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付録7 2019年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞

【小学生区分】◆鹿児島県

希望(きぼう)の星(ほし)

鹿児島(かごしま)市立西紫原(にしむらさきばる)小学校 五年
安田(やすだ) 湧(わく)


ぼくは「希望の星」です。ぼくは赤ちゃんの時に重い病気で鹿児島から神戸のこども病院に運ばれて、三年間入院していました。気管の病気で、何度も死にかけて、ずっと人工こきゅう器につながれていたそうです。それがきせき的に良くなって、今ではドッジボールができるぐらいに元気になりました。

こども病院をたい院した時に病院の先生やかん護しさん、入院している子供のお母さん達に言われたのが「わく君はこども病院の希望の星だからがんばってな。」だそうです。ぼくにはその言葉の意味が全然分かりませんでした。

昨年の夏休みに家族で四年ぶりに神戸に行きました。入院していた時の病院の先生やかん護しさん、子供達、家族に会いに行きました。神戸に行ったら、会う人みんなが「元気になって本当によかったね。」と喜んでくれました。ぼくを見て、なみだを流す人もいました。ぼくの病気は本当に重かったのだろうなと思いました。でも、みんなが喜んでくれて、何だかとても温かい気持ちになりました。

夜は、ぼくといっしょに入院していた同じ年の愛ちゃんの家にとまりました。愛ちゃんはぼくと同じ気管の病気で、たい院はできたけど、今でも人工こきゅう器が必要で、車いすでの生活です。のどからの人工こきゅうのため、声を出すこともできません。愛ちゃんのお母さんが、「ピアノをひいてくれへん。」と言ってきました。なぜならば、ぼくは、ようち園の時からピアノを習っているからです。ぼくがピアノをひき終わると、愛ちゃんのお母さんが「めっちゃ上手やな。」と言いました。そして、愛ち ゃんが「もう一回お願い。」という手ぶりをしてきました。ぼくは笑顔で「うん。」と言って、心をこめてピアノをひきました。愛ちゃんは体をゆらしながら楽しそうにきいていました。ひき終わると愛ち ゃんがはく手してまた「もう一回。」という手ぶりをしてきました。愛ちゃんのお母さんが「わく君のピアノが本当に気に入ったみたいやねん。ごめんな。あと一回だけひいてくれへん。スマホにとって、次からは動画を愛ちゃんに見せるから。」ぼくはにっこりして、もう一回、一生けん命ひきました。その後、愛ちゃんはぼくのピアノの動画をニコニコしながら何回も何回も夢中になって見ていました。ぼくのピアノの音色が愛ちゃんの心にとどいたようでとてもうれしかったです。

夜中、ぼくは人の家だからなかなかねむれずにいました。愛ちゃんのお母さんはずっと愛ちゃんのたんをとったり、人工こきゅうの管を動かしたり、何回か着がえさせたりとほとんどねていないようでした。

よく朝、愛ちゃんのお母さんに「いつねているのですか。」と聞いたら、「愛ちゃんが心配で、夜はなかなかねられへんねん。わく君のお母さんも入院していた時、同じようにわく君のかん病に必死でねていなかったんやで。」と言われました。お母さんもぼくのために夜ねむれないぐらいがんばってくれたのだと初めて知りました。ぼくのかん病でとても大変だったのだろうなと思いました。感しゃしたいです。「でもな、こうやってわく君が元気になったすがたを見ることができて、おばちゃん本当にうれしいわ。やっぱりわく君はこども病院の希望の星やねん。勇気でるわ。ありがとう。またピアノをきかせてな。」と言われました。ぼくはその時初めてぼくが「希望の星」と言われている意味が少しだけわかったような気がしました。

神戸に行って本当に良かったです。なぜならば、愛ちゃんが今も病気と戦いながら精一ぱい生きているすがたを見て、同じ病気だったぼくが今こうやって当たり前に生活できていることが本当に幸せなことだと気づかせてもらったからです。ぼくにとって愛ちゃんは一しょに病気とたたかってきた大切な仲間です。そんな愛ちゃんのため、ぼくにも何かできないかを考えました。ぼくは今、ピアノコンクールで全国大会に出場することを目標にがんばっています。絶対に出場して、その動画をとどけることで、愛ちゃん家族に勇気をあたえ、少しでも元気になってほしいです。きっと喜んでくれると思います。

また、ぼくが今、元気に当たり前の生活ができているのは、お父さん、お母さん、いろいろな人たちに助けられたからだということが神戸に行って分かりました。これからも感しゃの気持ちをわすれず、一日一日を大切にすごしていきたいです。そして、ぼくがいろいろなことに挑戦し続け、みんなをびっくりさせることでおん返ししていきたいです。だってぼくは、「みんなの希望の星」だから。

【中学生区分】◆福岡市

障(しょう)がいのあるとき

福岡(ふくおか)市立元岡(もとおか)中学校 三年
鶴(つる) 樹里愛(じゅりあ)


私は三歳のとき、十万人から十五万人に一人の確率で発症する難病を患いました。内部障がいなので見た目には全く分かりませんが、現在の医療では完治する方法がなく、もう十年以上、毎月検査と治療のため大学病院に通院し、必要に応じて入退院を繰り返しています。

病棟では、多くの障がいのある方が治療を受けています。車いすの方、義手・義足の方、発達障がいの方など、もちろん私のように目には見えない障がいの方も含め、それは多種多様な障がいのある方がいます。そして、お互いがお互いを支えています。例えば、車いすの友達がトイレに行くときには私が点滴台を押してあげたり、車いすの友達はベッド安静の友達に食事を運んであげたり、ベッド安静の友達は、目の見えない友達に本を読んであげたりと、出来ないことを見つけたら、出来る人が手伝います。そしてここでは、障がい者・健常者という区別はありません。あるのは、その場面ごとに、ある事柄が「出来る」か「出来ない」かだけです。

障がい者と健常者。この言葉は、確かに様々な制度や仕組みを作ったり、何かを分類したりする上で必要な言葉や概念なのかもしれませんが、障がい者という言葉には、その人がずっと二十四時間障がいがある状態という意味合いが含まれています。

でも病棟での例のように、障がいはあるときとないときがあります。車いすの友達は、自分で移動できますが、点滴台を同時には運べません。このときが運べないという障がいがあるときであり、誰かの支えが必要となります。目の見えない友達は、何でも自分で出来ますが、点字でない印刷物を読むことは出来ません。このときが読めないという障がいがあるときであり、誰かの支えが必要となります。

私は小学生の時、いつもくまのウエストポーチを身に付けていました。これは、低血糖で動けなくなった時に、周りにいる子達に気付いてもらい、すぐに先生を呼びに行ってもらうために、担任の先生が考えてくださったアイデアです。「くまのポーチの子が動けなくなっていたら、すぐに職員室へ先生を呼びに来て下さい。」と私が入学するとき、みんなに伝えてくれていました。普段は、友達と同じような生活を送れますが、低血糖で動けなくなったときが、私の障がいがあるときです。

そして私たちは、障がいがあるときには必ず誰かの支えが必要となります。この支えがあるおかげで、日常生活を送ることが出来ています。

これは健常者にも同じことが言えると思います。ベビーカーの親子は、階段を上ることが出来ません。お年寄りや妊婦さんは、電車等で長時間立っていたり、重たいものを持ったりすることが出来ません。視力の悪い友達は、後ろの席だと黒板の字が見えません。日常生活のいろいろなところに障がいがあるときがあり、誰かの支えが必要となっています。このとき、障がい者、健常者という区別は必要でしょうか。ただ、何かをするのに困っている人、手助けが必要な人がいるだけではないでしょうか。私は、障がい者と健常者の違いは、この障がいがあるときが多いか少ないかだけの違いなのかなと思っています。

