付録6 平成30年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)
最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞
【小学生区分】◆愛知県
やりたいことはやってみりん
豊橋(とよはし)市立幸(みゆき)小学校 五年
中根(なかね) 暖(ひなた)
ぼくの左手は生まれた時からあまり動きません。頭の中で「動けえ」と命れいしても、ぜんぜん言うことを聞いてくれません。
学校では工夫をしたり、先生や友だちに助けてもらったりしてうまく生活できていると思います。でも、転んだりぶつかるとだっきゅうしやすいので、体育はできないことがあったり、しえん員の先生とぼくでちがうことをやったりしていました。友だちと遊ぶのは大すきだけど、体育はみんなとできないからつまらないしきらいな教科でした。
三年生の冬、なわとびの授業で友だちは二重とびがたくさんできるようになって、ぼくだけ一回ずつ前とびしかできないので、とても悲しくなってしまいました。がんばって練習してもできないので、とうとう「体育があるから学校に行きたくない!」と、お母さんに泣きながら言いました。
お母さんはぼくの気持ちを聞いてくれて、「悲しかったね。つらいなら、なわとびも体育も休んでいいよ。体育の時間が楽しくなるように、先生たちと相談してみるでね。」とせなかをなでてくれました。
四年生になり、初めて男の先生がたんにんになりました。やさしくてたくさん遊んでくれるかわい先生のことを、ぼくはすぐに大すきになりました。クラス全員で遊ぶときはやわらかいボールを用意してくれたり、ぼくもいっしょにできるルールに変えてくれたのでうれしかったです。
冬になり、またなわとびをやることになりました。ぼくはかわい先生や友だちといっしょにやってみたい気持ちもあったけど、どうせぼくにはできないからいいや、と思っていました。なわとびをやる日、まよったけれどぼくはなわとびを持たずに学校に行くことにしました。お母さんはそのことを何も言わなかったけれど、
「先生がいい方法を思いついたみたいだよ。」にこっと笑って声をかけてくれました。
体育の時間。先生は、ぼくの右手と先生の左手でなわとびを回して横にならんでとぶ方法と、先生が回すなわとびにぼくが入って向き合ってとぶ方法を説明してくれました。最初は少しはずかしかったけれど、左手になわとびを固定するよりたくさんとべるのでだんだん楽しくなってきました。
続けてとべるようになってきたので、次は友だちとちょう戦しました。友だちとペアになってとぶのはすごく楽しくて、もっとがんばってみようという気持ちになりました。かわい先生といっしょに初めて二重とびもとべました。力いっぱい高くジャンプし、耳の横でびゅびゅっと空気が鳴って、とても気持ちがよかったです。
次に始まったとびばこの授業でも、かわい先生と湯本先生が手のつき方やふみきりの方法をていねいに教えてくれました。とびばこは見ていたことしかなかったから初めは不安だったけど、低いだんがとべると、もっと高いだんもとべるかもという気持ちになりました。勇気を出してちょう戦してみたら、右手だけで五だんまでとべるようになりました。
いつのまにかきらいだった体育が、楽しみな時間に変わっていました。先生にも本当の気持ちを話せるようになりました。
しょうがいがあると本当はやりたくてもあきらめてしまうことがあるようにぼくは思います。でも、ぼくのなわとびみたいに自分の気持ちを話してみたら、だれかがいっしょに考えてくれたり、いい方法が見つかるかもしれません。できないと思っていたことができたり、すきなことに変わるかもしれません。
今年の運動会。ぼくはきば戦にちょう戦しました。先生とお母さんのことばがぼくに勇気をくれたからです。
「やりたいことはやってみりん。応えんするでね。」
【中学生区分】◆千葉県
偏見(へんけん)のない世(よ)の中(なか)を目指(めざ)して
茂原(もばら)市立東(ひがし)中学校 二年
横山(よこやま) 莉玖(りく)
「誰と話をしているの?」
「何でそんなに笑っているの?」
これが知的障害者に対する、僕の第一印象です。
僕は夏休みに家族と帰省し、近くのショッピングモールに買物に出かけました。少し退屈になった僕は屋内のベンチに座ってジュースを飲み、母を待っていました。そこに、施設の名札をつけた職員さんと手を繋いだ、僕と同じくらいの背丈の男の子が向かいのベンチに座りました。彼は真剣な表情で床を見つめ、小声で何かを話しています。そして突然、天井を見上げて手を叩き、笑い出しました。
「え?何?」
驚いて目が一回り大きくなった僕は、なぜかとっさに彼から目をそらしました。今振り返って考えてみると、理解できない彼の行動に恐怖心を感じたからだと思います。そこに母が戻ってきて、とても安心しました。帰り道、彼の行動について話をしました。僕は、それは怖かったねという母の言葉を想像していましたが、看護師の仕事をしている母からは、
「きっと、彼の中で何か楽しいことがあったんだね。」という、想定外の言葉が返ってきました。
「え?楽しいことって何?お母さん怖くないの?」と聞くと、母からは、相手の立場になって考えてみたら理解できること、そして知的障害者と統合失調症について調べてみることを勧められました。母の言う通り、本やインターネットで調べるほど彼の行動が理解できました。彼らの病気は、僕達には見えないものが見え、聞こえない音や声が聞こえ、それが楽しい時もあれば悲しくなる時もあります。それを知らずに恐怖心をもったままの自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちになりました。彼らの病気を調べた時、性格という個性をもちながら、同じ病名でも症状は様々だということを知りました。
他に、どんな症状の人達がいるのだろう。僕は彼らをもっと理解したくなり、知的障害者のボランティアに参加しました。そこでは、陸上など運動の準備や片付けをしたり、参加者を誘導する手伝いをしました。参加者の中には彼のように独り言を話したり笑ったり、不思議な動きをして自分の体を軽く叩き続けたりと、様々な人がいました。その中で共通していたことは、一つ一つの競技に対して誰もが一生懸命取り組んでいたことです。たとえ抜かされても転んでも前に向かって力強く走り、頑張っている仲間を応援する姿は僕達と同じでした。そしてもう一つ感じたこと、それは優しさです。参加者を誘導したり手伝いをしている時、いつも大きな声で
「ありがとうございます。」と言って、お辞儀をしてくれました。僕が彼らの立場だったら、同じ行動ができたか自信がありません。きっと、誘導される方向に動き、待機しているだけだと思います。
僕は今回、彼との出会いと母のアドバイスをきっかけに、知的障害者に対する考え方を改めることができました。僕達がしないような行動をする彼らを見た時、きっと僕と同じように第一印象だけで驚いてしまう人がいると思います。でも、その気持ちで終わらないで下さい。病気をもつ彼らは繊細で、とても優しい気持ちをもっています。多くの人が彼らを理解し、相手の立場になって物事を考えることができるようになれば、障害者に対する偏見はなくなっていきます。僕はこれからも積極的にボランティアに参加し、彼らの笑顔を増やしていきたいです。
【高校生区分】◆名古屋市
共生社会(きょうせいしゃかい)の中(なか)に飛(と)び込(こ)んでみて
名古屋(なごや)市立中央(ちゅうおう)高等学校 三年
久野(ひさの) 藍里(あいり)
私は生まれつき脳性マヒで車イス生活です。
小学校時代、地域から離れた小学校の特別支援学級に6年間在籍していました。その間、もっと普通級の子と同じように勉強がしたいという思いと友達が欲しいという思いが強くなり、母と相談をして地域の中学校の普通級に入学する事を決めました。地域の友達が全くいない状況からのスタートとなりました。
