からの学校生活や学生時代のバイトではなんの問題も無かったのに、突然評価が一変した。別に私個人は障がいに対し差別的な意識を持っていたつもりはない。ただまだ組織や社会のノウハウがない時期での認定だったから、合理的配慮の名の下に、突然それまで行っていた仕事が取り上げられたのは辛く、望まぬことも色々と起きた。
「君が障がいを隠してここにいるのは詐欺みたいなもんだ」
少し語句をマイルドに変えてはいるが、こんな言葉を言われたこともあった。
最初の内は私も妻もどうしていいか分からず、いくども喧嘩をした。忘れ物をするたびに、
「私は一々配慮なんてしていられない!」
と妻は癇癪を起こした。私だってそうしてもらいたい。しかし無情にも、ノートに失敗の数を記録していくと、確かに私のミスや忘れ物の頻度は普通の人の3倍は多かった。
だけど私は諦めたくはなかった。自分が障がい認定される前から、障がいを持つ人を他人より劣っているとは思っていなかったからだ。
思い出していたのは学生時代に打ち込んだ柔道の恩師が語った彼の師の話。大師匠にあたるその人は、目が殆ど見えないのに相手の重心や脚の動きを見切る達人、俗に言う『心眼』の持ち主だったそうだ。生物はある部位を喪失すると、残された部位の使用頻度が上がり元よりも強靭になりやすい。身体障がいでもこうした『成長』を遂げた人の話はよく聞いた。では『脳の一部の機能だけが人と異なる』自分の成長するものは何なのか……。私は私と同じ症例を持つ人について色々と調べ、本を読みあさった。
その結果、多くの天才・偉人とされる人の中に私と同じ人がいた。普通の感覚や視野は持てない。けどだからこそ見える狭い視野に超人的な集中力を発揮し、前人未踏の領域まで達して結果を出した人たちだ。
彼らのことを調べると、皆自分の才能を伸ばすためのたゆまぬ努力と、必ず周囲の協力者への感謝があった。親や学校の先生、チームの仲間、そして配偶者……。
私は妻にこのことを話した。別に自分を天才だと驕る訳じゃない。ただ自分にはもっと出来ること、そしてどうしても出来ないことがあることを知って欲しかった。妻はあっさり了承してくれた。というより妻も妻なりに対策を考えてくれていたのだった。
それから私達夫婦の生活スタイルは徐々に変わっていった。妻は私が忘れ物をしやすいからと荷物持ちをしてくれたし、私が集中力が続かない日だというと車の運転を代わってくれた。私も妻の代わりに文書を読み込んだりパソコン関係の手続をする時は積極的にしていった。生来活字の読み書きが好きな私はそういうことが得意だったし、改めて自分を見つめ直すと、そうした文章や情報関係の分野では、自分の記憶力や語彙力が妻よりもずっと秀でていることが分かった。
私生活が徐々に安定してくる頃には、職場の方もより的を射た支援をしてくれるようになった。『君はパソコンに強いから○○をお願いしたい』と頼られることが増えたし、そうしたチャンスには必死に期待に応えようと努力した。苦手分野でもなるべく腐らずに頑張り、自信が無いときは『終わりましたがミスが無いか確認をお願いします』と言える体制ができた。結果として、障がい認定される前より落ち着いて仕事が出来るようになったと思う。
障がい者支援において、『障がいとは生まれ持った個性』という言葉をよく聞くが、ある意味では正しい。けど私はそこで止まってはとてももったいないと感じている。健常者だって生まれ持った個性はあり、皆それを伸ばして武器として仕上げてはじめて社会で活躍していくのだ。ならば障がい者も同じであろう。視覚に頼らず世界を見る才能、腕力で脚と同じかそれ以上に車椅子をこぐ才能、自分が好きなことに世界の誰よりも一生懸命になれる才能……。それらは社会で立派に必要とされる才能に違いない。
障がい者の方へ
貴方が持つのは人より劣っているだけのものではありません。必ずそれにより人より秀でる可能性を秘めたものなのです。だから腐らず、諦めず、前を向いていってください。
障がい者を身近に持つ家族・友人・職場の人達へ
彼らをただ劣った人と見ないでください。出来ないことと同じだけ、『彼らだからこそ出来ること』があるかもしれないのだから。
私は今、妻との間に子供も産まれて一家の大黒柱となった。もう障がいがある無しでいちいち迷ったり苦しんでいる暇はない。妻や職場の皆が私を支えてくれたように、私も妻子を支え、職場に恩返しをしなければならない。そのための武器が今の私にはある。
私は、障害(さいのう)とともに生きていくのだから。
【一般区分】◆徳島県
挑戦(ちょうせん)
中西(なかにし) 健也(けんや)
ぼくの挑戦は、いくつかあります。その中で覚えている記憶と経験した事を話してみようと思います。