障がい者支援、ボランティア等、これらの言葉を聞くと、肩に力が入ったり、かしこまってしまったりと、少し遠慮しがちなところはあるかもしれません。でも、街中で、障がいがあるときに遭遇し、手助けをしたら、たまたま相手が障がいのある方でした。これで私はいいと思うのです。注意をして周りをよく見渡せば、誰かの障がいがあるときが見つかるかもしれません。その時、みなさんに出来ることがきっとあるはずです。気軽に一声かけてみてください。

【高校生区分】◆大分県

障(しょう)がい者(しゃ)の家族(かぞく)として

大分(おおいた)県立国東(くにさき)高等学校双国(そうこく)校 二年
長谷川(はせがわ) 歩(あゆみ)


世間から見た障がい者のイメージは、どのようなものだろうか。私が聞いたものは「怖い」「迷惑」「可哀想」「ガイジ」などだ。

そのことをネットで、障がい者の家族の前で、そして本人の前で言う人がいる。私はそれが嫌で、許せなくて、理解もできなかったのだが、この夏の経験を通して、自分の考えがいかに薄っぺらく、偽善的であったかを思い知った。

私には広汎性発達障害の弟がいる(以下H。)私が小学二年生のときに生まれた子で、「H君、成長遅くない?」と友人に言われたときも、私はHをずっと「普通の子」と思っていた。なので母から、私を含めた兄姉に弟の障がいのことを伝えられたとき、心底驚いたし、また「普通」じゃなかったことにショックを受けた。

けれど当時小学生だった私は、「弟君のお世話、偉いねぇ」という周りの評価に誇りを感じていた。その枕詞に「障がい者の」がつくことが明らかだったからだ。周りの大人が私とHの関係をもてはやし、いつのまにか私も「障がい者の」Hがいることを美談にしていた。Hの幼い愛らしさ、そして周りの大人のその評価があったから、私は今までHを世話していたのだ。私は、今回の経験でそれがいかに考えなしであったかを痛感できた。

今年の夏休みの数日間、障がいを持った子どものお世話をする施設にボランティアに行った。以前からHも通っていた施設だったので、どのようなものか興味があったし、なによりHの過ごし方が気になっていた。

私は困惑した。Hの態度が家にいるとき以上に荒かったからだ。迷惑をかけることは最初からわかっていたが、現場にいると耐えられないものがあった。「他人」に害を加える弟を「可愛くない」「恥ずかしい」と思う自分がいたのだ。そのHの気を必死に逸らそうとしている支援員さんを間近で見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

子ども達を家に送るとき、Hがまた癇癪を起こした。車の中で暴れて泣き叫び、他人に迷惑をかける弟に私は不甲斐なさを感じて、「本当にごめんなさい。」とHを抑えながら、運転をしていた支援員さんに言った。

「いいんですよ。」と普段と変わらない声でおっしゃったので、気を遣ってくれているのだろうと思い、私は一層惨めに感じた。そのとき彼女は付け加えた。

「まだ『大きい赤ちゃん』って言えるもんね。」

彼女はベテランの支援員さんだった。沢山の障がい者をみてきて、沢山の障がい者を導いている人が、そう言った。私のそのときの衝撃なんてお構いなしに、Hは叫び続け、私にしがみ付いていた。

挨拶をして家に帰り着いた途端、涙がとめどなく溢れた。

それはHの将来を考えたからだ。彼も年をとって、私達と同じように中年になり、高齢者になる。「可愛いH君」じゃなくなる。世間が彼を許容しなくなる。

Hが成長した時、まだ「可愛いH君」として扱ってくれる人がどれだけいるだろう。急に大きい声をだして、意味が分からない行動をとる他人を、一体どれだけの人が尊重し、その家族を「偉いねぇ。」ともてはやしてくれるだろう。

その問いに対する一部の答えが「迷惑」「可哀想」「ガイジ」なのだ。障がい者が家族でも身内でもない人にとって、自分の理解の範疇を超える人間は異物なのである。

では障がい者は本当に怖くて、可哀想で、生きている意味がないのか?今回のボランティアの体験で、それだけは前よりも確固たる意志を持って否定できた。楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと。それぞれ表情豊かに今を鮮烈に生きて、命を輝かせているその姿は、私達と何も変わらない、人生を謳歌している一人の人間だった。その命に間違いも貴賤もないと、心の底から思った。

この経験によって、障がい者を蔑ろにする人にモラルが欠如しているとは思わなくなった。H達の現実を正確に想像し、慮ることは家族でさえ難しいのだと、身を以て痛感したからである。私は障がい者の家族になりきれていなかった。彼らと過ごさなかったら、私は一生馬鹿なままで、将来Hを煙たがる「他人」になっていただろう。「可愛さ」から離れていく弟を支え、彼の障がいに対する「障害」を受け止める。その覚悟があって、私はやっとHの家族になるのだと思う。

彼らを認め、理解するのは難しいと思う。それでも私は彼らを正しく知ってほしい。それは私がそうだったように、自分の考えと直面して、人間として成長できる機会を、彼らから受け取ることができるからである。

【一般区分】◆滋賀県

あっち側(がわ)とこっち側(がわ)

大角(おおすみ) 今日子(きょうこ)


「手帳を持ったら、ぼくらとは違う、あっち側の人間ですよ。同じことをしたいなんて、無理に決まってます。」

私が同僚にこう言われたのは、昨年のこと。長期間におよぶ原因不明の体調不良で、病院を転々とした結果、国の指定難病であることがわかった。数ヶ月の休職期間を経て、職場に復帰する際、自分のことをカミングアウトし、制限されていることもあるが、みんなと一緒に働きたい、一員になりたいと話をした後の一言であった。「あっち側」はいろいろな受け取り方ができるが、マイノリティーである、配慮がいる、障がいがある、そんな人を指すのであろうと感じた当時の私は、激しい憤りを感じ、彼に反論した。しかし彼は全く悪気はない様子で「だって、ぼくらと違うから手帳が出るんでしょ。」と当然のように言っていた。悲しくなった。

そんなことを経験した私だが、その数ヶ月後に自らが「あっち側」と「こっち側」の境界線を感じる出来事に遭遇した。難病支援センターでお世話になっている保健師さんの勧めで、障害年金の説明会に参加した時だった。入口で受付をすませ、会場に入ろうとした私は目の前に広がる光景を見て立ちつくしてしまった。私が今まで参加してきた仕事の研修会とは全く違い、車いすの人、酸素のボンベを転がしながら歩いている人、体に装具をつけていたり、スライドを見るために道具を使っている人もいた。様々な人が様々な状態で集まっている様子を目にして、どうしても一歩踏み出すことができない自分がいた。その時、彼とのやりとりが思い出され、その時の自分があんなに腹を立てたにも関らず、今このドアに「あっち側」と「こっち側」の境目を感じていること、自分が「あっち側」に入ることに大きな抵抗を感じていることに気づいた。私はあんなに悪くない、私は「こっち側」の人間だ、と差別心をもっていたのだと思う。

交流会の時間、沢山の話を聞くことができた。自分の病気やおかれている状況を隠したいと思っている私とは対照的に、参加者の方は病名や困っていることを堂々と話されていた。しっかりと前を向いて歩いている人、重度であってもいきいきと生活を送っておられる人を見て、「あっち側」の仲間だと思われたくないと入室できなかった自分の方が恥ずかしくなり、大きな葛藤がきっとあるだろうに、今の自分を自分として受け入れておられることに尊敬の念さえ抱いた。