中一の時の担任の先生は、私が色々と相談すると親身になって聞いてくれました。友達はできませんでしたが良い先生に出会う事ができ一年間乗り越える事ができました。
中二の時は、クラスの男子に後ろから大声で話しかけられ、私がびっくりする反応を見て笑っているという事がありました。その事があまりにも嫌だったので、クラスの皆に自分の意思とは反して体が反応してしまう事等を話しました。その結果、その事は収まりましたが、母からは「別の学びの選択肢もあるのだよ。」と言われました。しかし、私は自分の意志で決めた事なので最後までやり通そうと思いました。
そのような時、私にとっては転機となる出会いがありました。それは、中二の時の体育の先生でした。その先生に私が「皆と一緒にバドミントンをやりたいです。」と相談したら「よし、一緒にやってみようか。」と言ってくれました。私はその先生に出会うまで何度も「できないでしょ!」と言われ悔しい思いをしてきました。私の中では、工夫すればやれると思っていましたが、その気持ちを汲み取ってくれる先生がいなかったのです。しかし、その先生は、私のやりたいという気持ちを否定せず、いつもどのようにしたら皆と一緒にできるかを考えてくれました。私と対等に接してくれた事で、自分は自分でいいんだと改めて思いました。
創作ダンスの授業では、「皆と一緒に踊りたい。」と話したら、先生は、「自分で皆に声をかけてみようか」と言ってくれました。私は、先生が見守ってくれている中、勇気をふりしぼって仲間に声をかけました。仲間は「いいよ。」とすんなり受け入れてくれたのでとても嬉しかったです。
中三の時には、自分から仲間に声をかけていきました。友達との遊び方がわからない私を担任の先生は橋渡しをしてくれ、慣れてきたら離れて見守ってくれました。修学旅行の時、母も付き添ってくれたのですが、ディズニーランドの中だけは、仲良くなった友だちと一緒に行きたいので、母とは離れ、担任・副担任、そして三人の友達と回りました。今ではそれが一番の思い出です。
中学校に入学して周囲の皆と、学習面で大きな開きがある事に衝撃を受けました。高校に行って真の勉学に触れたい・友達も作りたい・部活も経験したいと思い二年の浪人生活を経て、晴れて高校生となりました。
高校に入ってからは、中学の時の経験を活かし、積極的に話しかけていきました。するとすぐに皆と打ちとける事ができました。
私と接していく中で私の事を理解してくれ自然に助けてくれたり、背中を押してくれたりしました。私の学校の仲間は、不登校や色々な悩みを抱えている子が多いので、人の気持ちに寄り添えるのだと思います。そういう意味で友達が作りやすい学校です。
高一の時、バレー部に入っていました。私は二年生になったら生徒会に立候補するので部を辞めると言った時に「部活のために何か協力できた事があったのかな…」とキャプテンであり親友の子に話しました。すると「藍里ちゃんの応援で勇気がもらえたんだよ。」と言ってくれて「バレー部に入ってましたと自信を持って言っていいからね。」とも言ってくれました。とても嬉しい言葉でした。
一般に言う、普通の学校に行って一番良かったと思う事は、自分が小学校で経験してこなかった事、友達関係の事、勉強の重要性等、知らなかった世界を知る事ができた事です。しかし、今、障害の重い人達が高校や大学に入る事はむずかしく、学力社会の中にあると思います。共生社会を実現していくためには、どのような障害のある人でも当たり前にそこの場に行ける事が一番大事だと感じました。一部の障害のある人だけが学びの場に行く事ができているという状況に留めてほしくないです。
私は、自分の歩んだ経験を通し、障害のある人達の相談にのれる福祉の仕事に就きたいです。英語が好きなので、大学で語学力を伸ばし、それを活かしながら海外での福祉の状況も視察し、良い所は日本の中に取り込んでいく事ができれば良いなと思っています。そして私は、共生社会を担う事のできるような人材として活躍していきたいです。
【一般区分】◆鳥取県
今伝(いまつた)えたい事(こと)~弟(おとうと)と歩(あゆ)んだ日々(ひび)~
植田(うえた) 悠郁(はるか)
今年26歳になる私の弟には重度の知的障害がある。弟は生まれてすぐ、髄膜炎にかかり、その後遺症で脳に障害が残ってしまった。弟は運動機能の障害はなく、歩いたり走ったりする事はできる。しかし言葉の発達は極めて遅く、文字の読み書きは全くできない。時間や曜日もはっきりとは分かっていないようだ。日常の生活を送る上でも、常に誰かの助けが必要で、食事やトイレ、洗面、入浴、歯磨きさえ一人で行う事ができない。
言える言葉も限られている。独り言で、「おてて、おてて」と言ったり、「はっか、はっか」と私の名前を呼ぶ事はあるが、何かを伝えようとすると、単語しか話せない。例えばジュースを飲みたい時は「ジュシュ」、おしっこに行きたい時は「おっこ」と言う。確かに弟が伝えられる言葉はたった一言だが、その一言で私たち家族は随分助かっている。
幼い頃の私は、弟の事がかわいくて、世話も好きだった。しかし、当時を振り返ると無意識に弟は何も分かっていない、弱いと思い込んでいたような気がする。それは小学校中学年の弟に対し、日常的に赤ちゃん言葉を使う、「よしよし。かわいいね」と言って頭をなでるなど、私の行動にはっきりと表れていた。
さらに私が小学校6年になるとそれまで好きだった弟の世話も嫌いになっていった。弟より自分が好きな絵を描く事に、夢中になっていたかった。だからそれを中断して弟のトイレの世話をしなければならない事が苦痛でたまらなかった。
そんな私に変化が起きたのは私が高校生の頃だった。私が悩んで思いつめた顔をしていた時、弟が私のそばで笑ってくれた。その笑顔は優しくて、「大丈夫。僕がいるよ。」と言ってくれているようで心強かった。
弟はちゃんと私の事を見ていてくれた。私の気持ちを分かってくれていた。何も分かっていないんじゃない。むしろ私たちより敏感に周りにアンテナを張っているのかもしれない。分かっていなかったのは私のほうだった。
弟のIQ(知能指数)は現在でも2歳4か月程度しかないと診断されている。けれど弟には26年間生きてきた【経験】がある。それはIQでは計れない弟の学びの証だ。弟が小学生の頃は怖がって、歯医者での治療ができなかった。でも今は歯医者でも泣かず、一人で診察台に上る。病院の血液検査も自分からさっと手を出すようになった。今まで食べられなかったトマトやキュウリも食べられるようになった。これは歯医者や検査は必要な事で怖くないと学んだから。トマトやキュウリは食べたらおいしいと分かったから。
弟と一緒に生活していて、困る事がある。それは弟の体調が悪い時、すぐに気づけなかったり、どこが痛いのか、しんどいのか分からない事だ。弟はおなかが痛い、体がだるい、熱っぽいなどと言葉では一切伝える事ができない。「あーん、あーん」と機嫌が悪くなる、今までしゃべっていたのに急に静かになるなど、小さな変化でしか、様子がおかしい事が分からない。だから体調の悪化に気づくのが遅れる事も度々ある。
けれども弟も必死で伝えようとしている。それを強く感じた出来事がある。弟が高校生の頃、体に膿がたまり、痛くて泣きわめいていた事があった。その時、弟が母のカバンを持ってきて、テーブルの上にぼん!と置いた。片付けても何度もそれを繰り返した。様子がおかしいので母は病院に連れて行く事にした。処置を受け、家に帰ってきて、母が言った。
「何回もカバンをテーブルに置いたのは『病院に連れて行け』って訴えてたんだわ。」
それを聞いて私ははっとした。弟も伝えたいんだ。伝えようと努力しているんだ。でもどう伝えたらいいのか分からない。弟も苦しいんだ。もどかしいんだ。弟の気持ちが少し分かったような気がした。私たちも分かろうと必死になり、イライラもするが、弟だって、分かってもらいたくて同じ感情を抱いているはずだと気づいた。
