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交通事故被害者の支援 第7章 交通事故被害者支援の具体例

III.手記

悪質交通事故で子ども二人を失って

   〜精神的な問題にどのように対処してきたか〜


 1999年11月28日、東京都世田谷区の東名高速道路上で、酒酔い運転の大型トラックに追突され、当時3歳と1歳だった娘2人を失いました。その後、私が歩んだ道の中で、特に精神的な問題に対処するためにどのような支援を受け、今もどのように対処しようとしているかをご紹介します。

1.事故に遭遇して

 事故に遭遇し、子どもたちは私たちの目の前で焼死しました。夫は全身の25%に大やけどを負い、直ちに救命救急センターに搬送され、手術を立て続けに3回受けました。
 私自身、妊娠8ヵ月の身重の身でした。あと6週間で3番目の子どもが誕生するというときに、上2人の子どもたちの葬儀をすることになりました。
 本来、夫が果たしていたであろう喪主の代理という役目を、号泣することもなく淡々と務めていた私を見て、多くの人は「なんて気丈なお母さんだ」と言いました。
 また、悔やみの言葉のあとに必ずといってよいほど、「今度また新しい命が誕生するのですね。良かったですね。生まれ変わりですね」という言葉が続けて言われました。いくら次の子どもが誕生すること自体はおめでたいとことだったとしても、子ども2人を失った途方もなく大きな喪失感に対して、それがまったく慰めにならないということを誰も気がつかないようでした。
 当時、私がもっとも求めていたのは「あなた自身が助かってよかった」とか、「ご主人が助かったのが救いですね」とか、「今はとにかくこれから生まれてくる命のことだけを考えて」のような慰め、励ましを意図した言葉ではなく、この絶望感、怒り、悲しみを少しでも理解しようとして、ともに泣いてくれる人でした。


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 事故に遭ったのが11月末。事故以前から従事していた会社員としての仕事は、忌引きからそのまま産休、さらにその翌年の3月末までの育児休暇に突入することとなり、出産予定日の前日まで、私は夫の入院する病院に毎日通いました。
 救命救急センターというところは、本来、家族といえども見舞いを許される時間帯や見舞い時間の長さが厳しく制限されているところなのですが、医師らの理解があって、特例的にそれらの制限を外してもらうことができました。
 そのような臨機応変な取り計らいはとてもありがたかったです。なぜなら私は同じ事故に遭遇し、同じく最愛の子どもを亡くした夫という、私のおかれている立場にもっとも近い被害者と時間を気にすることなく、電話などに邪魔されることもなく、心ゆくまで語り合うという貴重な機会を得ることができたからです。
 それは事故により、ざっくりと開いてしまった、とてつもなく大きな心の傷を少しずつ癒していくために必要な過程だったと思います。


2.一番の危機

 ところが、私にとっての一番大きな精神的危機は、事故から約5ヵ月たって、翌4月に職場復帰してから後に訪れました。事故以前と全く変わらない職場、温かく理解のある上司や同僚。仕事内容も以前とほとんど変わらないのに、自分だけがもう二度と以前の生活には戻れないという事実を受け入れざるをえなくなりました。
 「どうして同僚は、毎日毎日、無事に過ごせているのだろう?」
 「どうして私たちは事故にあってしまったのだろう?」
 と、他人の日常的な幸せを妬むような、嫌な感情に何度も襲われました。また、仕事の都合上、どうしても事故以前のお客さまに会うことなどが必要でしたが、それはやはりとても大きな勇気と苦痛を伴うものでした。
 事故以前の日付の書類を見ただけでも、場所をわきまえず涙が落ちてしまいます。慌ててトイレに駆け込んでひとしきり泣き、顔を洗って、どうか誰にも気がつかれないようにと祈りながら、こっそり自席に戻ることもしばしばでした。このような状態では、とても集中して仕事をできる状況ではないという焦りを感じはじめていました。そこで、少しお休みをいただいて、家でゆっくり過ごすことにしようと思い立ちましたが、これがもっとひどい結果を招くことになりました。


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 お休みをいただいて、昼間、誰もいない家でただただ"ぼぉーっ"とベッドで寝そべっていると、どんどん記憶が事故当時に引き戻されるような感覚を覚えました。トラックに追突される直前の模様から、追突の瞬間のこと。車がただちに2台とも炎上し、私たちがそれぞれ助かるまで、それまでも何百回となく頭の中で繰り返されていた情景が、ベッドで横たわる私の脳裏で際限なく上映されます。
 そして、何度そのシミュレーションが繰り返されても、子どもたちは助け出せなかったという結果は変わることがなかったのに、状況をよく知らない人らから発せられた言葉が、まざまざとよみがえってきます。
 「どうして子どもたちを助けられなかったの?」
 「窓からでも放り投げたらよかったのに…」
 「チャイルドシートがアダになったのね」
 「シートベルトも良し悪しね」
 そのような言葉が凶器のようになって私に突き刺さり、いつしか加害者本人に対する憎しみより、そのような心ない言葉を言った人たちに対する怒りのほうが強くなってしまっていました。
 このような精神的な状況では、とても仕事どころではないと、ますます焦りました。30歳も過ぎた社会人なのだから、自分の感情なんて当然コントロールできるはずと思っていた私が、初めて経験するような激しい心の乱れでした。
 そして、このままでは「もしかしたら自分は感情を爆発させて人に危害を加えるか、あるいは感情を抑えようとするあまりに気が狂ってしまうかもしれない」という、深刻な危機感を抱きました。