説明会の後、保健師さんに自分のこの思いを話すと、「だから来れるかなって私も心配してたのよ。」と私のマイナスな感情を否定せずに受けとめて下さり、「いろんな人がいたでしょ。でもみんな頑張ってたでしょ。負けてないでしょ。強かったでしょ。あなたもその中の一人。よく頑張ってる、そしてこんなに仲間がいる。一人じゃない。」と仰った。数時間前まで仲間に入りたくないと入室できなかった自分が恥ずかしく、又情けなく涙が溢れた。そしてこんなに強く生きている仲間がいることが誇りにさえ思えてきた。

自分と違う者を排除しよう、離れようという思考は人間として当然で、何万年も昔から体にしみついている本能だと聞いたことがある。長い年月をかけて、様々な出来事や時代によって考え方の変化があり、自分とは異なる者も受け入れようとする今の時代が来ている。今はまだ変化している真っ只中であり、その過渡期はまだまだ、もしかしたらこれからずっと続くものなのかもしれない。自分が障がい者なのかそうでないのか、「こっち側」なのか「あっち側」なのか、と区別したり線を引いたりするのではなく、みんなが一人一人として堂々と胸を張って生きていける社会になることを願う。また、こうなった私だからできることを探していきたい。自分の思いを発信したり、マイノリティーと呼ばれる方の力になったり、「あっち側」に足をふみ入れた自分だからわかること、できることを探していきたい。そして、「あちら」と「こちら」の線がみんなの中から薄くなっていくように自分も活動していきたいと思う。

優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞

【小学生区分】◆岐阜県

おとうとのためにできること

岐阜(ぎふ)市立長良東(ながらひがし)小学校 二年
木村(きむら) 実和(みわ)


わたしには、五さいのおとうとがいます。少し前から、自分でスプーンをつかってごはんをたべられるようになりました。トイレもせいこうすることがふえました。でも、おとうとはお話することができません。おふろに入るときは、おかあさんがぜんぶ手つだいます。はしったりジャンプすることもできません。わたしがようち園のころ、おかあさんに、

「どうして、こうせいはほかの子よりできないことが多いの。」

と聞いたことがあります。するとおかあさんは、

「生まれつきのびょうきがあって、いろんなことがほかの子よりおそいんだよ。それを、しょうがいがあるって言うんだよ。」

と教えてくれました。

それなら、わたしがこうせいのことをたすけよう。おとうとのために、何ができるのか考えてみました。ごはんの前や外からかえったらいっしょに手をあらうことや、おもちゃのかたづけを手つだってあげること、トイレにつきそってあげること、ごはんを上手にたべられないときに手つだってあげること。これらなら、今でもやっているし、これからもできそうです。それをおかあさんに言ってみました。すると、

「ありがとう。こうせいくんのことをたすけてくれるのはうれしいけれど、じぶんでもできそうなことは、手を出さないで、おうえんしながら見まもってあげてね。」

と言われました。そして、

「みわはかぞくだから、こうせいくんの言いたいことが分かるでしょ。もしも外であの子がこまっていたら、しゃべれないこうせいのかわりに、みわがまわりの人につたえてあげてほしいな。」

と言いました。

それを聞いてから、おとうとの手つだいをへらしてみました。ごはんをたべるのがむずかしいときには、今までは私がスプーンですくって口まではこんであげていましたが、

「じぶんでできるよ、がんばれ。」

とおうえんしてみました。すると、おとうとはじぶんでスプーンをもってごはんをたべはじめました。

「上手だねぇ。」

とほめると、わたしを見てにこにことうれしそうにしました。おかあさんが言った、見まもってあげるといういみが分かりました。

くつをぬぐときやおもちゃをかたづけるときも、

「がんばって。」

とおうえんすると、しっぱいしても何回もちょうせんします。うまくいくと

「おねえちゃん、できたよ。」

と言いたそうにこちらを見ます。おとうとが一人でもできることをふやしてあげたいです。

せい長がゆっくりで、こまらせられることも多いけれど、わたしのおとうとはとてもかわいいがんばりやさんです。

【小学生区分】◆神戸市

おじさんともうどう犬(けん)

神戸(こうべ)市立長坂(ながさか)小学校 三年
後藤(ごとう) 季空(きそら)


わたしのおばあちゃんのお兄さんは、目が見えません。今は、八十さいぐらいですが、四十さいぐらいからもうどう犬とくらしています。もうどう犬としてはたらけるのは八年ぐらいなので何びきものもうどう犬とくらしてきました。

おじさんは、東京からわたしのすんでいる神戸までもうどう犬と一しょに一人で来ます。両目とも見えず、まっくらの中、新かん線やタクシーにのります。目が見えないとはどういうことなんだろうと思い、目をつむってみました。何も見えなくて何かにぶつかりそうで家の中でもこわいです。でも、光は感じることは出来ます。おじさんは、光も感じられずまっくらです。それでもおじさんは「目が見えないだけでそれい外はほかの人と一しょだよ。」と言います。どうしたらそんなふうに思えるのかわたしにはぜんぜんわかりません。もし、わたしの目が見えなくなったらかなしくて毎日泣いて外に出ようとは思えません。知らないだけでおじさんもそう思っていたのかな…と思います。

おじさんは、色んなところに友だちがいます。日本中のあちらこちらにもうどう犬と出かけて行くので色んな話をしてくれます。テレビやえい画で見るいい話ばかりではありません。ごはんを食べるお店でも「犬は入れません。」と何回もことわられたことがあるそうです。わたしのお母さんは、おじさんと「もうどう犬きょう会にきふをします。」という、箱が車内においてあるタクシーだったのにおりるとき「犬の毛やよだれとか落としてへんやろなぁ。」と言われてお母さんはすごくおこってタクシー会社に電話をして「もうどう犬に理かいがあるフリをするのはやめてもらえませんか!ぼ金箱をおいているのに運転手さんの言動はおかしいんとちゃいますか!」と言って電話を切ると、おじさんは「ありがとうね。そんなおこってくれて。でもこんなことはしょっ中あるんだよ。ハハハ。」と笑っていたそうです。世の中には、犬がきらいな人もいるし、においもするし毛が落ちるのも事実だけど、もうどう犬に理かいをしているフリをしていることにお母さんははらが立ったそうです。目の見えない人だけじゃなく、体の不自由な人がこまっていそうなときは「何かお手つだいできることはありますか?」と言いなさいとお母さんは言います。わたしの高校生のお兄ちゃんは「地下鉄で車イスの人がおりるとき手つだったらまわりの人にはく手されたわ。」と言うと「はく手するくらいやったらみんな手つだってあげたらええやん。」とまたちょっとおこっていました。

わたしも、もう少し大きくなったら、はずかしがらずこまった人に声をかけられるようになりたいです。

【小学生区分】◆富山県

わたしの大(だい)すきな弟(おとうと)

高岡(たかおか)市立福岡(ふくおか)小学校 三年
平野(ひらの) 花音(かのん)


わたしの弟は、今年小学校一年生になりました。

わたしの弟は、わたしが一才十か月の時に生まれました。弟は、けい度の知てきしょうがいがあります。ほ育園の時は月二回りょう育へ通っていました。小学生になってからは月二回作ぎょうりょうほうへ通ってうん動をしたり、字を書くれん習をしています。

弟が年長さんの時に、小学校のクラスを決める知のうテストをびょういんでうけました。けっかは、しえんきゅうへ入った方がいいと言われました。わたしは、それをママから聞いて、

