平成23年度 交通安全施策に関する計画
別添参考
参考-5 平成22年度交通安全ファミリー作文コンクールの最優秀作

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別添参考

参考-5 平成22年度交通安全ファミリー作文コンクールの最優秀作

○小学生の部 最優秀作〈内閣総理大臣賞〉

北海道札幌市立月寒東小学校 四年 瀧田 小麦

祖母は見習い魔法使い

 「今度は何に変身したんだろう」

 私はワクワクしながら、祖母の家へ自転車を走らせる。かげろうの向こうで祖母が、私の大好きなキュウリを高くかかげて笑っている。家に入ると、見覚えのある柄のクッションが置いてある。去年まで私が着ていた大好きだったワンピースで作られたクッションだ。

 祖母は七十三歳。昔、右手に大けがをして指が思う様に曲げられなくなったそうだ。不自由な事はたくさんあるけれど、私が喜ぶからとその指で器用にぬい針を持ち、私の着られなくなった服をクッションやバッグに作りかえてくれる。そんな魔法の手を持つ祖母を私は「魔法使い」と呼んでいた。

 ある日、その祖母が車にはねられた。

 学校を早退して母と二人で病院に向かった。病院へ向かう車の中で、私の手をにぎる母の手はふるえていた。私は泣きたいのをがまんして母の手をにぎり返した。

 祖母はベッドの上でねむっていた。声をかけても動かない。右手もひざも、むらさき色に大きくはれていた。これから大きな手術になるとお医者さんから説明をされて、私と母は小さな待合室で二人でだき合う様に待った。

 祖母をはねた人が来て、母に何度もあやまっていた。青い顔をして、泣きそうになりながら頭を下げていた。

 事故がなければ、祖母も私も母もこの人も今ごろ、みんなちがう場所で楽しく明日の事を考えながら笑っていたのかも知れない。テレビのニュースや新聞だけでしか知らない交通事故は本当に、ある日突然、自分もかかわる事になるんだと私は思った。それは被害者だから加害者だから、どちらかで良かったという事はなくて、どちら側になってもつらくて悲しくて、何人もの人から笑顔が消えてしまうおそろしい事だと。

 無事に手術がすんで、しばらくして祖母のリハビリが始まった。とてもがまん強い祖母が、手やひざを動かすたびに泣いていた。痛くて顔がぐちゃぐちゃになるけれど、それでも祖母はやめずにリハビリをくり返した。私はそんな祖母の姿を見るのがつらくなって、祖母の元へ行く回数がへっていった。

 祖母の退院が決まったけれど、手も足も前のように動かせなくなったと母から聞かされた。私は祖母が作ってくれたクッションや服をだきながら泣いた。事故がにくいと思った。

 退院した祖母に会いに行った。落ちこんで安静にしていると思った祖母は、私の小さくなった服を前に再び針仕事をしていた。

 「また一から始めたよ。前みたいに作るには時間がかかるけど、待てるかい?」 ふるえる手でやっと針を持ち笑う祖母。「魔法使い」の祖母は、この日から「見習い魔法使い」になった。ゆっくり一針ずつ、大きさのちがうでこぼこなぬい目は、私に交通安全の大切さを教えてくれている様に思えた。

○中学生の部 最優秀作 〈内閣総理大臣賞〉

富山県高岡市立高陵中学校 一年 西川 太朗

じいちゃんの決心~免許証返納~

 祖父は今年で八十一歳である。祖父は、八十歳を超えたのを契機に、自動車免許を返納した。

 最近、高齢者による交通事故のニュースが頻繁に報道される。そのたびに、祖母は祖父に免許証を返納することをすすめてきた。車なしの生活は行動的な祖父にとって、とても不便である。カラオケ同好会、温泉旅行、市の会合など、その全てに車で出かけていた。しかし、祖父が健康なうちに車なしの生活に慣れてほしいというのが、祖母の願いであった。

 ずい分迷ったようだが、数年前から視力がかなり落ちたこともあり、祖父は、事故防止のために免許証返納を決心したようである。

 では、なぜ迷ったのか。それは、僕の家庭の生活スタイルと深い関係がある。僕は、両親が共働きのため、乳児のころから日中は祖父宅に預けられ、そこで過ごした。保育園も小学校も、祖父宅から通い、祖父宅に帰った。夜になって母親が迎えに来るまで、ずっと祖父宅で過ごしてきた。