知的な部分に重い障害があるからと言って何も感じない、何も理解できない、何も学べないというわけじゃない。弟は毎日、様々な事を自分なりに感じて学び、成長している。今回、私が弟と歩んだ日々を書く事で、弟を知らない人たち、そして知的障害者への偏見や差別、虐待が表面化していないだけで日々起きている現代社会にそれを伝えたかった。十分に言葉も話せず、仕事なんて勿論できない。でも弟が生きている、その事に意味があるのだと、私は伝えたいのだ。
今、私は弟の成長を自分の事のように喜べるようになった。そして弟を大切に思っている。弟に重い障害があるからではない。家族だから、弟だからだ。
今日も私の隣で、弟が元気いっぱい「はっか、はっか」と私の名前を呼ぶ。私は嬉しくて「何?」と答える。そんなささやかな日常が私の幸せである。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【小学生区分】◆愛媛県
ぼくと祖母(そぼ)
今治(いまばり)市立立花(たちばな)小学校 六年
伊藤(いとう) 翔馬(しょうま)
ぼくの祖母と祖父は、耳が聞こえません。祖母は、生まれたときからで、祖父は病気で聞こえなくなった中途失聴だったそうです。祖父は、ぼくが一才の時に亡くなったので祖父の事はぜんぜんおぼえていませんが、祖母とは2才のころから一しょに住んでいます。だからぼくにとって、障害というものはいつも身近にありました。ぼくが小さい時、祖父と祖母は耳が聞こえない事が当たり前だと思っていたと思います。しかし大きくなっていくにつれて、ぼくの祖母は普通の人とは違うなと思いはじめました。祖母と一しょにいると何か笑われているような気がしていました。他にも祖母が困っている時、ぼくが通訳すると何か嫌な目で見られているようで、とても視線を感じました。しかしある日をきっかけにそんな事が一切無くなりました。その日は、祖母と初めて行った手話サークルのクリスマス会でした。かべがきれいにかざりつけられ、大きなツリーが立てられ、大きなテーブルにおかしが置かれていました。たくさんのおじいさんとおばあさんが居て子ども達もいました。その人達のほとんどは、耳が聞こえなかったり、障害がある人でした。ぼくは、こんなにも障害がある人はいるんだとおどろきました。クリスマス会では、ジェスチャーゲームをしたり、クイズをしたり、げきをしたり、とても面白く、楽しい時間をすごすことができました。そして、このげきをみたり一しょにゲームをしてみて、障害者だからといってできないと決めつけるのではなく、その変な考え方をなくしていかなければいけないと思いました。考えてみてください。もしぼくだけが耳が聞こえて、他の人達全員耳が聞こえなかったら、ぼくが障害者だと思われると思います。このように自分達より少ない少人数の人間をおかしいと思う事がおかしいと思いました。そして、それからは祖母といても視線や嫌な目で見られているような気は、一切なくなりました。ぼくは、クリスマス会以外でも手話サークルに行くようになりました。そして手話サークルの人とは、とても仲が良くなり、年がはなれた友達がたくさんできました。
障害があると、『きっとできない』と考えてしまう事が多いと思います。『できない』ではなく、障害のある人も『できる』方法を考えていけばいいと思います。少しのお手伝いや代わりになる手話などがあれば、障害に関わらず『できる』ようになると思います。ぼく達と違うから知らないふりをしたり、変な目でみるのではなく、お互いに歩みよりお互いに知る事で、どの人も『できる』世の中になると思います。お互いを知り、手をとりあって支えあっていけばいいと思います。
【小学生区分】◆神戸市
見(み)えるざしきわらし
神戸(こうべ)市立ひよどり台(だい)小学校 三年
近藤(こんどう) 咲来(さら)
わたしの弟にはしょうがいがあります。せいちょうがゆっくりで会話はできないけれど、さいきんは、少しずつできるようになりました。おかあさんが、自へいしょうとおしえてくれました。一つ下の二年生。にがてなことがたくさんあるけど、どうぶつが大すきで絵をかくこともすきです。わたしのしらないどうぶつの名前もよくしっています。そこは、「すごいなぁ。」と思いました。けいさんもとくいです。わたしは、まけそうです。にがてなこともおおいけどわたしよりもできることもあるのは、すごいとおもいます。
弟は、見えるざしきわらしのようです。イタズラもよくします。かべに絵をかいたり、走ってうしろをかくにんしながらわらっていたりそれをみないようにかくれてみると、家のピンポンをならしたりします。イタズラをして楽しんでいます。弟は、とてもうんがいいです。くじ引きでよいものがあたります。だから見えるざしきわらしだと思いました。イタズラして、みんなをおこらせたりしてもそのイタズラの中にみんなをクスッとわらわせることをいったりしたりするのでさい後はみんなをえがおにする力があります。こまったところもあります。わたしのノートにらくがきをします。一マスごとにどうぶつをかいていました。どうぶつの絵をかくことが弟らしいと思いましたが、わたしのせいでもあります。かたづけてなかったからです。
学校での朝会でギャーギャー言ったりすることがたまにあります。その時にまわりの友だちにわたしをみられることが少しはずかしいです。でもギャーギャー言うのはしょうがないし弟にも理由があります。言葉でうまくつたえられないからです。
弟は、会話はできないけれど、言っていることは分かっていると思います。ゆっくりですが、少しずつしゃべれるようになっています。もっとしゃべれるようになっていっぱい話せるといいなぁと思います。見えるざしきわらしなのでこれからも大事にしたいです。弟を大事にするとわたしもしあわせになれるからです。
【小学生区分】◆福島県
その出会(であ)いがぼくをかえた
福島大学附属(ふくしまだいがくふぞく)小学校 二年
長谷川(はせがわ) 慶佑(けいすけ)
ぼくの友だちの中に、生まれつき目が見えない人がいます。心からそんけいできる、すてきな大人の人なので、ぜひしょうかいします。
一番さいしょにその人に会った時、こわい、どうしようとかんじたのをおぼえています。どう話せばいいか、何かお手つだいをしないといけないのか、分からなくなってしまったからです。ぼくは、お母さんのうしろに、そっとかくれていました。
そんなぼくをたすけてくれたのは、「こんにちはって、いつもみたいに元気に話してごらん。」というお母さんのことばです。思い切ってあいさつと名まえを言ったら、その人もあいさつをしてくれて、大すきなてつ道の話もしてくれました。話の中では、何と、たった一人で、お気に入りのでん車や新かん線にのるために、日本全国をたびすることも教えてくれました。ぼくもてつ道が大すきなので、話にひきこまれて、わくわくしながら聞きました。そして、さっきまでこわがっていた自分が、ふしぎなくらいにどこかにきえていました。
わかれる時にぼくのあたまをなでて、「けいすけくん、大きいね。」
と言った時、ぼくはハッとしました。ぼくがどのくらいのしん長なのか、どんなかおか、どう体を動かしているのか、何も分からなかったのだと、その時はじめて気づきました。きっと、ぼくの声のちょうしや、間、時々ぼくとその人の話の間に入るお母さんのことばを聞きながら、ぼくの気持ちを考えて、話してくれていたのかもしれません。
その人との出会いは、ぼくの障がいがある人へのイメージをかえました。ぼくたちがあたり前と思っていることをするために、たくさん考えて、くふうしながら生きていること。話をすれば、障がいなんてかんけいがなくて、心がかようこと。お手つだいしたほうがいいのかなとまよう時は、ゆうきを出して聞いてみることも大切だということ。出会いからこれらのことを強くかんじています。
少し前、コンビニエンスストアで、目の見えない人が白いつえを持ちながら、買いものをしていました。
「何かとりますか。」ぼくの声に、はじめはびっくりしていたけれど、「ありがとう。」と言ってくれて、ぼくは心があたたかくなりました。前のぼくだったら、こわい、どうしたらいいのだろうという気持ちで、話しかけようとはしなかったと思います。