「いっしょに小学校に行けるかな。」

「お友だちは出来るかな。」

と、とてもふあんでした。

四月になり、弟は小学校に入学しました。入学式の前日には小学校の先生が、弟のために入学式のリハーサルをしてくださいました。

入学式当日、弟はリハーサルのおかげで大きな声で返事をしたりきびきびと動いていました。わたしは、

「すごい上手だったよ!かっこよかったよ。」

と、弟をほめました。すると弟は、

「うん!だってもうお兄ちゃんだもん。」

と、え顔で返してくれました。

弟は、しえんきゅうのあすなろ組へ入りました。音楽や体育などみんなと一しょにうけられるじゅぎょうは一年二組でうけています。

わたしは、みんなが弟となかよくしてくれるか心配で休み時間のたびにあすなろ組まで弟の様子を見に行っていました。そんなわたしを見て、お友だちたちが、

「わたしも行きたい。」

「ぼくも行きたい。」

と、言ってくれたのでみんなで遊びに行きました。わたしは、

「みんな、あすなろに弟が入っている事をどんなふうに思うかな。」

と、心配していましたがみんないつもとかわらない様子で弟と遊んでいました。

「どうして弟くんはあすなろにいるの?」

と聞いてくるお友だちもいますが、

「弟は、みんなよりもちょっとだけマイペースだから、あすなろでゆっくりべん強しているんだよ。」 と、つたえています。

今では、弟の持ち前の明るさとにこにこえ顔でお友だちもたくさん出来て弟もうれしそうです。

弟は、出来ない事ばかりではありません。みんなより時間はかかるけど、弟のペースで一つ一つ出来る事をふやしています。算数のテストでは百点を何回もとっています。ゲームも家族の中で一番上手でやり方を教えてくれます。

わたしは、家族やお友だちや先生たちなどみんなが弟をしょうがい者としてではなく、一人の男の子としてかかわってくれているので、弟にとってもすごくいいかんきょうだと思います。みんなにはかんしゃの気もちでいっぱいです。

今もこれからもわたしは、明るくて周りの人を楽しませる事の出来る弟が大すきです。

「わたしの弟に生まれて来てくれてありがとう。これからもこまった時はたすけるね。大すきだよ。」

【中学生区分】◆静岡市

「個性(こせい)」と生(い)きること

静岡(しずおか)市立藁科(わらしな)中学校 三年
大棟(おおむね) 真衣(まい)


三年前。私の父は突然「障害者」になった。足の小さなけがが悪化してのことだった。父は二度の手術を行い、右足の半分を失った。父の右足は、下腿義足というものになった。以前とは全く違う、鉄とプラスチックでできた足だ。父はもう、普通の人のようにすたすたと歩いたり、走ったりすることはできない。体に大きなハンデを抱えてしまったのだ。

父が退院した後、私は、ついこの前まであったはずの父の足がなくなってしまったことが、自分の想像していた以上にショックだった。もう父と一緒に走ることはできなくなってしまった。これからどんな生活が待っているのだろう。日が経つごとに積み重なっていく不安が、呆然としている私の心に、大きすぎる存在感を残していった。それから私は、不安を紛らわしたいという思いもあり、「仕事が忙しい母に代わって、私が父を助けてあげないと。」という使命感に駆られていた。

そんな私の思いとは裏腹に、父との生活は不思議なくらい「いつも通り」だった。父は私の知っている、いつもの父だ。父は、落ち込んだり、怒ったりすることはなかった。それどころか、自分のことは自分でやっていたり、趣味を楽しんだりしていた。時には私をドライブに連れていってくれたこともあった。父は、障害を抱える前と同じように、いや、もしかするとそれ以上に充実した毎日を送っているようだった。父は、外を歩くときも堂々としている。歩き方が少し不自然でも、周りの目を気にすることはなく、ただ前を見て歩いているのだ。あまりにも「普通」な父の姿を見て、私は一度だけ

「なんでそんなに堂々としているの。お父さんは、周りの目とか、気にしないの。」

と、父に聞いたことがある。すると父は、すこし考えてから、私の目をまっすぐと見て、こう言った。

「お父さんは、自分の足を恥ずかしいとか嫌だとか思ったことはないよ。この足も自分の個性だと思ってる。ほら、誰にでもあるだろ。個性っていうものが。」

と。私はその言葉に衝撃を受けた。「個性」。それは誰にでもあるもので、人それぞれ違うもの。チャームポイントでもあり、コンプレックスでもある。私は父の話を聞いて、自分の個性を自分で認めることの大切さに気付くことができた。私は、普通にしている父を見て、「不思議」だと思っていた。でもそれは、私自身が「障害者は可哀想」と思い込んでいたからだ。

私は父の背中から学んだことがある。それは、「自分らしく生きる」ことの大切さだ。体に障害を持っていても、持っていなくても、それはその人の「個性」だ。誰だって毎日を一生懸命に生きている。だから、「健常者」や「障害者」という風に線引きせず、一人の人間として見てみると、誰もが「個性」を認めて、自分らしく生きられるはずだ。私は、あの日父からもらった言葉を忘れずに、個性を受け入れて、自分らしく生きていきたい。

【中学生区分】◆鳥取県

僕(ぼく)の挑戦(ちょうせん)

鳥取(とっとり)県立鳥取聾(とっとりろう)学校中学部 一年
竹村(たけむら) 颯太(そうた)


去年、家族で東京旅行をした時のことだ。東京駅のホームで周りの人たちが僕の頭をじろじろ見てくる。僕は、「また、始まった。」と思った。

せっかく、ドラえもんを作った「藤子・F・不二雄ミュージアム」や「ディズニーランド」、「スカイツリー」など、めったに行けない所に行って、さっきまで本当に楽しい気持ちだったのに、東京駅に着くなり僕の楽しい気持ちは、吹っ飛んだ。

僕にとって、こんな経験は一度や二度のことではない。以前にも鳥取のスーパーで幼い子に、「この人、変なのをつけてる。」と言われたことがあった。その時も、それまでの楽しい気持ちが吹っ飛び、悲しく辛い思いをしたことを覚えている。

僕は、生まれた時から難聴で、五歳の時に人工内耳の装用手術をした。初めて見る人にとっては、頭に機器が埋め込まれているのは珍しいことなのだと思う。

しかし、僕が相手の立場だったら、そんなにじろじろ見たりしないだろう。僕は、なんて、思いやりのない人たちだと思ってきた。

今年四月、僕は鳥取聾学校中学部に入学した。去年までは地元の小学校で学んでいた。

鳥取聾学校への進学については、少し悩んだが、母が「最後は、あなたが決めたらいい。」と言ってくれたので、僕は自分の考えで鳥取聾学校中学部に決めた。

入学してみると、鳥取聾学校中学部一年の生徒は、僕を含めて四人で、僕はこの仲間と一緒に勉強することになった。四人のうち三人は小学校からの入学である。

僕は、人工内耳を装用している先輩や同級生に僕の悩みを話してみた。すると、先輩や同級生の返事は意外なものだった。ある先輩は、「じろじろ見られても僕は平気。人工内耳も含めて、僕の耳だから恥ずかしくない。」と言われた。

また、ある同級生は、「人工内耳がどのようなものか説明する。」と言った。僕は、「二人とも強いな。そして、すごいな。」と心から思った。

僕は、二人の意見を聞きながら、もし自分が健聴者であれば、初めて人工内耳を装用している人に出会ったら、どうするだろうか考えてみた。

きっと、珍しくて人工内耳を装用している人を見つめてしまうのではないかと思った。その気持ちは、決して相手をいじめるとかそんなものではなく、本当に興味関心で見つめてしまうのではないかと気づいた。

僕の同級生は、相手に応じて三つの説明の仕方をあらかじめ準備しているという。これもすごいことだと思った。

今までの僕は、周りから見られることばかりを気にして、悲観する気持ちが強かった。この学校に入学して、先輩や同級生の考えを聞いて、僕の気持ちも少し変わり、チャレンジしてみようという気持ちが涌いてきた。