一つめは、下駄箱の片すみに見つけた黄色の小さなくつは、ぼくが始めてはいたくつでした。お母さんは、ずっと、ずっと保管していました。
このくつをはいて歩いたのは二才三ヵ月。二回目の冬。十一月でした。通勤途中に公園があります。歩き始めたぼくを、その広い場所でヨチヨチ歩きの練習に来ていたと、話すお母さんの笑顔は大好きです。
ぼくは、歩くのも、ものすごく遅かったし体も弱くて何度も入退院をくり返し成長がゆっくり、ゆっくりになってしまった。記憶はないけれど保育園の写真を見れば理解できる。
お友達は、歩いて散歩しているのにぼくだけが先生に抱っこされていた。
夏のプール遊びをしている写真もお友達とは何故か違っていた。プールの中で楽しそうにしているお友達。ぼくは、水をこわがってプールの外で先生と水遊びをしていたぼくがいた。お芋ほり、お散歩、運動会、おゆうぎ会、様々な場面でぼくだけが先生のとなりにいた。
保育園で0才から6才まで過ごしてきた中で思い出に残ることがあるとするならば、いつも決まった時間にむかえにきてくれる母が待っても、待っても中々来てくれず、お友達が一人、又一人と帰っていく。寂しさと涙で先生のひざの上でいた。先生がその時、ぼくにこう言った。
「車はいっぱい」
ぼくの記憶では、雪が降っていたのは今も鮮明に覚えています。大人になればその意味は理解できますが幼少期のぼくには理解できなかった年令でした。
先生の膝の上は温かくギュッと抱きしめてくれた腕は大きくぼくを包み込んでくれた温くもりでした。寄り添ってくれた保育園の先生に感謝致します。
先生が
「お母さん来たよ。」
と教えてくれました。ぼくは、慌ててお母さんの所に走っていきました。お母さんは、そっとぼくを抱きかかえ
「ごめんね。ごめんね。」
と言っていました。
その後の言葉は覚えていませんが、ごめんねだけの言葉は今もはっきり覚えています。
人の温くもり、思いやり、寄り添いは大切です。お母さんは介護のお仕事を二十年以上しています。人のお世話は中々できる仕事ではありません。ぼくは、お母さんを誇りに思います。人の漢字の意味を教えてくれたようにぼくも、人に対して思いやりをもつ心をもたなければならないと思う。困っている人を見かけたら勇気を出して声をかける。
困っている人がいても見て見ぬふりをして通り過ぎて行くのは何故だろうか。まるで他人事のように。お母さんは、このような場面にそうぐうしても見て見ぬふりはせず手を差しのべているタイプです。お母さんのようにぼくも勇気をもって挑戦したいと思います。
嬉しい言葉は、人を幸せにしてくれる魔法です。
二つ目の挑戦は、おじぃちゃんと練習した自転車の稽古です。最初は、一年生の時に自転車の稽古をしました。上手くいかず、自転車に乗ったまま倒れたのがきっかけとなり恐怖を覚えてしまいました。
中学校は、勿論、自転車通学。徒歩でも通える距離だがそう簡単には続かないだろう。
そんな矢先におじぃちゃんが、ぼくの為を思って小学校最後の夏に自転車の稽古を毎日してくれました。夕方の涼しい時間帯に少しづつ練習をしました。転んでは起きあがり手も足も傷だらけにもなりました。上手くいかない時は、自転車を乗りすてて泣きながら、おばぁちゃんに愚知を聞いてもらった。
おばぁちゃんの言葉は、まるで魔法にかかったかのように。
「おじぃちゃんは、いつも乗りすてた自転車をつれてかえってるんだよ」
「遠い所から。じぃちゃんの気持ちも分ったり。今、逃げ出したらずっと逃げていく。今頑張らんといつ頑張るん。」
今でもその言葉はお覚えています。
それから、ぼくは毎日のように自転車の稽古を頑張って頑張って挑戦しました。弱音を吐かないために、ぼくは努力を惜しまない。
夏休みが終る頃、補助輪なしで自転車を一人前に乗れるようになりました。これも全ておじぃちゃん、おばぁちゃん、お母さんのおかげです。
この挑戦がなければ今日のぼくは戦う事はなかったはずです。お仕事は、毎日が目まぐるしく忙しいけどやりがいのある仕事です。
おじぃちゃんが教えてくれた挑戦は、ぼくにとって大きな財産です。
おじぃちゃん。ありがとう。頑張っているぼくをお空から見ていてね
※このほかの入賞作品は、内閣府ホームページ(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r07sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。
※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティーを尊重する見地から、原則原文のまま掲載しています。