さいごに、ぼくのゆめは、障がいがある、ないにかんけいなく、たくさんの友だちをつくることです。たくさんの出会いから、自分を成長させていきたいです。
そして、てつ道が大すきなぼくの友だち、ありがとう。前にプレゼントしてくれた、たびのおみやげ、大切にしているよ。
【中学生区分】◆神戸市
「少(すこ)しずつ、ゆっくりと」
神戸(こうべ)市立湊翔楠(みなとしょうなん)中学校 三年
椎原(しいはら) 温人(はると)
僕の兄は、高校三年生で特別支援学校に通っています。自分では学校に行けないので、毎朝お母さんが連れて行っています。三歳の頃、病院で「重度の知的を伴う自閉症」と診断されたそうです。兄は、見た目だけでは、障がいがあるなど全く分からないけど、一つひとつ何をするにも行動が大きく、体を前後に動かしたり、手をパチパチと叩いて大きな音を出したり、声がとても大きいので目立ちます。そのため、家族で出かけたとき、みんなから注目されます。その度に、
「そりゃ大声出したらみんなびっくりして見てくるに決まっとるわ。気にしたらあかん。」と両親が言っています。僕は、それが嫌なので、人目を気にして離れて歩いてしまっているときがあります。
僕が小さい頃は、兄がみんなとは違うなんて全く分からなかったし、気にもなっていませんでした。しかし、だんだん大きくなって両親に聞いたりしていくうちに、その意味が分かってくるようになりました。だけど未だになかなか受け入れることができずにいる自分がいます。突然パニックになって、泣き出したり怒ったりするときがあるので、僕にはどうしたらいいのか分かりません。しばらくすると落ち着き、何が嬉しいのか急に笑ったりする兄です。
ある日、僕は友達とお祭りに行く約束をしていて、両親に、「お兄ちゃんも行くん?連れて来んといて。」と言いました。すると、お母さんは悲しそうに笑って、「わかった。行かへんから楽しんでおいで。」と話してくれました。僕はその時のお母さんの顔が忘れられません。障がいのある兄のことが恥ずかしい、隠しておきたいという気持ちが強かったので、その時は何も考えずに言ってしまったのです。今思えば、どうしてそんな酷いことを言ってしまったんだと後悔しています。
小学五年生の弟は、僕とは違って特に気にしていないのか、「お兄ちゃんは頑張ってるねんで。」とよく笑顔で話しています。本当に優しい弟です。なのに僕は、きついことを言ってしまったり、理解することができないなんて情けないです。
兄は言葉は話せないけど、自分の気持ちを伝えようと一生懸命頑張っています。少しずつ、ゆっくりだけど、できることが増えたりしています。この先も、家族全員で支えていかなければいけません。今回、この作文を書くことを、正直とても悩みました。しかし、書くことによって僕自身の気持ちを変えないといけないと思ったのです。兄もきっと辛いはずです。そんな時は、僕がちゃんと目を見て、ゆっくり優しく話そうと思います。だって、僕はお兄ちゃんの弟だから。
世の中には、兄のような障がいを持つ人や、他にも様々な障がいを持つ人がいます。家族の僕ですらそうだったのだから、周りからはもっともっと理解されないことでしょう。しかし、僕たちがそうであるように、みんなそれぞれのペースで、それぞれの人生を頑張って生きています。僕は、そのことをもっとたくさんの人たちに分かってほしいと思っています。
【中学生区分】◆静岡県
障(しょう)がい者(しゃ)と共(とも)に働(はたら)くこと
加藤学園暁秀(かとうがくえんぎょうしゅう)中学校 三年
長田(ながた) 大和(やまと)
僕は障がい者の友人がたくさんいる。小学生の時からボランティアとして毎年彼らとボウリングをしたり掃除の仕事(実習)をしていた。
僕の母の会社はいわゆる「掃除会社」で、そこで障がい者とともに働いたり、障がい者も一般社会で働けるような支援をしている。小学校五年生の時に初めて母から「夏休みだし、障がい者と一緒に掃除のボランティアをしてみないか」と誘われたのがきっかけで一緒に働くことになった。僕にとって障がい者はそれまで遠い存在で、精神障がい、知的障がい、身体障がいがあることも知らなかったし、生まれて初めて精神障がい者と知的障がい者と話をした。彼らはいたって普通で、見た目には障がいがあることはわからない。コミュニケーションも取ることができるし、掃除はプロと変わらないくらいの技術がある。掃除を「面倒だな」と思っている僕が恥ずかしくなるくらい一生懸命でひたすら汗をかいていた。その姿を見ていると僕も一生懸命にやらざるを得ない。
帰ってから母に「どうだった?」と聞かれた。普通だったよと答えてから僕は「障がいって何なんだろう」と疑問を持った。母は「特性よ」と言っていたけれどその意味はわからなかった。
母の祖父(僕にとって曽祖父)は「皆でお互いに助け合いながら幸せに生きて行こう」と障がい者とともに仕事をしてきたそうだ。だから障がい者は弱者と括らず、お互いに助け合うという気持ちが大切だと説明してくれた。そこでなるほどと思ったのは一緒に掃除をしていると僕まで一生懸命になったことだ。掃除の技術を教えてくれる指導者の話を熱心に聞き、確かにそれを忠実に守って実行している姿は心を動かす。彼らから学んだことだ。
日本の企業は障がい者を雇用しなくてはならないという義務があるそうだ。もちろん障がい者の人たちが多く働くことが出来る世の中になったら良いと思うが、本当に必要なのはその人に合った仕事で働くことだと思う。一緒に仕事をしてきてその人に向き不向きがある。例えば細かな作業が得意な人。数を数えるのが苦手な人。雇用を義務にしてしまうと、ただ雇用すればいいという考え方になってしまい、その仕事が合っていなければ働いていても苦痛になってしまい結局その障がい者の幸せにつながらない。
僕が一緒に働いていた友達は、一般企業に就職したけれど仕事が合わずに辞めてしまったそうだ。理由は、数が数えられずに怒られることが続いたからだ。また一方で別の友達は母の会社へ就職した。もう五年経ち先日会った時も笑顔で積極的だった。楽しいと言っていたし仲間とも協力し合って仕事をしていた。今では一人暮らしをしていると言っていた。
曽祖父の言葉「皆で助け合う」はとてもわかりやすい小学校の道徳に出てくる言葉だが、実行するのが難しいことだ。それは、人は認め合うことがなかなかできないからだ。僕自身も人を認めたり許すことがきっと出来ていないと思う。この「認め合う」ことがもしかすると母が言っていた「特性」なのかもしれない。
僕に今できること。それは自分自身を変えることかもしれない。人として大切にしなければならないことを備えた、そんな大人にならなければならない。
【中学生区分】◆長崎県
兄(にい)ちゃんの想(おも)いと役目(やくめ)
大村(おおむら)市立西大村(にしおおむら)中学校 二年
服部(はっとり) 嵯介(さすけ)
四年前「心の輪を広げる作文」に出会った。小学五年だった僕は中学二年となり、障害を持つ妹は年長から小学三年になった。
今日も、いつものように僕は妹と登校している。中学校と小学校が近いので、中学を卒業するまで妹を見守り続けたい想いの一つである。妹は登校中も周りの人に「おはよう」と挨拶する。中学生の女子といきなり手をつないだり話しかけたりもする。皆、最初は驚くが、いつの間にか友達のようにおしゃべりする。この積極的なコミュニケーションは、誰にも真似できない特技であり、周りを笑顔にするパワーにもなる。妹と学校生活を送った事がある生徒達は、妹の特徴を理解してくれて仲良く接してくれるので、これからも変わらないでほしいと願う一つである。