世の中には、いろいろな障がいのある人がいる。僕と同じように障がいのこと、使っている機器のこと、周りの人々との関わりなどで、いろいろ悩んでいる人がおられると思う。

これから、僕は少しでも聴覚障がいのこと、聴覚障がいのある人のことを周りの人に分かってもらえるよう、できることからやってみたい。きっと、この取り組みをすることが自分に自信を与えてくれると思うから。

【中学生区分】◆千葉県

偽(いつわ)りのない笑顔(えがお)

千葉大学教育学部附属(ちばだいがくきょういくがくぶふぞく)中学校 一年
永井(ながい) 妃咲(きさき)


全身がふるえて、唇が真っ青になりながらも、私は、勇気を振りしぼって、立ち向かったんだ。そう、立ち向かったんだ。

私が通っていた小学校には、脳に障害を持っているA君がいた。その子は、男の子達に机を蹴られたり、しゃべり方をからかわれたりしていて、見ている側が嫌になる程だった。元々、障害者に偏見を持っていた私は、見ていることしかできなかった。いや、偏見というより、怖かったんだ。

しかし、それを変える大きな出来事が起こる。それは、六年生になって初めて同じクラスになったことだ。同じクラスになって、共に時間を過ごすうちに、その子はすごく愛敬があり、頑張り屋な子だと知った。いつも笑顔で、家でお母さんと練習しているらしく、字を書くことや会話をすることが、どんどん上達していた。私は、そんなA君のファンになってしまった。話しているだけで、すごく癒されて、頑張っている姿を見て、すごく勇気をもらっていた。

しかし、六年生になっても、イジメは終わらない。どうしてイジメるんだろう、早く止めなきゃ、何度も、何度も、そう思った。しかし、勇気のない私は、行動に移すことができなかった。しかも、そのとき私は、男の子達がいないときだけ、A君の相談に乗る、という、すごく最低で、ずるいことをしていた。心の片隅で、相談に乗っているだけで偉くない?という気持ちが少しあったのだろう。しかし、繰り返すが、すごく最低で、ずるいことをしていたんだ。

そんなことをしていた私にも、心が変化する出来事が起こる。それは、A君が、一人のときに、とても「悲しそうな顔」をしていたのを見てしまったことだ。今まで、どんな事があっても、笑顔だったのに、それは、偽りで、一人になると、いつもこうやって悲しんでいたことが分かった。そのとき、無性に、男の子達に対しての怒りがわいてきた。そして、今まで体感したことないぐらい全身がふるえて、唇が真っ青になりながらも、こぶしをにぎりしめて言ったんだ。

「イジメの何が楽しいの?皆同じ人間なんだよ!」

これを言って、皆が障害者への偏見が無くなった訳ではないだろう。

しかし、私は、男の子から満面の笑みで、

「ありがとう。」

と言ってもらえた。あのとき、どんなにうれしかったか、言葉では言い表せない。

私は、世の中で一番大切なものは笑顔だと思う。障害者への偏見がなくなり、一緒に偽りのない笑顔になれる、そんな世の中になったら、どんなに素敵だろうと思う。

【高校生区分】◆大阪市

ひよこのストラップ

関西創価(かんさいそうか)高等学校 二年
奥田(おくだ) 千華(ちか)


「帰りたい。」これは障害者施設に入った瞬間思ったこと。

一学期、廊下の掲示板に福祉の職場体験のポスターが貼ってあった。参加してみたくて、担当の先生のところに行った。「君ひとりやわ、申し込んだん。」と言われた。職場体験の受け入れ一覧表を見ていると、デイサービスがほとんどだったが、障害者施設もあった。公立の小学校には青空教室というものがあるが、私は私立の小学校に通っていたし、家族にも親戚にも障害者はいない。だから今まで障害者と関わったことがなかった。私は看護師になりたい。障害者と関わることがいつかあるだろう。そう思い、私は夏休みに障害者施設に行くことにした。

申し込んでしばらくすると私を受け入れてくれる施設から電話があった。「駅からだいぶん距離があるので車で駅まで迎えに行きます。」この時は親切だな、しか思っていなかった。なぜ駅から遠いのか。この理由は職員さんが迎えに来てくれた時に知った。「一般の人が嫌がるから山奥にあるんですよ。最近ちょっとずつそうでもなくなってきてるみたいですけどちょい昔に建てられた障害者施設はみんな山奥ですね。」と悲しそうに笑いながら教えてくれた。

車で十五分くらいで施設についた。私が体験した施設は男性二十名、女性十五名、定員三十五名で年齢層は広かった。内職をしている人、ビーズ遊びをしている人、編み物をしている人、いろんな人がいた。私は利用者さんとビーズ遊びをした。そうすると、ひとりの利用者さんが私のところに歩いてきた。がしっ。首を掴まれた。すぐに職員さんが「ダメでしょー。」と言って、利用者を元にいたところに連れて行った。お昼ごはんの時間が近づき、利用者さんが手を洗った後に、ハンカチを渡すことを頼まれた。どうぞ、そう渡した時、がしっ。次は肩を掴まれた。またすぐに職員さんが、「はい行くよー。」と言って、食堂に連れて行った。私も利用者さんと同じご飯をいただいた。だけど、全然食べられなかった。緊張しすぎて、ご飯が喉を通らなかった。ご飯を終えると、利用者さんがいる部屋に行って、またビーズ遊びをしようと思い、廊下を移動していると、後ろに気配を感じて振り返った。私のことを追いかけている利用者さんがいた。びっくりした。「おねえちゃん来て。」そう言ってくれた利用者さんに近づこうとしたら職員さんに、「あの人はちょっと乱暴な人やからちょっとだけ距離おいてしゃべってね。」と言われた。私はたぶんとても距離を置いていたと思う。しばらくすると休憩をもらった。放心状態だった。

休憩が終わると職員さんに同じ法人の施設に何軒か連れて行ってもらった。その移動中に思い切って聞いてみた。「障害者の人が怖くないんですか。」失礼だとは分かっていた。だけどどうしても聞きたかった。そうすると、何も気にしていないような顔で「怖くないですよ。妹が障害を持ってたから。き っと一般の人は何も知らないから怖いんですよ。何をされるか分からないから怖いって思っちゃうんです。」と答えてくれた。私が掴まれたり、追いかけられたことを話すと、「モテモテじゃないですか。」とあまりに豪快に笑われたので、いつのまにか私も笑っていた。職員さんに紹介された施設に利用者さんが作った物を商品にして売っているところがあった。この利益は利用者さんの利益になるそうだ。だから私はかわいいひよこのストラップを買った。そうすると大きく万歳する人、手を叩いて喜ぶ人、何度も頭を下げる人、利用者さん全員が喜んでくれた。私からしたらたったの百五十円だった。でもこの光景を見たとき、買わせてもらってよかったと思った。このひよこのストラップはどんなブランドよりも価値があり、心がこもっている世界に一つだけのストラップだ。帰る時、利用者さんが笑顔で手を振 ってくれた。なんだか心があったかくなった。「来て良かったです。ありがとうございました。」職員さんにそう言った。

私は施設にくるまで、障害を持っている人はかわいそうだと思っていた。だけど、今は違う。障害を持っていることではなく、周りに受け入れてもらえない人がかわいそうだと思う。障害者の幸せを一番左右するのは家族支援だと職員さんが言っていた。なかなか受け入れることができない家族もあるらしい。なぜ受け入れられないのか。私たちが原因のひとつになっていないだろうか。障害者に対する偏見が障害者とその家族を苦しめている気がする。私はもっと障害者が住みやすい世界になってほしい。私たちにできることはたくさんある。例えば、障害者が作った商品を買うとか。これは私がしたことだ。すごく簡単なことだと思う。