 そのため、乳児健診に始まり予防注射に至るまで、祖父が運転する車で連れて行ってもらった。また、習い事の送迎や必要な買い物は全て、祖父が車で同行してくれた。昼から突然の大雨になった日は、祖父が車に乗って学校にそっと傘を届けてくれた。

 「太朗が中学生になるまでは、運転しとらんとのう。」

 祖父が口癖のように言っていた。前は、祖父の言葉を漠然と受け止めていたが、今はそれが祖父の愛情が裏打ちされたものだと分かる。ありがとう、じいちゃん。

 そして、祖父は、愛車にさよならした。僕の生活を支えてくれた車でもある。強い愛着があった。

 祖父の車なしの生活が始まった。祖父は前にも増してよく歩くようになった。とても八十一歳とは思えないくらいだ。

祖母が、
「いつ、車で事故にあうかと、ハラハラせんでよくなったわ。」
と笑う。

 僕は、祖父ともう車で出かけられないのはさびしいけれど、祖父が交通事故に巻き込まれることを考えたら、祖父の決心は大歓迎だ。無理をしない、無理をさせない。それが、交通安全の第一歩だからだ。

 今のまま、祖父が元気でいてくれることを願っている。そして、僕が大人になったら、僕の運転する車で旅行に連れて行ってあげたい。もちろん、安全運転で。

○一般・高齢者の部 最優秀作 〈内閣総理大臣賞〉

千葉県船橋市 高野 喬

新米自転車ツーキニスト

 父の体重が、七キロ減った。

 私の父はとある民間企業で働くサラリーマンである。今年の春から部長に昇進し、新しい部署に転属となった。

 新しい部署に転属となったことで、通勤先も、通勤方法も変わった。これまでは自家用車で通勤していた車好きの父だったが、新しい勤務先は電車での移動の方が都合がよいため、しぶしぶ電車での通勤に変えた。

 電車での通勤に変わって一カ月、父に転機が訪れた。とあるテレビ番組で、通勤のために自転車で颯爽とオフィス街を走るビジネスマンを観たのである。

 仕事熱心だが、やや肥満体形の父。今年で五十七歳になるそんな父の体調を日頃から心配していた私は、ここぞとばかりに自転車通勤を父に勧めた。

 「かっこいいけど疲れる」と渋る父をなんとか説得し、結局、家から少し離れた駅まで自転車で行くことになった。

 それから父の自転車通勤が始まった。

 最初こそ「疲れた疲れた」と愚痴をこぼしていた父であったが、二週間が過ぎた頃から変化が訪れた。

 「会社に着いてから、なんだか仕事がはかどるんだよ。朝から自転車に乗って身体を動かしてるからかなぁ」と嬉しそうに私に報告するようになったのだ。

 とはいえ、父の自転車通勤が始めから順風満帆だったわけではない。

 これまで自動車以外の乗り物にほとんど触れてこなかった父は、自転車で公道を走るということに最初は戸惑った。危ない思いもしたという。しかし、父はめげなかった。自分で自転車の交通ルールを調べ、学んでいったのだ。インターネットを使えば、自転車の交通ルールを調べるのは比較的容易であったという。交通ルールを調べ、それをしっかり守って走るようになってからは危険な目に遭うこともなく、実に楽しく自転車を走らせることができるようになったとのこと。

 「自転車で街を走るようになって、周りの自動車の危ない運転がよく目に付くようになったよ」
とは、自転車通勤が板につき始めた父の言葉であるが、その言葉どおり、これまで荒っぽかった父の自動車の運転が最近ではすっかり安全運転に変わった。自転車の交通ルールを学び、自転車に乗る側の立場を知った父は、前より優しくなった気がする。

 そして、自転車通勤を始めて四カ月あまり。

 父の体重が、七キロ減った。

 さらに、悩みの種であった血圧もぐっと下がった。

 「ちゃんとルールを守って走れば危なくないし、自転車ってすごく楽しいぞ」

 安全運転とは程遠かった父が、自転車通勤を機に変わった。毎日が充実しているように見える。私にはそれが、とても嬉しい。

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