しかし、妹のことをまだよく知らない低学年生の中には、妹を避けようとする生徒もいる。ある日、登校中いつものように妹が周りの子に「おはよう」と声をかけると逃げ出す子達に会った。「もしかして、妹はいじめにあってるのか。」と気になり、逃げていた子達に近づくとやはり、「逃げろ」と言って妹から離れていく。その瞬間、僕達と一緒に登校している友達が追いかけていき、その低学年生に「なんで逃げるとさ」と問いかけてくれた。残念ながら、その低学年生達はバッグで僕の友達を思いっきり叩いて逃げていった。「大丈夫?」と声をかけると友達は「さっちゃんをいじめたら許さん。」と真剣に怒っていてその姿に嬉しさを感じながらも少し笑えた。なぜかというと、その友達も妹と出会ったばかりの頃は、妹の積極的な態度に圧倒され一言も話さず体が固まっていたことを思い出したからだ。僕と妹の周りにいる友達は、ほとんどこんな感じで変わっていった。それは、僕達兄妹と一緒の時間を過ごしてくれたことにより、妹の障害も理解してくれて、それが特別ではない事を日々の生活の中で浸透していったのだと感じる。彼らは、きっと妹以外の障害者に出会っても障害者という偏見や壁を作らないで普通に接してくれるだろう。
やはり、僕は逃げていった低学年生にも妹の事を知ってほしいと思い追いかけた。「妹は、皆と仲良くなりたいだけ。もし、仲良くなりたいと思う人が自分から逃げていったら、どんな気持ちになるか考えてみて。」低学年生にとって中学生に言われたら怖いだろうなと思いながらも、どうしても伝えたかった。それが障害を持つ人の側にいる僕の役目だと思ったからだ。相手の気持ちを思いやることに低学年も大人も関係ないし、障害があるないも関係ないだろう。この低学年生も妹と一緒の時間を過ごしてくれたら、障害の事も妹の事も特別ではないとわかってくれると信じたい。ある日、この低学年生達は「さっちゃん、おはよう」と声をかけ照れくさそうに走り去っていった。妹も追いかけた。少しずつ心の距離を縮めてくれて、僕の役目も少し意味あるものになっているかな・・・。
障害を持つ人が特別であるという偏見がなくなれば、過ごしやすい社会に近づくだろう。障害を持つ人に歩み寄ってくれたら、言葉では表現できない感じる気づきがあるだろう。
きっと、妹と関わり合ってくれた人達は、どこかで障害を持つ人と出会っても「皆、違って皆いい。」と自然に感じてくれるだろう。
「妹へ」兄ちゃんが一緒に登校できるのは、残り一年と少し。さっちゃんと離れる日が一日一日近づいている。だから、兄ちゃんは一人でも多くの人に「皆、違って皆いい」を伝えていくから。妹は、変わらず人とつながる笑顔で挨拶し続けてほしい。四年前、ここで誓った「皆の思いやりが集まったら、大きな一つの輪になる。その輪は、どんな人でも優しく包んでくれる。」そんな社会になるように、この輪をもっと広げていこう。兄ちゃんの役目は、まだスタートしたばかりだ。
【高校生区分】◆三重県
私(わたし)が伝(つた)えたいこと
三重(みえ)県立名張(なばり)高等学校(定時制) 三年
小辻(こつじ) 英里加(えりか)
私は、中学二年生の時に軽度の知的障害と診断されました。診断を受けるまでの間は苦痛とも言える生活でした。周りの人とのコミュニケーションが取りづらく、作業ペースも遅く、理解力が乏しく、周りからバカにされました。
診断を受けた当初は、『障害者』として優しい扱いを受けて嬉しかった反面、『障害者』になってしまったという複雑な気持ちがありました。当時の私は、「障害者は可哀想」としか思っていませんでした。根拠のない、ただの偏見でしか見ていませんでした。
実は、私の弟にも障害があります。弟は障害のためしゃべることができません。歩くのもトイレに行くのも誰かの助けが必要です。私はそんな弟が大嫌いでした。両親は弟ばかり気にかけていて、私のことは後回しで、次第にそれが虐待に発展して、辛い思いばかりすることになりました。その間も弟は、眩しいくらいの笑顔を見せていました。私はその笑顔も嫌いでした。
ですが、「大嫌いな弟」から「自慢のできる大好きな弟」になったのは、私にも軽度の障害があると分かってからでした。きっかけは、弟が保育園に通い始めた時です。私は両親に代わって送り迎えをしていたのですが、弟は家にいるといつも笑顔なのに、登園する時はいつも泣いてパニックを起こしました。最初は気にとめていませんでした。保育園に通い始めて三ヶ月が経った時、私の学校が早く終わり、いつもより早く迎えに行った時です。保育園の先生が弟に対して、酷い嫌がらせをしているところを見てしまいました。その時、私は「ゆづ君を守らな」と思いました。その先生のところへ行き、見たことをすべて伝え、「大事な弟を虐めるな」と言って弟を連れ帰りました。帰り道、弟は「お姉ちゃん、ありがとう」と言葉の代わりに笑顔で語りかけてくれました。今まで嫌いだったはずの笑顔は、すごくかわいくて、その笑顔を見るとホッとしました。私はやっぱり弟が大好きなんだと心から実感しました。
私が中学を卒業し、両親が離婚し、弟は施設に入り、私は進学をあきらめ就職しました。就職してからは『障害者』として虐められたりバカにされたりしました。「障害者は生きている価値がない」とか、「障害者は人類のお荷物」とも言われたことがありました。
いつも疑問に思っていたことがあります。『健常者』は『障害者』のことをどう思っているのか?
障害を持っている私たちには、確かにハンディーがありますが、それは健常者も同じだと思います。世の中、完璧な人間はいないと思うし、私たちも健常者と同じように感情があります。健常者だって自分の得意・不得意があるはずです。ただ私たちは、得意・不得意が普通よりはっきりしているだけの事なのに、それが嫌われたりします。私たちは『得意』より『不得意』が多いかもしれません。でも、得意なことだと周りの人よりも優れた才能を発揮します。例えば、私は記憶力が優れていて、通りがかった車の番号や形などを一瞬で記憶してしまいます。弟は、自分の好きなアニメのキャラクターを全部覚えていて、写真を見ただけで写真とネームプレートを組み合わせることができます。それを聞いて、「だから障害なんやろ」と言ってくる人がいますが、それは違います。それは『障害』ではなく、一人の人間の『個性』であることを認識してほしいと思います。
そして、国や政府にお願いしたいこともあります。さまざまな福祉サービスを受けられるのはありがたいですが、障害の度合いによって受けられないサービスや制度もあります。その審査基準を広げていただき、最も軽度な人でも利用しやすくしていただきたいです。そして、障害者施設を増やしていただき、職員も増えるような改革を考えてほしいです。
そしてもう一つ、『障害者雇用制度』の名称を変えてください。『障害者』という言葉は、私たちにとってとても嫌な言葉です。外国人が『外人』と呼ばれるのが嫌なように、私たちも『障害者』と呼ばれるのは、周りと違ったものとして見られるようで嫌です。私たちは障害があっても、周りと同じ人間なんだから。
最初に、私も「障害者は可哀想」としか思ってなかったと書きました。自分にも障害があると分かり、弟と接していて気持ちが変化し、今は「可哀想」ではなく「最高」の人間なんだと思うようになりました。
今、伝えたいことは、どんな人でも一人の人間として見てほしい。困っている人がいたら、すぐに手助けをしてあげてほしい。そうすれば、この世の中は、ハンディーのある人間もない人も、もっと共存しやすくなると思います。心の輪を広げることができると思います。
最後に、私は『障害』があって良かったと心の底から思っています。なぜなら、人の痛みや辛さが分かるようになったから。他の人たちには、二度と嫌な思いをさせないって心に誓うことができたからです。
【高校生区分】◆鹿児島県
障害(しょうがい)のある人(ひと)との関(かか)わり方(かた)
鹿児島(かごしま)県立鹿児島中央(かごしまちゅうおう)高等学校 二年
園田(そのだ) 康太郎(こうたろう)