この職場体験を終えて、障害者と一緒に笑顔になれる私に変わることができた。正直最初は怖かった。だけどそれは私が何も知らなかったから。障害者と関わったことがない人はたくさんいると思う。そういう人はどこかで関わってほしい。きっと心が優しくなるはずだ。

【高校生区分】◆沖縄県

私(わたし)の宝物(たからもの)

沖縄(おきなわ)県立美里(みさと)高等学校 二年
金城(きんじょう) 涼(すず)


母の涙を流す姿を見ました。それは小学生の家庭訪問の時、上級生にもなって泣きわめいたり、授業中歩き回る私を担任の先生は、「異常」だと思い、その行動は母親の教育に問題があると言ったのです。母は先生に涙を見せながらも何度も謝りました。私の母は十九歳で私を産み、二十一歳で二人の子を持つシングルマザーになりました。母は、私たちを養うために朝から夜遅くまで働き、私たちが悪いことをすれば厳しく叱り、良いことをすれば、これ以上ない程ほめてくれます。そんな母の教育のどこに問題があるというのでしょうか。そうです。私の“異常”には他の原因がありました。答えがでたのは数年後の中学三年の時でした。私はアスペルガー症候群という障害だと知りました。今まで何ともなかったのに、いきなり発達障害と言われてパニック状態になりました。思春期の私にとって大きな壁でした。そんな時、あの日の母を思いだしました。私の障害で涙を流し、苦しんでいる人がいることに気づいて私は変わろうと思いました。そのために、障害に一人で向き合い、数少ない友達や学校の先生には障害のことを隠しました。しかし、この決断が結果的に自分を苦しめることになりました。

それは高校二年生の春、部活動の仲間と言い合いになり良くない形で私は退部をしました。口下手な私の説明で相手に誤解をさせ、仲間や友達から信じてもらえず、結局大切な人たちを失いました。もし私が障害のない普通の女の子だったら、まだ一緒に部活動ができていたのでしょうか。こんな形で友人を失うことも無かったのではないでしょうか。それから、私の悪い噂は一瞬でクラス中に広まり、今まで楽しかった教室は居心地の悪い辛い場所に変わり、誰にも相談できず、一人悩んでいました。そんな私を救ってくれたのは二人の友達と祖母でした。一人の友達は、部活動でケンカしたことをお互い涙を浮かべながら、謝り合って仲直りすることができました。障害を知った時も、受け入れてくれて、私に「一緒に卒業しよう。」と言ってくれました。もう一人の友達は、私の障害についての辛いこと、苦しいことを聞いてくれて一緒に悩んだり、一緒に泣いてくれたり、私の心の支えとなってくれました。そして祖母は私のアスペルガー症候群の中で一番問題となっている溢れ出してしまう感受性にこう言ってくれました。「これはあなたの一番大切な宝物だ。素敵なものだ。」と。

私を受け入れてくれた三人のおかげで今、充実した日々を過ごせています。担任の先生にも話すことができ、先生のアドバイスのもとで成長に向け新たにスタートをきることができました。そして、堂々と私はアスペルガー症候群だと言えるようになったのは、自分に自信がついたことと、自分の障害を受け入れ、大切にすることができたからです。私の障害は、私自身を苦しめ、大切な人も苦しめます。そんな私の障害も私の大切な宝物で私の一部です。上手く向き合っていくためには、まずは一人で悩まないで人に相談すること。障害というものは、当事者や家族だけが向き合うのではなく、周りの人も一緒に向き合っていくことが大切です。そう教えてくれたのは、私を救ってくれたスーパーヒーローたちです。本当に私を受け入れてくれてありがとう。

そして、アスペルガー症候群と診断された方へ。これからたくさんの障害の壁にぶつかることがあります。でも、そんな時、あなた一人ではないことを忘れないで下さい。障害はあなたの一部で、あなたの短所にもなれば長所にもなります。だから、障害と一生をつき合っていくために障害を宝物として大切にして下さい。だって、アスペルガー症候群は、素敵で、大切に磨けば、あなたの一番に輝く宝物になるのですから。

【高校生区分】◆大阪府

普通(ふつう)ではなくて良(よ)い

ルネサンス大阪(おおさか)高等学校 二年
丹治(たんじ) 遥(はるか)


私が始めて「障がい」という言葉に出会ったのは小学一年生の時だった。同級生に「障がい」を持つ子がいた事もあるが、一番の理由であるその事は突然やってきた。それは自分が少しみんなとは違っているという事だ。

「な、に、ぬ、ね、の。あれ、『な』と『ぬ』と『ね』のくるっと回るのはどっちだったっけ」

「9の棒ってどっちにつけるのだっけ」

「あれ、おかしいな上手く書けないや」

文字や数字を書いたら鏡文字になる。板書をしようとしてもノートに向かうと覚えたはずのことを忘れている。残念ながら今も時々そうなってしまうのだが、その頃よりは自分なりの工夫で少し進歩したと思う。

小学生の時の私はこう考えた。

「みんなは出来ているから私にもできるはず」と。

「さぼっている。まじめにやりなさい。もっとがんばれ。」と周囲の声に押しつぶされそうになった。

今思えば「障がい」という言葉に出会った一瞬だったのだ。

みんなと違うと気付いた時、小さな私は何を考えていたのかはっきりとは思い出せないが、これだけは考えていたと思う。

「何で私は人とは違うの」

今ならそのままで良いのだよと小さな私にはっきり言えるのだが、人と違うことを恐れた私は、どうにかしないといけない、どうしよう、どんどん深い沼にはまっていってしまい、怖いという感情を沢山生み出していき、その結果学校に行くことができなくなってしまった。

その後病院では様々な診断名と病名を告げられた。

ある日、「ここに行ってみようよ」と母に連れられて行った場所は小学校の特別支援学級だった。生徒一人一人が自由に過ごしているその空間は、私にとって小学校でできた初めての居場所だった。特別支援学級で過ごしていくうちに、気づいたことがある。

「障がい」という言葉は、大きな括りで、それは人によって少しずつ変わるということだ。何を「障がい」だと捉えるのか、どこからが「普通」なのか、目が見えない、耳が聞こえない、身体に動かないところがある、そして私のように人と少し違う、と挙げだしたら止まらない。その終着点はどこにあるのだろうか。行政が発行してくれる手帳、電車やバスの優先座席や点字ブロックに音声案内、手話に筆談、車椅子に松葉杖、その全ては、生活していく上で大変なことを補うために、工夫してできたものだ。不自由を感じる人達の声で何十年もかけて取り組み、改良されてきた「普通」に近付く為の制度や道具たち。

それでもまだまだ生きづらさを感じている人は多数いて、その中の一人としての私には何が出来るのか。

今年の四月から市の主催する手話講座に参加している。初めは特技の一つとして習おうと軽い気持ちで考えたのだが、ろうあ者の皆さんや他の受講者の方々の熱意に私の考え方は根底から覆された。これまで手話はろうあ者だけの言葉であると思っていた。しかし、講座では手話の形を覚えるだけではなく、それを読み取る力、相手の言いたい事を理解し、自分の気持ちを表現する大切なコミュニケーションツールであるという事を学んでいる。ろうあ者の皆さんは手話をより多くの人に理解し、使ってもらいたいと考えている。

実際、手話通訳者の人数はまだまだ足りていない現状がある。

私は人とコミュニケーションを取ることが不得意で、聴覚過敏、視覚過敏があり大勢の人が集まる場所ではパニックを起こしてしまうことがある。自分の努力だけではどうにもならない不自由を感じつつ生活している。

これまで私は主治医、カウンセラー、支援学級の先生、ソーシャルスキルトレーニングの先生、そして家族など沢山の人に助けられ支えてもらいながら進んできた。その中でこのままで良いのだと言う事と、自分の特性を個性として受け入れることを学んだ。