3.プロに支援を求める

 意を決して、一本の電話をかけることにしました。
 その電話は、書店で見つけた『犯罪被害者遺族』(小西聖子著、東京書籍)という本の巻末資料に掲載されていた、当時の東京医科歯科大学内「犯罪被害者相談室」につながるものでした。
 折しも、私が電話をかけたその4月の初めに、同相談室は「被害者支援都民センター」として生まれ変わったばかりで、新しい番号が案内されていました。
 都民センターにかけて、「カウンセリング(面接相談)を受けたいのですが…」といきなり要件を切り出し、さらに少しだけ事情を聞いていただいただけで、無事カウンセリングの予約を入れていただくことができました。


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 その折の電話の対応がとてもよかったので、私はすんなりと予約どおりカウンセリングを受けるために、都民センターを訪れることができたのだと感じています。初めてプロに支援を求めるための一本の電話をかけるということは、莫大なエネルギーを要するものでした。
 自分のことは自分で管理できるはずと思っていた自尊心も、本来は「家の中のこと」であるプライバシーを外部の人に漏らすという羞恥心も、さらに「他人が果たして自分の気持ちを分かってくれるか? 他人を信じても大丈夫か?」という猜疑心(さいぎしん)もすべて捨て去って、支援を求めたのです。そのような決意が少しでもぐらつくような電話の対応だと感じられたら、私は二度と外部に支援を求めなかったかもしれません。

 カウンセリングに当たってくださった先生は、とても柔和な印象を受けるベテランの犯罪被害相談員でした。2週間に1回のペースで毎回1時間、私がほとんど一方的に話をし、先生は時折メモをとりながら、「うんうん」とうなずいて聞いてくださいました。
 相手がプロだから、すなわち話した内容が絶対に第三者に漏れることはないという安心感のもとでこそ、夫にも親友にも吐き出すことのできなかった話ができました。当初カウンセリングを受けるきっかけとなった激しい感情も、一度きちんと他人に聞いてもらい、私の気持ちを理解してもらうことによって、不思議と怒りが遠のいていくような気さえしました。
 ただ、この時期はどうしても2週間という短い期間の合間にも、新たに怒りや悲しみの対象となるような出来事や周囲の人の言動が次々と起こりました。それをその都度、吐き出していくという作業を繰り返しながら、少しずつ落ち着いていくことができたのだと思います。


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 カウンセリングでは、聞かされるのも辛く、心に重くのしかかるような話を毎回毎回するのです。担当の先生は、私だけを診てくださっているのではありません。相談者は少し心が軽くなっていくかもしれませんが、相談を受けている方は生半可な気持ちではとても対応できないものだと思いました。
 「先生、こんな重たい話ばかり聴かされて、辛くなることはありませんか?」と一度、お聞きしたことがあります。先生はにっこりと微笑まれて「でも長年続ける中で、相談者との信頼関係が築きあげられていくのを感じられたときに嬉しいものです」とおっしゃっていました。
 改めて、人の心の健康を保つために手助けをするこの職業の大切さ、奥の深さを知らされたような気がしました。


4.自助グループに参加して

 もう一つ、事故から4年経った今も続けているものが、自助グループへの参加です。月に1回、同じような被害にあったもの同士が集まり、2時間ほど互いの気持ちを語り合うのです。
 自分より何年も前に被害にあわれた方もいれば、ごく最近、遺族になられた方も参加しています。被害の状況やその後たどった経過は、まったく異なっていても、いろいろなことを語り合っているうちに、同じような気持ちを抱いていると気づくこともあります。たった一人の子供を失ってしまった親の悲しみもあれば、亡くしてしまった子どもの兄弟姉妹への対応に苦悩する親も参加します。
 自助グループでは、悲しみや怒りなどの感情には良いも悪いもないということが伝えられます。そしてさまざまな人の話を聴きながら、自分の考えを徐々に口に出せるようになっていく場でもあります。