わたしは中学二年生のとき、県内にある養護学校に学校の行事で行ったことがある。そのときの交流の内容は、自己紹介をしたりそれぞれが考えてきたゲームをするというものだったのだが、実を言うとわたしは最初にその話を聞いたとき、少し不安に感じた。何が不安だったかと言うと、養護学校の生徒に対する接し方やコミュニケーションの取り方だった。軽い障害の子も多いが、手足が自由に使えなかったり、急に興奮したりしてしまう子ももちろん居ると聞いていたので、そういう子たちにどのように接したらいいかあまり分かっていなかった。しかし、せっかくの交流なので、相手をがっかりさせてしまうような交流にしては良くないと思い、自分なりにいくつかコミュニケーションを取るうえで気を付けたいことを考えてみた。まず一つ目は自分から積極的に話しかけてみることだ。こちらが壁をつくってしまえば、向こうももちろん話しかけづらいだろうし、一度話してみれば意外と気が合うようなこともあるかもしれないと思ったからだ。二つ目は、なるべく健常者と同じように接することだ。それは、もし自分に障害があって、身体になにか不自由があった場合、障がい者だから大変そうだなどと思って接してもらうよりも、健常者と同じように接してもらえた方が嬉しいだろうなと思ったからだ。三つ目は、基本的に笑顔で接することだ。やはり表情一つで印象はかなり変わると思う。
そしてそれから数日が経ち、クラスでの出し物やいっしょにするゲームを何にするかなども決まってきた。なるべくルールが分かりやすく、楽しみやすいものにしようということで、ペットボトルを使ったボウリングをすることになった。また、養護学校の生徒たちに喜んでもらえるよう、最後に歌を歌うことになった。この段階で、わたしは交流の日がとても楽しみになっていた。
そしてとうとう交流の日になり、わたしは楽しみであると同時に少し不安でもあった。それは、養護学校の生徒たちが楽しんでくれるかという不安だった。しかし、実際に体育館で対面して、交流しているうちに、そのような不安は必要ないと気付いた。最初の自己紹介のとき、十人ずつくらいの組に分かれて自己紹介をしたのだが、自分はさっそく隣にいた子に話しかけてみた。すると、向こうも嬉しそうに自分と話してくれた。その後は自分たちの考えてきたゲームをやったのだが、とても楽しそうにやってくれたので、こちらもとても嬉しくなった。その後もたくさんの子と会話をしたりでき、最後に歌った歌でもみんなとても喜んでくれたので、改めて交流ができてよかったなと感じた。
この経験を通して学べたことは、障害のある人たちとわたしたちとの間には壁はないということだ。最初は先入観などもあり、もしコミュニケーションが上手くとれなかったらどうしようなどと考えていたが、実際に接してみて、そのような考えはなくなった。確かに中には自分ではほとんど動けなかったり、思ったように話したりすることのできない子もいたが、そのような子たちとも、何か工夫してゲームをしたり、身ぶり手ぶりでコミュニケーションをとったりすることができたので、自分にとってこの交流はとても大きな経験となった。
将来、職に就いたときに、もしかしたら生まれつきの障害のせいで仕事が思うようにできない人がいるかもしれない。そういうときには、相手の障害のことをしっかりと理解し、率先して手助けができるような大人になりたい。障害のある人にとって一番嫌なことは、自分の障害を理解してもらえないことだと思う。だから、多くの人々が障害について理解することができる機会があり、障害をもつ人々に対しての差別や偏見のない社会にしていきたい。また、すべての人が障害の有無にかかわらず、平等な社会活動を営むことのできる社会をつくれるよう頑張ろうと思う。
【高校生区分】◆群馬県
生(い)きることで
群馬(ぐんま)県立伊勢崎興陽(いせさきこうよう)高等学校 二年
長谷川(はせがわ) 璃奈(りな)
「病気はどうして私を選んだのだろう。」
十七年間の人生の中で今までに何度も考えたことがある。そもそも「障害」とは何を指すのだろうか。どんな印象を持つのだろうか。
私は、産まれつき心臓に疾患のある完全大血管転位症という病を患っていた。この病気は左心室から出るべき大動脈が右心室から出ており、右心室から出るべき肺動脈が左心室から出ているという心臓の出口の血管同士が互いに入れ替わっているのだ。本来ならば、全身→心臓→肺→心臓→全身→と続くべき血液の流れが全身→心臓→全身・肺→心臓→肺という二つの血液回路になってしまう。この状態だと生命を維持できず生存率は極めて低くなる。助かる可能性が少しでもあるなら、と諦めず手術を決断してくれた両親がいたからこそ今の私がいるのだ。
そして、それからは病気を受け入れ向き合って行く為に過ごしてきた。小さい頃の入退院を終えて四歳から通い始めた保育園。周りの友達に病気のことを聞かれたらどうしよう、幼いながらも不安な気持ちがあった。けれど不安が嘘のように、みんな普通に接してくれた。その頃は運動制限も無く鬼ごっこ、缶けり、ケイドロなど走ることが大好きで運動会のかけっこでは一番でゴールすることが多かった。とにかく活発で傍から見たら病気とは思えない程に元気だった。定期検診で早退して病院に行くときは、「バイバイ。」や「頑張ってね。」などと声をかけてくれて皆なりに病気を理解しようとしてくれているのが伝わった。こうして卒園までの間、病気を理由に何かを我慢したり嫌な思いをすることは無く充実した時間を送ることが出来た。これなら小学校も大丈夫だろう、と少し自信がついた気がした。
しかし、現実は違った。
「ずる休みしてるの?」
小学三年生から心臓に負担がかからないように、走るなどの激しい運動が禁止という運動制限がかかった。以来、体育は見学が当たり前になった。この何気なく発せられた言葉に傷ついたと同時に怖くなった。周りの友達は病気を知っている子もいれば、知らない子も多い。怪我をしている訳でも無く目で見て分かるように体のどこかが不自由な訳でも無い。誤解されても仕方なかったのだ。このとき初めて周りからの視線を気にするようになった。水泳、持久走、皆が嫌いだったり苦手とする授業では周りから余計に「どうしてずっと見学なの?」や「見学だと楽で良いね」などの言葉をかけられた。そして、この反応が「障害」に対する率直な印象だと思った。相手のことを知りもせず、見た目や行動で判断し心無い言葉で傷つける。この社会では良く目にすることで、一歩でも間違えれば差別やいじめに発展する場合もある。まず、自分の「障害」を周りに理解してもらうことが始まりだった。
しかし、一度でも心無い言葉を耳にしてしまうと皆が同じ気持ちなのではないか、などと不安な気持ちがあった。そんなとき支えになってくれたのが両親や担任の先生だった。特に両親は病気のこともあり、些細なことも気にかけ心配してくれて学校の様子も良く話していた。勇気を出して両親に伝えれば「嫌な思いさせてごめんね。」や「他に何か言われた?」などの声が返ってきた。担任の先生も皆に分かりやすく病気のことを説明してくれて、それでも心無い言葉をかけられたときは「言って良いことと悪いことがあるよ。」と、友達を叱ってくれたり私に励ましの言葉をかけてくれた。この出来事をきっかけに、周りの反応も変わって行き体育の授業では「これなら一緒に出来そう?」と誘ってくれるようになって、嬉しかった。運動会や体育大会、参加は出来なくても一生懸命に皆が練習する姿を見て精一杯の応援を送った。当日、種目が終わった友達には「応援ありがとう。」や「応援のおかげで頑張れた。」と言われてクラスの仲間として参加できていることが嬉しかった。優勝したときには、皆で一緒になって喜びを分かち合った。写真撮影では「真ん中で写ろうよ。」と端にいた私を気遣ってくれて、皆と同等に接してくれたことが本当の意味でクラスに打ち解けられた気がした。
「病気はどうして私を選んだのだろう。」
繰り返しになるが、十七年間の人生の中で今までに何度も考えたことがある。二度の手術を経験し、毎年の検査入院や定期検診。その度に恐怖や不安を抱え押し潰されそうになった。誰が悪い訳でも責任がある訳でも無いのに目の前にいる両親に当たってしまう。自分でも知らないうちに自分自身が壊れていくようで、耐えられなかった。それでも、支えになってくれたのは変わらず両親や兄妹、友達、医師や看護師さんだった。常に傍にいてくれて、弱音を吐くと励ましの言葉をかけて背中を押してくれた。不安なときは話し相手になってくれて心が軽くなった。こうして周りの多くの助けがあってからこそ、困難を乗り越えることが出来た。