今私はこれから将来に向けて、私自身のこれまでの体験を活かし、得意な分野であるIT技術を使って不自由を感じている人、一人一人に合ったサポートが出来ないかと考えている。手話を言葉に、言葉を手話に変えることだって可能だ。

小学校で苦手な作業であった板書、音読などをサポートできるアプリケーション、文字情報を画像で読み込み音声化するシステム、考え始めると次々にやりたい事が浮かんでくる。


「障がい」のある人も無い人もみんながお互いに理解し、寄り添える社会、それらが私の将来の夢に繋がっている。

【一般区分】◆和歌山県

人生(じんせい)を支(ささ)えてくれる人(ひと)たち

奥野(おくの) 幸子(さちこ)


いつもいつも一人住まいの私を気づかって代わる代わる尋ねてくれる有りがたい友達のグループがいてくれる。

いきなり目の障害になったのが今から五年前のことです。何の心配もせずに受けた緑内障の手術で眼圧が下がらず中心の視野が欠損しました。その日を境に私の目はまっ暗になり失明の一歩手前でした。家の中も一人で動けなくなりました。そして、わずか九十日で住み馴れた家を出て目の施設に入所することになりました。何が起こったのか。友達は誘い合って旬のおかずやちらし寿司を食べさせてくれました。

洗濯や施設への持ち物の名前書きも手伝って用意をしてくれました。一番ありがたかった事は不安や怒りでちぎれそうになっている私の心をほぐし寄り添ってくれたのです。

三十年来の友だちに支えられ生きていました。暗い地の底で全ての人や物に感謝でした。

施設に行って五か月の頃、通院で眼圧を下げる再手術を受けることになりました。

往復百七十キロの道のりはいくらタクシーでも大変でした。友だちは、ローテーションを組んでタクシーに同乗し見えない私の脇を持ち連れて行ってくれました。

みんなに手を引かれながら私はいつまでも、死にたい、一気に終わりたいなどと、もったいないことを思っていることがはずかしくなりました。友だちの大切な時間優しい励ましに、これからは前を向いて生きるのだと力が湧いてきました。

再手術から一ヶ月が過ぎる頃、目の前が明るくなり一本の光りが差し込みました。目は見えないが光りの筋が重なりました。

光りがあることで足元が明るく感じられる。

それは眼圧が下がった結果だと思いました。暗い地底からは少しはい出したような。三ヶ月が経ち両目の眼圧が下がり今までかすんでいたもやが取れたみたいです。手すりを頼りに施設の廊下を歩けました。自分の力で一歩ニ歩とゆっくり前に動けました。

「ヤッター。行けた行けた。」

と大声で叫ぶと周りのみんなが

「よかった。よくやった、おめでとう。」

と肩をたたいて喜んでくれました。

それからも施設の仲間に点字図書館のあることやテープやプレーヤーを貸してくれることも親切に教えてくれました。

再手術の通院は半年で終わりました。

ライトハウスのカタログを友だちが読んでくれました。拡大読書機のあることを知りました。光りがちょっぴり戻った目に使えるのか県立図書館へ実物をさわりに行きました。

拡大読書機の上にハガキを置き倍率を八倍ぐらいに上げると文字が浮き出し見えました。

特徴のある友の字が飛び込んで胸が熱くなりました。そばにいた二人の友だちが

「すごいな。あなたの笑顔を久しぶりに見た。いつもの幸ちゃんになってきたよ。」

と言って辺りも気にせず拍手をして三人で肩を抱き合い無言で喜びました。

「文字が見えると何かできる。生きるぞ。」

という勇気を与えてくれました。

拡大読書機も上手に使えるようになり台上で文字が書けるようになりました。

昨年十二月。五年ぶりにわが家に帰りました。やさしかった夫や義母も亡くなりさみしい帰宅でした。子育て中の長女と孫が迎えてくれ、わが家の玄関を入りました。

長女は二百キロも離れた所に住んでいるが家の中を片づけ暮らして行けるようにしてくれました。勿論友だちが掃除、草ひき、買い物と力になってくれました。

「ありがとう。ありがとう。」

と何回お礼を言っても感謝しきれません。

市役所の方々にも大変お世話になっています。安全面で目の不自由な者への風呂、便所廊下などへの手すり付けです。

施設での生活と変わらずの環境でした。前の記憶がよみがえり元気が出てきました。

友だちは、多年の支援にも誘い合って来てくれます。

「あんた話できるからまだいいよ。不便や不自由はあってもあきらめず、あせらず、ゆっくりやるんよ。」

とその時々の言葉かけをしてくれます。

私は常々同じ障害を持っている人の仲間に入れてほしいな。と思っていました。

今年やっと念願が叶い「市の視覚障害者協会」に入会しました。仲間の話から苦労の中から工夫していることや五感を働かせていること、生活の中で段々なれて自信がついてくる。など、たくさんあって中途視覚障害の私にはどれもが役に立つことで使っています。

工夫しながら頑張っている先輩たちの

「あきらめなかったら何でもできるよ。時間はたっぷりあるから大丈夫だよ。」

と背中を押してくれます。経験の上に言ってくれる尊い言葉です。中途障害者と言って甘えてもおられません。自分らしく前を向いて生きるのです。

一人住まいの家も、ヘルパーさん、訪問看護の先生、薬局さんが来てくれます。近所の人も声をかけてくれたり草ひきもやってくれます。

咲いた花もくれてとても明るく交流してくれます。温もりのある皆様の気配りに

「ありがとう。戻ってきて良かった。」

と心からのお礼を言うのです。

世の中は一人で生きては行けません。弱い所を補なって笑える一日にしたいです。私が前よりももっと心がけていることは

「すみません。ありがとう。」

を心からのまごころで相手に伝わるように言うことです。六十七才で失明寸前となり急な経験、人生のレールからはずれ大勢の人に助けられ今、生かされていることに感謝の気もちで一杯です。力強く生きぬきます。

【一般区分】◆埼玉県

生(い)きていく理由(りゆう)

須藤(すどう) 優斗(ゆうと)


私は生まれつき脳性麻痺という病気を持っている。そんな私が、今春から大学生活を送ることになった。小中学校と地元の学校に通っていたが、いじめを機に高校は特別支援学校に通うことにした。特別支援学校という完全に守られていた環境から抜け出した私に待っていた「大学」という環境。何も守ってくれるものなどは無く、いじめを受けていた小中学校の頃が頭の中を何度も横切った。入学前までは「たくさん勉強して、友達や先輩と仲良くなって、自分の障がいを最大限に生かすんだ。そして、その学びを社会に出て思いっきり広げるんだ。」という希望で溢れていた。

しかし、過去には中学二年生で同級生複数人からいじめに遭い、友人からも裏切られ、人を信用できなくなった私。その出来事は私を「自殺」という決断までに追い込んだのだった。とにかくこの世界から逃げたかった。ただただ生きていることが辛くて、人と関わるのが嫌だった。この出来事が私を特別支援学校へと導いたキッカケであった。いざ特別支援学校に入学してみると、私の想像を遥かに超えるものであった。勝手なイメージとして、先生が主体として生徒がそれらに受け応えをすると言った、機械的に学習していくのだと想像していた。しかし、それは大きな誤解であった。実際は生徒が主体となって、あくまで先生は生徒を支える立場という、イメージとは真逆の教育環境に衝撃を受けた。何よりも印象に残っているのが、「笑顔」だ。障がいを抱えているにも関わらず、いつも笑顔でキラキラと輝いている生徒を目の前にし、私は自分が情けなくちっぽけな人間だと強く感じた。そのとき、「自分も負けてられない。障がいという能力を生かして、この社会に大きな変化をもたらしたい。」という思いが芽生えた。その思いに応えるように、第一志望の大学に合格することが出来、入学を待ちわびる日々が続いた。

