平成27年度「心の輪を広げる体験作文」作品集 高校生・一般部門優秀賞

自分への挑戦

明 正隆(富山県)

 平成二十七年八月、大学卒業後二年半勤めた勤務先を退職した。今回退職を決断した大きな要因は体力の問題だった。

 私は全身の筋力が徐々に衰えていく、デュシェンヌ型筋ジストロフィー症という難病で、十歳頃までは自分の力で歩いていたが、だんだん歩行困難になり、現在は体幹コルセットを付けた状態で起床から就寝まで車いすでの生活を送っている。仕事は朝八時半から夕方五時までのフルタイム、通勤時間なども含めると十時間以上を外で過ごしていた。病気は徐々に進行していくので、今日出来たことが明日突然できなくなるということはない。就職した当初は健常者がそうするように、私自身もずっと仕事を続けていけるものだと考えていた。しかし、二十五歳になった今、以前に比べるとかなり体力が落ちてきたと感じるようになった。通勤も揺れる車に車いすのまま乗り込み、体を支えていることがかなり負担になってきた。勤務先の理事長や上司は熱心に慰留してくれたが退職を決断した。なぜ片道四十分もの通勤時間の職場を選ぶことになったのか。それには、大学時代の就職活動が大きく影響していた。

 私は、十歳から十五歳まで肢体不自由児の特別支援学校で過ごし、環境面では十分に手厚い支援を受けた。しかし高校、大学は普通校に通った。もちろん、階段など施設設備の面ではハンデを抱えて一筋縄ではいかない学校生活だったが、障害をも忘れさせてくれる充実した学生生活が送れたと思っている。なぜなら高校では放送部に所属し、校内放送や行事での司会進行、学校紹介ビデオの作成など、全校生徒に向けた多くの活動が出来た。

いつも手伝ってもらうことが多い私にとって、誰かのために何かができることは日常生活の励みにもなった。

 大学は工学部に入り、福祉機器の研究を行った。研究を進める中で、手元での作業はできるものの、機械を操作したり、組み立てたりすることは難しかった。しかしそれを打ち消すほど、充実した学生生活を送っていた私は「障害をもっていても健常者と変わらないことができるのだ。」という気持ちが大きくなっていた。

 大学三年生になり、周囲からは大学院進学の道もあるし、無理をして働かなくてもいいと言われていたが、私の中ではもっと色々なことを経験したい、という気持ちが強かった。

進行性の病気のため、いつまで元気でいられるかわからない私は、自分がどこまで社会で通用するのか試してみたいという気持ちもあった。しかし、いざ就職活動が始まると思いの外辛い日々が続いた。原因は進行性の病気にあった。車いすのため車の運転もできない、上半身や心肺機能にも問題がある私を雇ってくれる会社はなかった。これまで高校、大学では障害をもっていることを意識することは少なかったが、改めて現実を突きつけられた。大学のキャリアセンターの方も私の思いを形にしたいと支援してくださった。しかし、四年生の秋になるとハローワークでの相談を勧められたが、私の病気や状態からでは、外で仕事をすることは難しく、在宅の仕事しか無いとはっきり言われた。

 そんな時、偶然新聞に掲載された求人情報が目に入った。それが二年半働いた総合病院の事務職だった。それまで病院の事務職は考えたこともなかったが、ある意味では自分に合った職場なのかと思えた。当然病院内はバリアフリーが整っており、万が一の体調変化にも対応しやすい。仕事内容は深く考えず選考に応募することにした。常時車いすのうえに病気をもっているということを伝えたところ、一度は返事を保留されたものの、快く面接に応じてくれた。その結果、初めて内定を得ることが出来た。

 仕事内容に関しては入職日まで伝えられなく、出来ることなら何でもやるつもりでいた。

配属された部署は、医療システム係、病院内のパソコンの管理や電子カルテシステムの保守などが主な仕事だった。高校や大学では情報系の勉強をしてきたので、パソコンなどの知識は他より持っているとアピールしていた。それを生かすための仕事を与えてくれたのだと考え、一生懸命働きたいと思った。また、病院では私がデスクにアクセスしやすいよう、事務所内の配置を変えたり、これまであった車椅子トイレを私が一人で使えるように更に改良工事をしていただいたり、仕事をする上で物理的なバリアはほとんど取り除いてくれた。それだけではなく、長時間車いすに座っていることで生じる痛みを軽減するため、リハビリの先生を通して、事務職員の方に体を持ち上げてもらう事も定期的にしていただいた。病院側の様々な配慮により、心地よい職場環境で仕事ができ、社会の中で生きていくことの喜びや辛さも経験することができた。

 働き始めてから二年が過ぎた頃から体力的な衰えを感じるようになった。就職当時は、とにかく仕事をしたいという思いが強く、長時間の通勤などが体に負担がかかることまで考えていなかった。

 そして退職を決断した今、私と同じ筋ジストロフィー症の方や障害者が集い、情報交換や様々なケアを行う場を作りたいという新たな目標ができた。その理由は、同じ病気の人や家族の方が、色々な悩みや困難さを抱えている現状を知り、私自身の学生時代の経験や就職活動、仕事の事など、より多くの人に伝え、サポートできたら良いのではと考えたからである。

 また、富山県では今年開業した北陸新幹線の効果を最大限に取り込もうと様々な努力をしている。しかし、現状では観光のバリアフリーという点までは及んでいない。実際、富山の玄関口富山駅の中には、車いすでは乗れないエレベーターが設置されているなど、目を疑いたくなるバリアーが存在している。そのような問題を少しでも減らし、真のバリアフリー県を目指す活動もしたいと考える。

 夢や希望を持つことは容易いが、それを現実にするためには計り知れない困難もあるだろう。その上病気の進行を止めることは難しく、私に残された時間は限られている。

 しかし今ならまだできる、そして自分にしかできないことをやるため、夢の実現への第一歩を踏み出したい。