私は、この病気を抱えて生きていかなければならない。きっと、この先も傷つくことや大きな試練が待っているかもしれない。けれど、病気を持って産まれたからこそ自分一人では生きていけないことを身に染みて感じ、今この瞬間を生きていることも奇跡だと思った。「障害」とは、目に見えるものもあれば見えないものもある。身勝手に判断し決めつけるのでは無く、まず相手のことを知り理解することが大切だと思う。そして、自分には何が出来るのか、もし逆の立場だったら自分はどうして欲しいのか、を考えることだ。差別やいじめという偏見だけで人を判断するのではなく、一人の人間として尊重することで障害者と健常者が互いに生きやすい社会になるのではないかと思う。私も、「障害」と向き合い今まで大切に育ててくれた両親に感謝を忘れず、今日という時間を生きていきたい。
【一般区分】◆北九州市
触(ふ)れ合(あ)ってわかる大切(たいせつ)なこと
黒田(くろだ) 美穂(みほ)
平成二十八年秋、どこかで何気なく手に取ったチラシ「みんなでフラッシュ・モブ」。
テレビなどでよく耳にするようになったフラッシュ・モブ。街の中などで突然踊り出し、戸惑う人たちを横目に、一通り踊った後に、また何事もなかったかのように人ごみに戻っていく、というパフォーマンスである。
以前から、面白そう、やってみたい、と思っていた私は、早速問い合わせた。
あの、まだ空きはありますか。恐る恐る尋ねる私に、応対してくれた職員は「是非いらしてください。」と言ってくれた。
やった、うれしい、空きがあった。ワクワクした気持ちで当日を待った。
そして当日。
どんな人が来ているのかな。私のようなおばちゃんに務まるのかな。などと、いろいろ考えながら会場に向かう。黒崎コムシティの1階に、その会場はあった。
会場の扉をそっと開けると、そこは大勢の、障害のあるような人たちが三十人ほど集まっていた。会場を間違えたかと驚いて後ろを振り向く私に、会計の男性がにっこりとほほ笑む。あなた間違ってませんよ。
私の戸惑いをよそに、ワークショップが始まった。講師の言うことなど聞かないでぐずぐずしゃべりながらうろつく女の子、ひたすら飛び跳ねる男の子、意思がうまく伝えられない子、耳が聞こえないおじさん、決して手をつながない女の子…、そんな人たちの輪の中、「思っていたことと違う、どうしてこんなことになったのか、これが、私が求めていた場所なのか。」と、ダンスそっちのけで自問自答の2時間が過ぎていった。
やれやれ終わった。フラッシュ・モブだというから来てみたのに、予想と違う。もう来るまいかな、と思った。隣では、同じく初めて参加したらしい女性が半ば腹立たしそうにつぶやいた。「思っていたのと違う。」
彼女のように、私ももうやめちゃおうかな。
帰ろうとする私に、みんなが口々に言ってくれた。
「じっちゃん、また会おうね。」
でも、まだこの時は、次から来ないことばかり考えていた。帰宅してからチラシをよく読むと「障害のあるなしにかかわらず、一緒にダンスワークショップを」と書いてあるくだりに気がつき、こういうことかと苦笑した。
ここをよく読んでいれば申し込まなかったかもしれない、などと、私は後悔しながら、なぜ、この「みんなでフラッシュ・モブ」に応募したのかと考えた。
会社で経験のない慣れない部署に廻され、同僚には聞こえるように悪口を言われ、後輩には朝の挨拶もされず、一人だけの残業を見て見ぬふりの上司、そんな毎日に辟易していた日々の中手に取ったチラシに、「何かワクワクするものがあるかも。」と申し込んだのだ。
しかも、1回だけでやめては、せっかく納めた講座代がもったいない。とりあえず今期、あと5回続けよう、と決めた。
そして2回目。ちょっと重い気持ちでドアを開ける。すると、みんなが口々に笑顔を向ける。「じっちゃん、こんにちは。」
あ、私のことを覚えてくれていたんだ。また会おうね、と言ってくれた言葉は、何の飾りもなく、心の中から言ってくれたものだ。
こんな私でも受け入れてくれる場所が、ここにあった。この人たちは、人を受け入れる温かさを持っている。
やめようかという迷いにとらわれていた自分が、申し訳なく思えた。
その日から、この時間を楽しむ私がいた。そして、彼らとの交流の中で、普段の生活も変わった。街の中、バスの中、困っている人がいれば、どうしたのだろうかと思いを寄せ、手を差しのべる勇気をもらった。
それから2年、私たちダンス集団「レインボードロップス」は、八幡東区中央町商店街、チャチャタウン小倉、ウェル戸畑などでダンスの披露を行ってきた。
障害のある人でもダンスに打ち込む姿を見ると、すごいなと思うし、私も頑張らなければ、と励みになる。
ここに来てよかった、と、今は迷うことなく言える。
誰しも、弱いところがある。自分ではどうにもならないことがある。
障害をもった人たちは、この弱い私を仲間と認めてくれた。ダンスの楽しさ、作り上げる喜びを教えてもらった。
障害を持っているから何もできないわけではない。その人から学ぶことはたくさんある。
しかし、社会には、いわゆる「健常者」がいわゆる「まとも」な人間を標榜しながら、弱い人を攻撃し、傷つけ貶めることに喜びを見出す人たちが、少なからずいる。
折しも、数年前、悲しい事件が起きていた。
障害を持つ人間は生きる価値がない、こんな自分勝手な理由で、多くの障害者が殺され、傷つけられた事件だ。
自分こそ劣っている人間を粛清する資格があるなどと、誤解も甚だしいが、加害者が、自分の弱さに目を向け、「誰かに助けられている」という認識があれば、このような理不尽な事件は起こらなかったのではないだろうか。その自分の弱さに気づかせてくれるきっかけが、この加害者にはなかったのかと、残念でならない。
普段の生活の中でも、会社や学校に新しく加わった人や、仕事に就いたばかりの人、仕事があまりできない人など、弱い立場の人にわざと意地悪、いじめ、仲間外れ、悪口を言いあうなどということがある。
自分も、ややもすれば、「そちら側」になり、大きな間違いをするところだった。
小さな優越意識が、取り返しのつかない大きな誤解につながらないように、いろいろな人と交流し、認め合っていくことが肝要と、常に思う。
【一般区分】◆福岡県
自分(じぶん)の歩幅(ほはば)で
郡(こおり) 健人(けんと)
私は、ずっと「普通に生きたい」と、思っていました。先天性の障がいがあっても、それを跳ね返し、感じさせないような生き方をしたいと思っていました。しかし、今になって考えると、それは少しズレた「普通」だったかもしれません。
私は、先天性ミオパチーという筋肉の疾患と共に生まれてきました。全身の筋力が著しく弱く、出生後間もなく入院。呼吸や哺乳の問題で、約一年間の長期入院を要しました。それでも、両親はいつも見守ってくれていました。四歳の時には、通っていた肢体不自由児通園施設と交流のあった幼稚園に入園することになりました。自身に障がいがあるという自覚は、この時すでにありました。
学生生活は、小学校から大学まで普通級に通いました。その過程で膨らんだのが、「普通」への憧れでした。自分自身の障がいが嫌いだったわけではありません。それでも、周りと出来る限り同じことをできる状態でいたかったのです。それは、プライドだったり置いて行かれる恐怖だったり様々な気持ちが入り混じったものでした。特に印象に残っているのは、小学生の頃の水泳の授業です。どうすればみんなと同じように参加できるかを担任の先生や父と話し合った結果、フィンを着けて参加することになりました。当時は、みんなと遜色ない速さで泳げるようになったことがとても嬉しかった記憶があります。