そして、待ちに待った入学。まず始めに大学の友達を作ることを目標にした。入学当初はすぐに出来るだろうと思っていた。しかしながら、そう簡単には出来なかった。小さい頃から私の発音が変だと笑われてきたトラウマがあるため、なかなか自分から声をかけることが出来なかった。周りの人は皆友達がいる。入学して二週間も経たないうちにいくつかのグループが出来ていた。次第に焦りを感じ始め、「このまま四年間友達がいなくてもいいや。」と考えるようにしたが、無理だった。そこで私は部活に入部することにした。部活に入れば、共通の趣味を持った人と知り合えるから、友達が出来るかもしれない。先輩も出来るかもしれない。そんな期待を胸に入部した。それでも初めは怖かった。新入部員が障がいを持っていて、ましてや声も聞き取りにくいからどんな反応をされるのかが怖かった。もしかしたら入部を拒否されるかもしれない。いじめられるかもしれない。そんな不安もあったが、先輩たちは私を受け入れてくれた。さらに同級生にも受け入れてもらい、一緒に話したり、帰ることも多くなった。そんな中で「この部活に入って良かった」と思えた出来事があった。それは、部活の旅行での事だった。飛行機で行くために成田空港に早朝の集合だったため、始発では間に合わなく前泊する予定でいた。しかも、一緒に行ける人がいなく一人で行くつもりでいた。すると、旅行前日に先輩からある一通のメールが来た。その内容は「車で行くから、一緒に行かないか。」というメールだった。そのメールを見たとき、嬉しさよりも驚きの方が大きかった。こんな自分を誘ってくれたことに驚きを隠せなかった。その驚きと同時に「先輩たちの楽しい雰囲気の中に自分なんかが入ってしまっていいんだろうか。自分のせいで楽しい雰囲気を壊してしまうのではないか」と心が揺らいだ。しかし、せっかく誘ってもらったのに断る方が失礼だと思い、乗せてもらうことにした。いざ乗せてもらうと緊張で胸がいっぱいだった。「本当にいいのか。」なるべく雰囲気を壊さないようにした。でも、空港までの道中は暖かな空間だった。普段はなかなか先輩たちと一緒にいる機会が無いからこそ新鮮だった。何より先輩たちの優しさには感謝してもしきれない。車に乗せてくれたこと。嫌な顔せずに私の話に耳を傾けてくれたこと。あの車内での一秒一秒が私にとっての忘れられない大切な宝物だ。

また学校生活でも、一緒に過ごす友達が出来た。今までは一人で食べていた昼食がいつも以上においしく感じた。歩くスピードが遅いと、立ち止まって待ってくれる。何か困っていることがあれば手を貸してくれる。

私は今、とても幸せな時間を過ごしている。なぜなら、私の身体を理解した上で私と接してくれている友達や先輩がいるからだ。

障がいがある人と無い人との心の輪。それは何気ない日常の中にあるのだと私は思う。障がいがある人と無い人がお互いに心を開くのは簡単な事では無い。ただ、そのキッカケは何気ない日常のどこかしらに潜んでいる。私はそのキッカケをいくつも見つけることが出来た。一度は人から遠ざかり、死の直前まで追い込んだ私が、今はたくさんの人と繋がっている。だからこそ、私は生きたい。たとえ、世界中の人が私の存在を嫌がっても、私には支えてくれる人がいる。私はその人たちに恩返しをするためにも、今を強く生きていきたい。不器用でも、気持ち悪くても構わない。それが須藤優斗だ。


私にとっての障がいがある人と無い人の関わり。

それは「生きる原動力」だ。

【一般区分】◆徳島県

二人三脚(ににんさんきゃく)

中西(なかにし) 美和(みわ)


背伸びして早く大人になりたいと思っていた私が、世間を知らないままに母親になった。

今の時代は分からない事はネットで検索するとすぐに答えがでる。良き時代、又は悪くもある時代とも言える。二十五年前は育児の本を片手に子育てをした。個人差はあるものの一歳前後には一人歩きできる。長男もあたりまえのようにすくすく成長し三歳になる頃に次男が誕生した。子育ても二倍になり、毎日が目まぐるしく忙しかった。次男の成長はゆっくりとしていた。首が据わるはずの生後二、三ヵ月になっても据わらないまま月日は過ぎさった。

長男も保育園に通園するが、風邪をひいたりして体調を崩すと、免疫力の弱い次男は高熱を出して病院通い、最終は入退院の繰り返しで一歳までには七、八回入院生活をしたせいか成長過程の段階にも遅れが生じていたのは現実だ。乳児検診の度に保健婦さんの言葉は個人差があるので「ゆっくり見守りましょう」と言うのが毎回だった。完全に首が据わったのは生後八ヵ月を過ぎて初めて迎える春でした。

次男の成長過程が気になり悩んだ末に、親友に相談すると真剣に話を聞いてくれリハビリを紹介してくれた。二人三脚親子で頑張って行く覚悟を決めた訓練。週二回のリハビリ通いが始まった。緊張感が低かった次男を作業療法士の先生がさまざまな道具を使い訓練してくれた。その訓練も機嫌のいい時は素直にしてくれるが、機嫌が悪い時は中断する時もしばしばあった。中々前に進んで行けない成長ぶりに自分が妊娠中に無理したのがいけないのかと責め続け泣いた夜も山ほどあったが、涙を沢山流した数だけ強くなったような気がする。

目標は卒業と言ってもらうことと高く設定し、前を向いて歩いて行く覚悟を決めると、自然と気持ちも楽になった。

さまざまな訓練の成果もありハイハイができ、お座り、つかまり立ちができ一人歩きができた。一人歩きができた瞬間は今も鮮明に覚えている。自宅にも帰ってきて、興味を示めしていたしゃぼん玉を追いかけ歩数も増えつつあった。二才三ヵ月でリハビリを卒業し、今度は言葉の訓練として言語療法を開始した。

遊びの中での言葉の発語訓練。いつしか次男も楽しむ喜びを覚え帰る間際には大泣きしていた頃が昨日のように感じる。

やがて保育園、小学校、中学校、高校と卒業。そして就職し一社会人となった次男。山あり谷ありの学生生活では担任の先生を始め特殊学級の先生のサポート体制のおかげで学校行事にも参加する事もできた。同じ目線になって指導してくれた成果が今に生かされている。

過去は振り返るなと言いますが、今思えば殻に閉じこもっていた私。世間や近所の目を気にしながら、成長過程の遅い次男を殻に閉じ込めていたのは私だったかもしれません。

一枚の詩をくれた福祉課の担当職員さんのおかげで殻に閉じこもっていた私を大きく変えてくれた詩が「天国の特別な子ども」エドナ・マシミラ。何度も読むにつれて心が惹かれていき私の子育ての人生が大きく左右された第一歩とも言えるだろう。だからこそ遮断機の前で立ち止まっている身近な人達には、この詩をお勧めしている。

支えてくれた両家の両親、ドクター、作業療法士、言語聴覚士の先生、福祉関連の方々、友達、家族のささえで今日まで頑張れた。でも一番頑張ったのは次男かもしれない。その次男に栄光をたたえたい。

何度も繰り返し失敗する過程の中でいつの日か人は成功を求めその目標に到達する。その喜びが人生の宝となるのは違いないだろう。

千の倉より子は宝。何よりも尊い宝。私を母親にさせてくれた我が子に。そして色々な経験を学べ成長させてくれた事に感謝の気持ちを込めてありがとうと伝えたい。

※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページ(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r01sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。

※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。

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