 被害にあってから年数が経つにつれ、身近な人に対して、事件や事故のことを語りにくくなっていく場合が多くなります。
 本当は事件のことやその後、自分が考えてきたことを、人に聴いて欲しいと思っても、せっかく時間の経過とともに平穏を取り戻したかのように見える被害者の心にまた波風を立てるようなことを、あえて周りの人は協力したがりません。
 実は、毎月の自助グループに出席する際にも、自分自身が葛藤しながら半ば強制的に身体を自助グループに持っていっています。
 自助グループに参加したら、また過去の傷を開くことになるかもしれないという怖れが必ずつきまといます。今月こそは、他の参加者の前で特にしゃべることはないだろうと思ったりもします。でも、不思議なことにいざ自助グループに参加してみると、他の人の発言が誘い水になって、普段なかなかゆっくりと考えて言葉にすることのないことも口をついて出ます。
 社会の制度や関係者の対応がおかしいのでは? と思っていた自分が異常だったのではなく、実は他の被害者も同様に思っていたのだと知ることによって、安心してそれをとことん語ることができます。
 自助グループでは、事件のことや個人の思いを何度繰り返し述べても、嫌がられたり、軽んじられたりすることがありません。涙を流すこと、あるいは反対に、被害者が大きな口を開けて笑うものではないと、人の目を意識して普段はなかなか笑うことのできない人でも、自助グループでは遠慮がいりません。
 泣くこと、笑うこと、あるいは繰り返し語ることから、次の一歩が見えてくることもあり、それが被害者の回復につながっていくと思われています。


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 年数を経た被害者でも、安心して胸の内を語れる場所があるというのは、本当に大切なことだと思いますが、残念ながら日本には犯罪や事故の被害者のための自助グループが、まだまだ数の上ではほんのわずかしか存在しません。
 自助グループの意義はおろか、その名称さえも知らない被害者がほとんどです。自助グループというものが存在するということ、それが大きな意義をもち、効果をあげていることが、せめて被害者と接する機会の多い人たちの間でも知れ渡るだけでも、大きな前進ではないかと思います。
 そして一日も早く、遠い大都市に行かなければ自助グループに参加できないという事態が改善され、被害者の住む町でも自助グループがあり、気軽に参加できるという社会になって欲しいと願っています。


5.もう一つの支援

 最後に、私自身の体験から、プロ以外の人、いわゆる友人知人から受けた支援でとてもありがたく嬉しかったものをご紹介します。
 言葉の響きからか被害者の「支援」、ことに精神的な支援は、専門家がやるものという固定観念を抱き、そういう職業に就いていない一般の人にはできないもの、あるいは関係のないものと捉えられてしまう人がいるのは残念なことです。
 でも私は、プロでも何でもない人から助けてもらった割合のほうが多かったと思っています。
 事故直後から、何十人何百人という人から、「何かお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃってください」と言われました。手伝ってもらいたいことは、山のようにありましたが、被害直後の自分自身が他人にいつどこへ来て何をして欲しいと、手伝いを依頼するのは不可能に近いことでした。
 実際に協力を頼んでみても、都合が合わなかったり、かえって気苦労がたまってしまったりしました。そんな中で、一歩踏み込んできてくれた幾人かの友人知人がいました。
 ある親友は自ら忙しいながらも、自分の空いている週末を事前に教えてくれ、「もし、やることがなくても子守りぐらいはできるから」と、家に何度も来てくれました。いざ家に来てもらうと、頼めることはたくさんありました。
 送られてきた署名用紙の整理、新聞記事のファイル、手書き原稿の入力という事務的な作業を依頼しながらも、自然と会話が弾みました。事故のことが話題にのぼっても、親友は嫌な顔一つせず、逆に亡くなった子どものことについて興味をもって聴いてくれる。そういうさりげない対応や心遣いがどれほどありがたかったことでしょうか。


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 カウンセリングや自助グループに参加できる日時は、前もって決まっていますが、怒りを覚える出来事や改めて大きな絶望感にとらわれるようなことは、突然襲ってきます。
 そしてそのような感情をもてあまして悶々と思い悩んでしまうのは、たいてい忙しくしている日中よりは、深夜家じゅうが寝静まってしまってからのことでした。そんなときに助けられたのは、気軽に電子メールで思いのたけを聴いてもらうことのできる友人知人の存在でした。
 怒りでも、愚痴でも、受け止めてくれる友人がいることは、大きな心の支えになりました。そのような支え手は、必ずしも同じような経験をしている被害者や遺族でなくてもよいのです。人の心を思いやることのできる人、想像力を働かせることのできる人であれば、被害者の心の叫びに耳を傾けて、ともに感じることはできます。
 私たちが望んでいるのは「お気の毒な被害者」というレッテルを貼られて、腫(は)れ物のように扱われてしまうことではなく、あるいはこれ以上被害にあわないようにと、社会から隔離されてしまうことでもなく、再び世の中を信じることができるように、ともに悲しみ、ともに怒り、これから何をしたらよいのか、ともに考えてくれるよき「隣人」なのです。


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