しかし、憧れの気持ちだけで全てを乗り切れるほど甘くはありません。大学卒業を控えた時期に、身体の異変が起こりました。原因は、呼吸をする筋力の低下でした。就寝中に息を吐き出す力が足りず、無呼吸状態になる時間帯があることが発覚しました。急遽夜間の人工呼吸器導入に向けての検査入院をすることになりました。私は、この入院で大きなショックを受けました。元々筋力のない私にとって、これまで目指していたような「普通」に合わせる生活は過度な負荷だと伝えられたからです。それと同時に、私が抱えている障がいは、自身で想像していたよりもうんと重いものであることを痛感しました。私は、悔しさや落胆でどうしていけばいいのか分からなくなりました。
そんな時に、呼吸リハビリは始まりました。当初は、とにかく機能を戻すべく張り切って身体を動かしすぎて注意を受けました。担当の理学療法士さんに「現状を維持することが成果だからね。」と言われても気持ちは焦っていました。
リハビリが始まり数日が経ったころ、ある患者さんと診療台が隣になりました。整形外科に入院されていたその方は、とても明るく私にも話しかけてくださいました。
「最近、よく頑張りよるね。」
「私は、退院したらまた自転車に乗って出かけるとよ。」
「でも、無理はダメげな。できるとこまで。」
その方は、事故で右脚を失っていました。それでも、目標を定め、自分の頑張り方で前に進んでいました。私は、その方のリハビリをする姿に、こうした一言一言に衝撃を受けました。そして、私は憧れを追うあまり、いつからか自分のできる頑張り方から離れていたことに気づきました。
今思うと、私自身が障がいを持っていることは弱いことだ、という偏見を持っていたのかもしれません。周りに近づくことだけが正解とばかり思っていたかもしれません。みんなと同じレベルを目指す「普通」でなく、自分の意志を持って「普通」に頑張る。障がいの有無に関わらず、その人ができるその人の頑張り方を見つけていくことが大事なのだと思います。
私は現在、就労事業所に通所しながら患者会等のグループ活動にも参加しています。様々な会への参加は、私の視野を少しずつ広げてくれています。私と似た疾患だけでなく、全く違う部位の疾患の方とも話す機会が増えました。誰かと不安や希望を共有することは、大きな安心感を生むことを教えてもらいました。
私にとって大きな転機となった呼吸器を使うようになって、もう八年が経ちました。あの頃より、少しはマイペースを覚えられたと思っています。これからも、より多くの人と出会い、それぞれの「普通」を学び続けたいです。そしていつか、頑張り方に迷った人が安心して話せる場所づくりに携わりたいです。
【一般区分】◆神戸市
心(こころ)のバリアフリー
松浦(まつうら) 綾子(あやこ)
先日、自宅で懐かしい文集をみつけた。『温かい手』と題されたその薄い本は、中高生の福祉体験についてまとめられたもので、早い話が、この作文コンクールの過去の受賞作品が収められた冊子である。そこに、二十年ほど昔の私の作文も収録されていた。
私が中高生のころ、夏休みを利用して地域施設でボランティア体験ができる「ワークキャンプ」という制度があった。私はその参加を楽しみにしており、毎年のように制度を活用させていただいた。とりわけ、お年寄りや障害者と交流できる施設によく赴いた。介護に関心を持っていたためである。高校では学内のボランティア推進委員会にも所属し、私は他の同級生よりも障害をもつ人たちとふれあう機会に恵まれていたように思う。
世間では、ボランティアやバリアフリーという言葉が定着しはじめていた。
私は自分の視野が広がってゆくのが嬉しかった。世の中には色々な病気や障害があることを学んだ。介護への理解を深める中で培われたのは、思いやりの精神だと思う。冒頭の文集には、障害者との交流を通じて、いかに気遣いが大切かということに気づいたかが綴られていた。
いま読み返すと、あのころのひたむきな姿勢をただただ、まぶしいと感じる。
ところで、福祉に長く携わる人は「障害は個性」という言葉を耳にしたことがないだろうか。私自身、社会に出てからも福祉活動を続けてきたが、これまでに何度もこの表現に出会った。障害も個性という表現は、どこか耳触りが優しい。障害者はみな、障害というユニークな個性を持っている――そう現場で教われば、そのままその表現を心に留める人が多いのではないだろうか。
しかし、私にはずっと違和感があった。
個性。そう表わされると、私にはそれが何だか良いもののように感じられるのだ。「個性がほしい」「個性的でうらやましい」――時としてそのようにも表現される「個性」に、障害はあてはめられるものなのだろうか。
もし自分が今、十代の私に出会えたならば。
「障害は障害だよ。自分の感覚を信じて、人を思いやる心を大事にしてね」
そう声をかけてあげたい。
人生には、予想もしないことがたびたび起こる。誰にも明日のことは分からない。人はいつか病を得るものとはいえ、遂に私にも一昨年の冬、思いもよらぬことが起こった。
私自身が、発病してしまったのである。
人生で初めて入院をし、短期間のうちに全身麻酔下の手術を二度も経験することになった。現在も通院を続けているが、難病だから完治の見込みはない。医師からは、進行すればこの病は障害者認定の対象になると聞く。患者会やSNSを通じて出会った同じ患者さんの中には、すでに障害者手帳を持つ人が何人もいる。発病当初、当然のことながら心身に大きなショックを受けた私は、うつ状態でふさぎこむ毎日を半年以上も過ごした。
「まさか自分が、介助される側になるとは」
今まで当たり前にできていたことが、不自由になる。体の変化に、心が追いつかない。自分が別人になってしまったような絶望感と、将来への不安が押し寄せては深く落ちこんだ。
そんな折である。
「病気も個性だから前向きにいこう」
健康な友人にこう励まされた瞬間、私は何だか無性に寂しくなってしまったのである。心の中に、渇いたものが広がってゆく。今まで幾度も耳にしたこの言葉は、本人の立場になればこのように響くものかと知った。はっきりと感じてしまった、心の温度差のようなもの……。
私の知る、同じ病気を患い障害者認定を受けた友人のうち「障害(病気)は個性だから」と捉える人はいない。皆が、病気に対して悔しさや憤りや、大きな不安を抱えて生きている。病気を受けいれるだけでも、相当苦労をした経験をもつ。発病確率は百万人に数人程度、根治は移植に頼るしかない――私たちの病は、支える家族にも大きな負担をかける。個性と一言で表わすには、あまりに重い負荷なのである。
もし、個性という言葉を適切に用いるならば。それは障害そのものではなく、ハンデという逆境を受容する過程を経て得た力を基に人生を歩もうとする、それぞれの生き方こそが、個性と言えるのではなかろうか。
障害は障害だよ。
これから福祉について学んでゆく人たちに出会う機会があれば、私はぜひそう伝えたいと思っている。そのうえで心の段差を除いてゆけば、人は人とのつながりの中で、豊かなものに触れられると信じている。
今、私は健常者も障害者もその中間の私のような状態の人たちとも多くのつながりを持っているが、ことさら障害を意識することはない。私は、全ての人に配慮を心がけるからだ。心のバリアフリーとは、健常者が障害者に接する時の特別な態度ではなく、人が人と向き合うために必要な心の在り方なのだから。
人は十人十色という。たくさんの色を知りたければ、自分から求めてゆかねばならない。赤や青ばかりが一番と思っていると、景色は単調なものとなるだろう。
全ての色彩を認め、自分の色も見せてゆけたら、自分も周囲の人の人生も彩り豊かなものになる、そう思うのだ。
二十年かけてようやく、私は心のバリアフリーを掴みかけている。
※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページ(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/30sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。